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Monday, March 26, 2012

war and experience for women 戦争と女性の経験

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5283/8/Honbun-4173_05.pdf

V.戦争と女性の経験

A.戦争と女性の経験に関する口述史研究

1.研究目的
韓国で口述面接(oral interview)あるいは口述史(oral history)研究は、人類学と女性学を除いた社会科学分野では今まであまり用いられる方法ではなかった。とくに、歴史学のような分野では、口述資料は文献資料を補完するか内容確認のための補助的方法としてしか選択されてこなかった1。社会学分野では最近になってようやく社会史研究として口述史の重要性が認識され始め、具体的研究成果がではじめている段階である。
この章では、口述面接をつうじて戦時体制下の母性と家庭性、女性性を取り巻く女性の意識と実際経験を考察しようとする。母性や家庭性、女性性は女性にとって本質的なものではないため、その意味と性格は固定されたものではなく、社会的脈絡内で構成され、また変化する。よって、特定の歴史的状況内で起こる行為力(agency)をつうじて構成される側面を考察する作業が必要である2。こうした経験や行為力としての女性の生活史を把握するためには質的研究方法である口述面接方法が有用である。学者によっては、口述面接または口述史の史料的価値の側面における問題点を指摘する場合もあるが3、それにもかかわらず、口述史は伝統的歴史がもつ階級やジェンダーに対する偏見をみいだし、社会的下位集団など不利な位置にある集団の観点から社会変動を記録する重要な道具になる4。とくに、女性に関する口述史研究方法は主流歴史学と支配言説のなかで排除されてきた女性の生活経験を女性の声で表すという点で価値ある試みになる。たとえば、本研究で探ろうとする母親役割の遂行様式、出産や養育方法、戦時物資統制と家庭生活の変化、家族関係、衣服に対する統制とモンペ着用の強制性、洋服の浸透度合い、洋服に対する女性たちの意識などは、公式記録や文献からはほとんどみいだせない。こうした私的領域に関する経験と認識は口述面接をつうじてはじめて得られるが、こうして得られた内容は単純に公的史料を補充するためのものではない。それよりはむしろ、植民権力の政策と女性観に対する女性たちの対応様式、植民主義と家父長制が支配的な社会的条件のなかで女性たちが日常生活で行う選択の戦略と彼女らの生活経験を表すことによって、戦時下女性の歴史的、社会的経験と認識が男性のそれらとはいかに異なるかを把握し、戦時生活経験に関する新しい観点を提示しようと思う。とくに方法論的には、口述面接をつうじて得られた事件や出来事を羅列し、叙述的に記述するよりは、それらをどういうふうに解釈するかに焦点をあわせ、それらをつうじて植民経験をした女性たちが抱いた歴史認識と社会観、女性の役割と地位、女性性などに対する概念の分析をこころみた。本調査は17名を対象とした面接にもとづいているため、日帝末期女性の経験に関する完成した歴史像を提示するとはいえないかも知れない。しかし、戦時下女性の生活経験に関する研究が皆無に等しい状況で一つの観点を提示し、戦時体制と日常史に関する論議を発展させる土台になりえると思う。
1 ジョン.ヘギョン「韓国近現代史口述資料の刊行現況と資料価値」『歴史と現実』33号、1999年、319、322-3頁。
2 行為力とは、ある行為を遂行する能力を指すが、最近の理論では個人たちが自由かつ自律的に行為できるか、個人のアイデンティティーを形成する方式がいかなる意味で個人の行為を決定するか、といった問題に関心を向けている。脱植民主義(post-colonial)理論で行為力はとくに重要な概念である。それは、脱植民主義の主体が帝国主義の勢力に抵抗、あるいは協力する行為を起こす能力の問題と関連するからである。Althusserによると、人間の主体性(subject-
ivity)はイデオロギーによって構成されるために、主体が行う行為はイデオロギーの結果とみられる。しかし、脱植民主義学者たちによると、主体は社会諸勢力の影響から離れるのが難しいが、不可能ではない。そうした諸勢力を認識できること自体がそれらを撤回できることを意味するからである。Bill Ashcroft, Gareth Griffiths & Helen Tiffin, Key Concepts in
Post-Colonial Studies, Routledge, 1998, pp.8-9.
3 口述資料の問題点として指摘される点は次のようである;1.過去の事に対する忘却や間違った記憶がありえる。2.口述には非一貫性がありえる。3.記憶には選択性が作用する。4.回想に依存することによって自己正当化が起こりえる。5.記憶は私的、部分的、主観的である。しかし、口述史を認める学者たちは主流歴史学にも同じような問題が内在すると反問する。つまり、記録された資料にも作成主体である人間の特定した視覚と洞察力、主観的見解が介入し、起こったすべての事件が記録できないため、取捨選択の問題が作用する。また、歴史的、社会的条件が作成者個人の判断と叙述に影響を及ぼす。さらに、口述の代表性に対する指摘に対しても、個々人は歴史的産物であって個人の人生は社会的過程によって構成され、社会構造を作ると主張する。したがって、歴史は過去の事実それ自体ではなく、過去に対する特定した解釈を意味する。要するに、歴史とは常に現在の理解関係と観点から再解釈されるという認識の転換が必要であり、こうした点で口述は他の書かれた歴史資料と同様の価値をもっている、といえる。チョ.ヒョングン「歴史を曲げる」『近代性の境界を探して』(セギル、1997)18-20頁;上野千鶴子、イ.ソンイ訳『ナショナリズムとジェンダー』(パクジョンチョル出版社、1999)169-75頁;ユン.テクリム「記憶から歴史へ」『韓国文化人類学』第25集(1994)276-89頁。
4 Eileen Clark, “The Pursuit of Truth in Oral History,” Paper presented at the Inter-national Association of Qualitative Research Conference, Melbourne, Australia, 6-10 July 1999.

2. 面接過程
面接対象者の選定はまず解放前に結婚し主婦としての経験があるか、出産および育児経験がある、できるだけ高齢の女性たちにしぼった。また、女性たちの意識と経験に影響を及ぼす教育の機会と職業経験の有無、そして居住地域において農村と都市のばらつきがないように考慮した。これは教育水準と職業経験の有無が政策に対する認識、母と主婦役割の遂行、女性としてのアイデンティティーなどに影響を及ぼす重要な変数になりえると考えられるためであり、居住地域は植民政策の浸透、施行における差異とそれに伴う女性たちの認識の多様性を探るためであった。とくに、日帝末期に学齢期の子女をもった対象者を探したが、それは先に実施した文献研究をつうじて日帝が普通学校教育を通して朝鮮人の皇国臣民化に力をそそぎつつ、子女教育者としての母親役割を重視し、支配政策の施行において母親たちの協力を得ようとした点をみいだし、こうした政策が実際どのように行われ、母親たちがそれらをどう認識または経験したかを考察するためであった。しかし、こうした父兄としての経験がある対象者はそのほとんどが高齢かあるいは健康上の問題があったりして、対象者として充分な数を確保するうえで難しさが伴った。
教育を受けた女性の場合は女学校の同窓会をつうじて紹介してもらい、またそのなかの数人からは彼女たちの友人や先輩などを紹介してもらった。無学の女性の場合は知り合いや教会、老人ホームをつうじて紹介された女性のなかでできるだけ高齢の女性を選んだ。こうして1910年から1930年の間に生まれた17名の女性を対象に面接した(表2参照)。研究対象者17名のなかで解放以前に結婚した12名の内、解放以前に出産経験のある女性は9名で、さらに日帝末期子供を学校に行かせた経験をもつ女性は6名であった。解放以後結婚した5名の女性たちは戦時期それぞれ女学校(韓真淑)または専門学校に在学中(呉恵子、李鐘姫、南京姫)であったか、教職(鄭玉順)の経験があり、戦時期の女学校教育に関してより身近な体験をもち、多くのことを記憶していた。
調査は2000年8月に基礎調査を実施した後、一次調査として2000年11月から2001年2月の間に15名の女性を対象に1-2回の面接を実施した。二次調査は2004年5月から2005年3月の間に実施したが、まず一次調査で面接した15名の女性たちに再び連絡した結果、2名(鄭菜英、金枝培)が他界し、3名は療養で面接が不可能、4名は住所移転で連絡がとれなかった。残り6名の女性たちに2名(南京姫、全英錫)を新たに加え、二次調査では8名の女性と面接した。一次調査では女学校での教育や家庭生活、母親としての経験を主に質問し、二次調査では衣服や容貌など女性性に関する質問を新たに追加した。一次調査で面接した6名の女性たちを二次調査でも面接したが、ほとんどの方に身体の衰えが目立ったが、植民時期に関する記憶は衰えていないようだった。彼女たちは一次調査時に質問したいくつかの質問については以前と同じ答えをした。
口述面接調査は基本的に口述史方法をとったが、生活史(life history)よりは植民地時期という限定された期間の経験を知ることが主な目的であるために、まず文献研究をつうじてみつけた日帝の朝鮮女性に関する諸政策と宣伝を中心に質問を作成した後、これを土台に面接者が質問することで面接対象者の記憶を呼び起こす方法をとった。よって、録音と質問用紙作成を並行したが、質問用紙は面接対象者たちが高齢で、なかには文盲者も含まれていたために、面接者が記入した。しかし、実際の面接では、質問用紙は面接者が質問をもらさないよう内容確認のために使った。それは、面接対象者たちはいったん記憶を呼び起こし話し始めると、自ら話を進めていく力を発揮し、より率直かつ自由に自分の経験と考えを話したためである。よって、こうした一次調査の経験から二次調査では、質問する項目だけをならべた、より簡単な形の調査票にした。一次と二次調査とも口述内容はすべて録音し、面接後に文章化する方法をとった。
面接前に文献資料を通した調査と、これらを参照しながら質問する仕方は口述者たちの記憶の呼び起こしに効果的であった。その一例として、「日帝時期子供をたくさん産むように、といった言葉を聴いたことがあるか」と質問すると、「よく覚えていない」とか「そんなことはなかったと思う」と答えた女性たちも「産めよ増やせよといった言葉を聴いたことがあるか」と聞くと「あった」と答えるのであった。そして多産者に対する表彰など多産政策に関した出来事などを思い出すのであった。しかし、モンペの場合はそれと反対であった。つまり、1次調査で戦時生活を語るなかで、モンペ着用が強制されモンペを着なければならなかったと話す女性たちがいた。面接者は少ない面接対象者からこれらのことが共通して口述されたため、この問題に関心をもつようになった。以後文献資料をつうじて、先に得られた口述を後ろだてできるモンペの普及と着用運動、モンペ着用に関する宣伝だけでなく、知識人たちによって戦時服に関して展開されたさまざまな論議をみつけた。こうした研究を参考に2次調査ではモンペと戦時服装統制に関する面接調査を行なった。1次面接に先立つ史料分析でモンペに関する記事や政策が研究者の目に触れなかったのは、それが母親や主婦としての役割と義務に比べそれほど頻繁に登場せず、モンペ着用の強制性が戦争末期の1-2年に集中したためである。しかし、モンペ着用のような服装統制が女性たちの意識と生活に及ぼした影響は、母性や家庭性に比べ決して少なくなかったことを口述面接をつうじて知るようになった。モンペに対する女性たちの口述は日常的微視史、とくに女性たちの生活経験が公式文書や記録からいかに排除されていたかを示す一つの例である。女性たちは60年前のことであるにもかかわらず、モンペ着用が強制された時期や方法に対する具体的な記憶をもっており、面接者たちのこうした記憶は驚くほど一致した。
面接は、2名は面接者の家で、もう1名は面接対象者の夫の事務室で行われたが、残り14名は面接対象者の家で行った。面接対象者の家で行う場合、周囲の騒音や時間的制約にしばられないので、できるだけ面接対象者の家での面接をお願いした。また、対象者の家で面接した場合、写真や同窓会のアルバム、女学校のときの手芸作品、昔着ていた衣服などをみせてもらい、口述を裏付けするばかりでなく、対象者自身もこれらのものを取り出してみることで過去の回想に役立った。また、面接者はこれらに関する質問を行うことで、より掘り下げた口述が得られた。面接は大体2時間から3時間ほどであったが、とくに高齢の女性たちは2時間以上の面接に肉体的疲労を表す場合があり、なるべく1回の面接を2時間以内にし、2-3回に分けて行う方法を使った。また、2回目の面接ではより内面的な口述が得られた。乳幼児期の子女の死亡といった辛い記憶や子供の数が少なかったため姑の小言が多かったことなどは2回目の面接で口述された。また、夫の性病感染で妊娠が不可能になったことや、姑がより多くの男の孫を得るためにほかの女性をつれてきては夫と一緒に暮らすようにしたことは面接の後半で口述された。これは、面接過程をつうじて面接者と面接対象者の間にある程度ラポ(rapport)が形成されたためと思われる。さらに、これはこの世代の女性たちにとって姑や夫に対する不満を第3者に打ち明けてはいけないという家父長制下の嫁、妻としての規範が内面化されていることを示すと同時に、自分の不幸な人生の側面を他人に話したくないという心理を表す一例でもある。
最後に、録音された口述を文字として記録する過程で口述者の言葉使いや表現をそのまま生かそうとした。しかし、口述者の言語習慣により、同一内容を反復して語った場合には、反復を避けるため一部分のみを引用した。このほかは方言や習慣的な言葉使いをそのまま記録した。

3. 記憶と口述の多様性
面接対象者たちが自分たちの過去を口述する仕方には教育の有無によって大きな差があった5。教育を受けた女性たちは学校教育や卒業後の職業経験、新聞や本で読んだ内容をもとに当時の植民体制や政策、戦争の状況に関するより具体的な知識をもっていた。たとえば、「時局」「動員」「玉砕」「皇国臣民の誓詞」「内鮮一体」「新女性」「君が代」「大本営発表」など印刷媒体や活字を通して接した言葉を記憶し、正確に表現した。また、学校教育の内容や支配政策、時局と関連した用語、読んだ本の題名、よく読んだ雑誌の名前などは当時使った日本語そのままで話した。このように、教育は言語的表現能力を付与したため、彼女たちは自分たちの人生を社会的条件の変化とともに適切に表現し意味化できただけでなく、植民体制と戦争がもたらした状況を批判する能力ももっていた。しかし、彼女たちの植民地社会や体制に対する認識がすべて当時形成されたとは思えないところもあった。当時面接対象者たちの年齢や抑圧的支配体制をかんがみると、以外にも批判的な意見を述べる場合もあったが、そうした口述の多くは、解放後彼女たちが接した知識や最近までの韓国社会の支配的言説を反映するものと思われる。
教育を受けることができなかった下層女性たちは、植民政策に関しては具体的な知識や記憶をもっていなかった。それは彼女たちが文盲で日本語ができなかったために政策や宣伝の理解に限界があったし、生計のため労働に長時間従事せねばならなかったためでもある。彼女たちは学校生活をつうじて得られる経験がなかったために、経験の幅が狭いのみならず、限られた知識のため自分たちの人生の苦労を社会体制の矛盾よりは、個人的運命や家族的背景を原因にする傾向が強かった。しかし、だからといって彼女たちに植民体制に対する不満や反日感情がなかったわけではない。ほとんど貧困層であった彼女たちは農産物の供出と食糧欠乏を口述するとき、もっとも強い語調で体制を批判した。また、彼女たちは労働に関する口述のときはより具体的で明確な言葉を使った。たとえば、木綿の栽培と機織方法、染色、穀物の皮をむいてご飯を炊く過程など、自分たちが常に行なった労働に関する口述は非常に詳細に説明できたばかりでなく、労働は彼女たちの貧困と苦しみにまみれた人生に対する記憶の重要な一部分として語られた。彼女たちはとくに方言をよく使ったが、標準語以外の方言に慣れていなければ、地方に住んだこともない面接者としては彼女たちの口述を理解するのに度々困難を感じた。殊に、農業労働や機織をその地方の方言で口述するときは面接者が農業労働の知識も不足したうえ、方言の意味もわからず口述内容理解に苦労した。面接中そうした方言の意味を質問したつもりであったが、面接後録音を記録する過程で再度知らない方言に直面したりもした。
5 本研究の面接対象者17名中5名のみ無就学で、残り12名は高等女学校を卒業した。これは、当時女性たちの平均教育水準や就学率より、ずっと高い教育水準である。
女性たちの植民地時代の経験に関する記憶と意味付けは解放以前から現在までの生き方に影響される側面もあった。たとえば、北韓(北朝鮮)出身の韓真淑と鄭玉順の場合、解放以後北韓での共産党集権のために、ブルジョア階層として裕福であった彼女たちの生活は急変し、やがて6.25事変(朝鮮戦争)が勃発すると、土地と家屋など重要な財産を手放したまま南下した。経済的基盤を失った彼女たちの人生はその後想像を超える苦労を味わうことになった。韓真淑は父親が投獄されたために、薬剤師になるのを中断し、家族のために仕事をみつけて働くようになった。鄭玉順も、財産を失ったが、一生地主として生活力をもたなかった父親に代わり長女として家族の生計のために働かねばならなかった。こうした解放以後の家の没落という個人的経験により、彼女たちは裕福にすごした家庭生活を懐かしく誇らしく語る傾向があった。韓真淑は日帝末期成功した実業家だった父親のおかげで植民地時代が彼女の人生のなかでもっとも裕福な生活を送れた時期であった。彼女は自分の父は「日本語ができ、日本人とも親しく、事業も当時成功していたから、最近の言葉でいうと親日派」といったが、彼女はそうした環境で送った少女時代を幸せな時期と記憶している。鄭玉順も地主階級で当時珍しかったコーヒーやチョコレート、カレーライスなどを食べたり、日本製の高い化粧品を使ってみた経験、京城6市内中心街の百貨店とそこの食堂に行ったことなどを詳細に語り、そうした近代的経験を裕福な家庭環境をもった自分のみの経験として考えていた。彼女は日帝時期までの生活は詳細かつ意欲的に口述したが、解放後の出来事に関しては詳細に語ろうとしなかった。そのため彼女の生殖家族や結婚後の生活についてはあまり突っ込んだ質問はできなかった。とくに、彼女の口述は人間関係や主観的考え、感情よりは解放以前物質的にどういった生活をしていたか、あるいは自分や家族が社会的に重要な地位にいた人たちといかに親しかったかといった側面を説明することにより集中していた。これは彼女が面接者に自分の人生に意味づけをし、説明する方法のようにみえた7。
6 植民地時代ソウルは京城と呼ばれた。
物質的側面だけでなく、教育経験も解放後の経験と比較された。教育を受けた大部分の面接対象者たちは植民地時期の教育を肯定的に評価したが、とくに教師経験がある女性の場合には日帝時期の教育をより一層肯定的にみる傾向が強かった。彼女たちは日本語で教えたことを「悲しく」思ったりしたが(李恩實)、規律を重視する厳格な教育を解放以後や現在の自由な教育よりももっと優れた教育として評価した(全英錫、李恩實)。彼女たちは「皇国臣民の誓詞」や「教育勅語」を覚えたことや、学校では韓国語を使ってはいけなかったことは批判的に話したが、そのほか一般的で日常的な教育方法と規律は植民支配政策の一つとみるよりは、純粋に日本的な教育法として理解する傾向が強かった。そのために、厳格な教育方法が植民地人としての自分たちを日本式に規律化し、従順な植民地人を養成するための教育と認識していなかった。
植民地教育に対する理解には当時学生あるいは教師だった面接対象者それぞれの立場により尖鋭した認識の違いがみられた。南京姫と全英錫の口述がそうした例である。南京姫は全英錫が卒業し、日本留学(東京女子高等師範学校)後戻ってきて教えた当時代表的な公立女学校に通ったが、彼女は当時の学校教育を「徹底的に教えたために誠実な人間を作る。しかし何でも言われた通りにせねばならなかったために融通の利かない人間になる」と長所短所を挙げた。しかし、全英錫は「規律は厳しかったが、学生のためであり、今の教育とは違った本当の教育を受けた」とした。この二人の考えは、当時植民政策と戦争を支持する文章を多数残したその学校の校長に対する評価でも二分された。南京姫は校長が「大変親日的であったために学生たちがとても嫌った」と口述した。しかし、全英錫は、彼が「校長に抜擢される程であったから日本人から信任を得た人物とみるべきではあろうが、素朴な人であった。校長だからといって自ら日本人にどうするべき、といったりはしなかった」と彼をかばう立場であった。こうした同一人物に対する相反する評価は、彼女たちが当時教師と学生といったお互い異なる社会的位置にいたためである。南京姫だけでなく、当時女学校に通った面接対象者たちは植民政策を過度に支持したり、民族差別的態度が強かった教師に対しては日本人であれ韓国人であれ、学生たちから嫌われたが、反対に日本人であっても人格的に偉かったり、ひそかに反戦的な態度をみせた教師に対しては尊敬の念を抱いた、と口述した。しかし、全英錫は短期間ではあったが自分も同じく植民体制下で教える立場にあったために、教師の体制協力的な行為や態度を個人的性格や資質の問題に還元するような質問には非常に防御的な態度をみせた。
7 もう一方、こうした口述は、彼女が女学校教師として定年まで勤務したため面接者が彼女を「先生」と呼んだためかも知れない。彼女はこの呼称から自分を口述者というより、教師と意味付けし、自分の個人的経験を語るよりは、当時の状況に関する情報を与えねばならない、と考えたかも知れない。
要するに、面接対象者たちの過去の経験に関する口述の仕方は、大きく教育水準と階層によって異なるが、これら二つの条件が同じであっても、個々人の経験とそれに対する記憶はそれぞれ多様であるといえる。つまり、教育水準が同じでも、教師と学生といった社会的位置の差は教育体制についてお互いに異なった認識と記憶となり、また、裕福な階層であっても植民支配以後の家勢の変化によって植民地時代に対する記憶も違った様式で構成されたのである。すなわち、既存の歴史学で「民族の暗黒期」としてのみ叙述された日帝末期が女性の口述史をつうじて再構成されたとき、この時期に対する記憶は個人の人生全体に対する各自の解釈を通して理解され、意味付けられる側面がある、ということである。こうした側面が本研究で注目する点である。

4. 口述を通した植民地時代女性の生活史事例
日帝末期を体験した面接対象者たちが植民支配と戦争を経験、認識し、その記憶を振り返り口述する仕方はそれぞれ多様である。本節では社会的階層と教育水準、居住地域によってそれぞれ異なる4名の面接対象者を選び、彼女たちの生活史を簡単に紹介しつつ、戦時期の経験を概観する。これは本研究が主題としている母性と家庭性、女性性というレンズを通して対象者の人生を分析することは、ある面で彼女たちの戦時体制経験の一部のみをみせるからである。つまり、以下の三つの節で把握されていない全体的な生涯過程と家族的背景、学校教育や結婚生活などをつうじて面接対象者たちがそれぞれ自分たちの生涯をつうじての経験を理解し口述する態度や方法を探ることによって、彼女たちの人生の多様性と、戦時期生活経験に対する認識を理解する必要があるためである。また、これらをつうじて植民支配と戦争がこの世代の女性たち個々人の人生に及ぼした影響がどんなものであったか、といった点も現れるであろう。
南京姫は1929年京畿道の地主の家で生まれ裕福な環境で成長した。彼女の父親とその兄弟たちはみな日本に留学し、父親の二人の妹たちも先に留学した南の父の説得で日本の上級学校へ留学した。南は父親が満州で事業をやっていたため、満州奉天に居住し、そこの日本人小学校に通った。日本人学校の日本人教師は民族的偏見をもっている人もいれば、そうでない人もいた。幼かったが、教師の言動からそうしたことが感じ取られた。日本人の友達とは仲良く過ごした。小学校を卒業する頃の1941年の春、父親は満州の工場を売り、家族はソウルに引っ越した。引越し後、女学校の入学試験に受かり、当時公立でトップレベルだった京畿高等女学校に入学した。入学した1941年に朝鮮語の時間はすでに廃止されていた。学校で韓国語を使ってみつかると、始末書を書かされ、先生が大目に見ない場合停学になることもあった。教師のなかには多少反戦的な人もいた。たとえば、上野音楽学校をでた音楽担当の日本人の女性の先生は服装からそのようなことが感じられた。モンペが強要された時期だったが、この先生は終戦の1年前に帰国するまでモンペを着なかった。しかし、ほとんどの教師はそうではなかった。ある時、日本史を学ぶ国史時間に神武天皇に関する神話の話がでた。神武天皇が野蛮族の征服に行ったとき、金のトビが彼の矢の上に飛んできて座ると、そのまぶしい光に敵軍たちが目を開けなくなり、戦争に勝ったという話であった。南はそれが事実とは信じられないと思い、教師にそんな話が事実なのかと質問した。そうすると、非常にあわてた教師からひどく叱られ、その後60点をもらった。南は、こうした出来事を当時皇室に関した不敬罪があった時代のせいと解釈した。国史時間だけでなくすべての学校教育は植民地学生たちを日本人と想定したものであった。南は登下校前後に皇国臣民の誓詞と国語常用の誓詞、教育勅語などを暗唱したこと、礼式の順序などを詳細に記憶している。ほとんどの教育が男女の区別よりは日本国民としての姿勢と任務を強調したが、女性教育の特徴が現れるのは礼儀作法の時間であった。礼儀作法時間はすべての内容が朝鮮女性を日本女性と想定した教育であった。畳の部屋に入って正座する法、立つ法、畳のつなぎ目を踏まずに歩くこと、畳部屋のふすまを開け閉めする方法など、韓国人の生活とは何の関係もないことを習った。しかし、その時習った内容は今でも自分の立ち居振る舞いと行動に影響を与えている。礼儀作法を教えた日本人女教師は立ったり座ったりしても足をくっつけるようにといった。その教師は冷たい態度でいつも和服を着ていて、自分が日本人であることを威張っているようにみえ、学生たちからは嫌われた。甚だしくは学生の間で彼女が日本警察のスパイだといううわさもあった。しかしそれにもかからず、彼女の教えは今までも常に頭の中に残っていて、自ら立ち居振る舞いに気をつけている。今でも日本に行くときは日本女性の座り方などを注意してみるが、日本女性に比べると韓国女性の立ち居振る舞いは醜いと思う。
太平洋戦争が激しくなった1943年、3年生になると、授業は午前中だけで午後は勤労奉仕に動員された。4年生のときは朝から一日中、そして「月、月、火、水、木、金、金」とし、土曜日も日曜日も休みなく雲母を剥がす作業をした。作業が肉体的にしんどくはなかったが、日本の勝利を願って一生懸命に作業に臨んだわけでもなかった。また、4年生のときは看護員になるための訓練を受けた。京城医専の教授たちがきて一日一科目を速成講義した後、試験を受けさせ看護員免許をくれた。その試験で生まれて初めてカンニングをした。誰もその試験を真剣に考えなかった。学生たちは全部公然とみながらの試験だったが、全員合格し看護員免許をもらった。神社参拝も定期的に行ったが、授業をしなくて良かったし、おしゃべりしながら遠足に行くような気分で行ってきた。私だけでなく、神社に行って真剣に祈ったりした学生は一人もいなかったと思う。当時京畿高等女学校の校長は非常に親日的であったために学生たちから嫌われた。ある日、神社参拝のとき、校長が緊張のあまり、拍手を打つとき両手がずれてしまった。それをみた学生たちは喜んで笑ったりした記憶がある。校長は大東亜戦争だの、聖戦だの、八紘一宇だのそういうことをよくいったが、それらがすべて偽りのように聞こえ、いくら日本人として教育をうけ、内鮮一体が主唱されても自分が日本人というように思ったことは一度もなかった。ところが、日本女性はそうではないようだった。日本女性は千人針をするときも、それが本当に弾丸を避けると信じて一生懸命に作るようであった。韓国女性は道で日本女性たちに千人針のひと縫いを頼まれると、やってはあげたが、日本女性とは違い、戦争に対して傍観者的な態度にとどまった。
韓国の文字を学ばなかったために、家に韓国文学など韓国語で書かれた本があったが、読むことはできなかった。主に、日本語で書かれた日本文学や世界文学を読んだ。『少女の友』という雑誌があったが、その本には戦争にもかかわらず、ほんの少しではあったが、ロマンチックな話が載っていてとても好きだった。表紙の絵も目が大きくてほっそりとした少女がかわいい服を着ている姿であった。当時京畿高女の学生たちは制服としてモンペを着て救急カバンを掛け、5-6月にも厚い防空頭巾を被って登校したが、そうした凛々しい姿ではなく、軍国主義とは反対のものであったから、女学生たちによりアピールしたのではないかと思う。対照的に、『君と僕』という志願兵に関する映画を学校で観覧したが、その映画はほんとうに嫌いだった。みた後、うその塊だと思ったし、内心とても反発心がわいた。
生活面では、米や運動靴などがすべて配給制だったが、南はそうした物資にはそれほど不足しなかった。父親が精米所をもっていたし、靴は満州で父親がゴム工場をした時、もってきたからであった。そのかわり、洋服やお砂糖、牛乳、小麦粉、バター、卵、お肉などおいしいものがないのが耐えられなかった。解放後、街のパン屋さんで食パンをみたときはそこからなかなか離れられなかった。
南は元々女学校卒業後は日本に留学するつもりだった。両親とも日本留学をしたため父親は彼女を日本に留学させようと思っていた。しかし、東京が空襲されるなど戦争が激しくなり、仕方なく、梨花専門に進学した。当時女性が行ける上級学校のなかで師範学校や医学専門は自分に合わなかったし、淑明専門は歴史が浅く(1937年設立)、日本人が立てた学校だったので行かなかった。入学試験には作文だけ出題されたが、それは「母」に関して書けというものであった。1945年4月に入学し7月末まで3ヶ月通ったあと解放になった。梨花に入学してみると、戦時体制で名前も「京城女子専門」に変えられたし、専攻や教育内容も全部ずたずたにされた状態で、これが学校なのかという思いがした。学んだ科目は育児法や化学、家庭管理といったものであった。梨花の教授たちは公立学校の京畿に比べ日本語に未熟だった。韓国語のイントネーションで下手な日本語を話し、聞いていると笑いがでるほどであったが、むしろそうしたことが抵抗の姿勢のように感じられ、懐かしい思いがした。勤労奉仕も真面目にやるのではなく、やっているふりをしながらサボタージュし、女学校の時よりも新鮮でよかった。科学を教えたイ.ジョング教授は、暗示的にキリスト教に関する話をしてくれたが、軍国主義ばかり聞いていたせいでとても感動的だった。そのとき初めてキリスト教にふれたのだった。梨花の校庭には日本軍が駐屯した。あっちこっちに砂袋が積んであったし、校門の入り口には歩哨が立っていたが、歩哨の前を通るときにはお辞儀をするようにいわれた。学生たちはそれがいやで、なるべくその前を通らないようにした。
1945年8月15日、いきなり解放となり、人々が韓国語で「万歳」を叫びながら街を群がって行くなど、とても混乱して慌しい雰囲気であった。うれしい気持ちよりこの先どうなるだろうかと不安感が先立った。女性の服装が戦争末期の抑圧に対する反動で華美になり始めた。洋服を着た人は少なく、女子大生のなかでもビロードの韓服チマ(スカート)と絹織りのチョゴリ(上着)にハイヒールがはやった。大学でもっとも深刻な問題は全部日本語の本を使っていたが、日本語を使わなくなり使える本がないことであった。授業も韓国語で行われるようになったが、ほとんどの学生たちがハングルを書けなかった。金活蘭総長がハングル学者であるイ.ヒスン先生を招聘しハングル特講を開き、2週間でハングルを覚えた。
南のように、1920年代末に裕福な家庭で生まれ、学校教育を受けた女性たちの場合、戦時体制の経験は主に学校教育をつうじて体験された。したがって、彼女たちの口述は軍国主義教育が女性に求める側面をよく表す。女学生たちは共通して勤労奉仕といった労働動員と防空訓練、査閲と行軍、応急処置と構成された教練科目を学んだ。出征兵士の見送り、慰問手紙書き、慰問袋作りなどを度々やった。
これと対照的に学校教育を受けなかった金枝培の口述は戦争や植民体制を直接言及はしなかったが、彼女の生活もやはり植民支配の影響から自由ではなかった。金枝培は1912年忠清南道西山の貧困な農民家庭の4人兄弟の長女として生まれた。金が6歳になった時、40歳であった父は伝染病にかかって病死した。10月に病がはやり、家ごとに男たちが稲刈りもできず死んでしまった。夫の死後、4人兄弟を一人で養えなかった母は金が11歳になると、嫁にやった。そのころは村に学校もなかった。金持ちだけが家に先生を置いて字を習い、貧しい者は学べなかった。新郎は19才であったが、彼も両親がなく家が貧しくて人の家に作男として奉公に行っていた。お嫁に行ってからも新郎が何ものかも知らなかった。すでに舅と姑が死んでしまっていたので、20才を過ぎた一番上の相嫁が姑のように嫁としての仕事をやらせた。食べ物や着る物もろくに得られず、大変苦労した。母に会いたくて泣いたり、会いに行ったりもした。すると、相嫁が迎えにきたので、また嫁先に戻らねばならなかった。11才であったが、うすつき、麻作り、裁縫、水汲みなどもした。水を汲んで頭に載せてくるのだが、滑って転び、死にそうになったときもあった。相嫁は水を汲んでこい、ご飯を炊け、洗濯しよ、麻を作れと仕事ばかりやらせた。靴もなく、草鞋を履いたが、外にでると、すぐ水が入った。ボソン(たび)も靴下もなくて裸足で過ごした。二十歳になると、相嫁が小部屋を借りて新郎と二人で暮らすようにした。新郎と一緒に暮らしても新郎に懐かなかった。男がそれほど嫌だった。22歳で長女を産んだ。出産はほとんど自力でやった。子供は時がくると産まれると思ったし、どう産むのかも知らなかった。全部で9人を産んだがそのなかで4人が赤ちゃんのとき死んでしまった。口病、天然痘、赤痢で死んだ。それぞれ5才、3才、1才、そして1才にもならずに死んでしまった。今も死んだ4人の娘を思うと胸が痛む。それでよけい老いた感じがする。当時は子供の病気ははしか、天然痘、赤痢、この三つがひどかった。予防もなく、病院もなくて子供たちがこの三つでよく死んだ。当時は子供が死ぬと、お墓も作らず、ただ埋めてしまい、みに行くことはしなかった。山の犬や狐が埋めた子供の死体を掘り出して食いついて回ったりもした。
子供はできたから産んだし、たくさん産みたくて産んだのではなかった。(避妊の)方法を知らなかったから、産まないすべがなかった。子供一人を産んで育てるのがどれだけ難しいか、9人を産んだからその難しさはとうてい口ではいえない。オムツもなくやってあげられなかった。歩く子も上着だけ着せ、下は裸のままであった。部屋の床面にはワングルで編んだ敷物やムシロを敷いたが、子供たちのおしっこが床に付き、子供一人育てると敷物一つは腐ってしまうのであった。
解放以前は食べるものもなかった。先に実る麦穂を刈って炒めてた後、蒸して挽いておかゆにして食べた。麦も少なくて少ししか食べれなかった。当時は肥料がないから穀物がよくできなかった。麦を食べてなくなると、麦の子を買っては挽いておかゆにして食べた。また、かぼちゃを集め、かぼちゃおかゆを作って食べたりもした。夫と一緒に農業もした。子供たちは家に残していろんな仕事をした。田植えもし、畑仕事もした。服も木綿から布地を織って作って着た。夏は麻作りがもっと大変だった。服も今の服とは違って、何回か洗うとすぐに擦り切れた。服も食べ物もなく苦労した。その上、日本人がきて綿や蚕、お米を取り上げて行き、とても大変だった。日本人にカマスを作って供出しろといわれて、それを作るのに苦労した。しないと罰金を払わせられるから仕方なくやるしかなかった。食器、匙や箸など真鍮で作った器と鋳鉄ももって行った。冬に部屋で使う火鉢も取られた。人々は木で匙と箸を作って使った。石油もなく松ぼっくりを採って使った。
班常会のようなものがあって会議があると行ったりしたが、忘れてしまって知らない。外に出て訓練しろともいわれた。今の子供たちが学校で体操するように体を動かすのであったが、やる日が決まっていて、若い人も老人も広いところにでてみなやらねばならなかった。日本人がきて何の保険か知らないが、加入を勧められたが、お金がなくて入らなかった。加入する人も多かった。村にも日本人が住んでいたが、韓国人と話したりはしなかった。日本人の家に働きに行く人は彼らの家の仕事をしてお金をもらった。
金の植民時代の生活は貧困な家庭で生まれ、父の急死で11才で嫁に行かねばならない悲劇的なものであった。彼女は友たちと遊んだり、親から愛されるといった幼児期の経験が欠如している。彼女の人生は、早婚、望まなかった妊娠と出産の繰り返し、子供の死、そして生計のための過重な労働の連続であった。したがって、彼女の口述も労働と家族生活に限られている。
金枝培と違って、鄭菜英の口述は、女学校生活と結婚、子供たちの学校生活、戦時下地域でまかされた銃後の主婦としての役割など多様な内容を含んでいる。それは彼女が、裕福な環境で生まれ教育を受けることができたため、より多くの社会的経験が可能であったうえ、高齢にもかかわらず、そうした経験をよくおぼえているためでもある。彼女は20世紀初期に生まれ、近代教育を受けた少数の女性に属するが、彼女の受けた教育は両親や教育担当者、そして自分自身も結婚後、家庭で妻や母としての役割をうまく遂行するための準備教育に過ぎない。彼女自身も教育を受けた新女性であるが、新女性とは結婚と慣習に縛られず、自由に行動するといった否定的なイメージの集団として意味づけし、彼女たちと自分を区分しようとした。そして自分は家庭で伝統的な母、妻、嫁としての役割を果たした人生を送ったと位置づけた。
鄭菜英は、1910年京畿道水原で生まれた。父親は郡庁の書記であった。12才のとき仁川の公立普通学校に入学したが、飛び級し、5年で卒業した。卒業後、両親は上級学校への進学に反対したが、願書を買ってきて1週間泣きながらせがんだすえ、やっと父親の承諾を得ることができた。4年のときソウルに引っ越すまで仁川の家からソウルの京畿高女まで3年間汽車で通学した。女学校1年のとき、純宗皇帝が崩御した。学生同士で昌徳宮に行ったら、青年たちが地面にうつ伏せになり大声で泣いていた。人々があまりにも多くてチマ(韓服のスカート)が踏まれて破られてしまった。李王殿下が日本女性の房子女史と結婚することになったときは、培材学校の男子学生たちがしっかりしろという内容のビラをまいた。房子女史はチマチョゴリ(女性用の伝統的韓国服)の着こなしもよく、一番美人だと聞いた。
女学校の割烹時間には、東京女子師範学校出身のソン.ジョンギュ先生から日本料理を習い、作法時間には両膝をついて日本式礼節も習った。手芸は日本人の先生だったが、この時間に50色以上用いて作った刺繍を昭和天皇に送った。昭和天皇が即位し、日本が捧げろというから捧げたのである。日本人家事先生が胎教や胎動、出産予定日などに関する話をしてくれて結婚後そのままやったら、不思議にもその通りになった。家事の先生も出産前後それぞれ50日を休んだ。
学校生活は楽しかったが、家と学校以外では親から厳しく干渉された。帰宅すると、外に自由にでられなかったし、雑誌や小説も読んではいけなかった。それで菊池寛の小説をこっそり隠れて読んだりした。「会いたくて会うほどに会いたくて怖いのも忘れて出てしまった」という歌があったが、布団のなかで歌っていたら父親に聞かれて怒られたこともあった。家でも学校でも賢母良妻になれというのが教育であった。京畿高女が賢母良妻主義であったし、自分も当然嫁に行くと賢母良妻になるのだと思った。京畿高女の日本人教務主任は将来結婚すると、「母のような妻になれ、友のような妻になれ、妹のような妻になれ、先生のような妻になれ、姉のような妻になれ」という7つを教えた。昔韓国の女はいやおうなく夫に従ったが、日本人先生はこうした妻になれと教えた。家では夫を成功させた女性の話もよく聞いた。そのときは恋愛もなかったし、親が決めるままに嫁に行くのだと思った。女学校を卒業した1930年に結婚した。夫が判事だったので、全羅道や京畿道などに移り住んだ。今でこそ女は強いが、そのころは女が男に言い返してはいけなかった。自分は封建的思想が強くて夫とけんかしたこともなかった。ぶつからないと、けんかにならないのだ。我慢して後で夫の機嫌がいいときにいえばいいのだ。
当時新女性はしょっちゅうお出かけして、家の仕事は下手だという話が多かった。それでそんなことをいわれないように一生懸命にやった。体のよくない姑に手水をもっていったり、喘息のために夜中の11時には夜食を作ってもっていったりした。結婚した次の年に長女を産んだが、難産で近所に住んでいた医者がきて取り上げた。1男7女を産んだが、解放の年に産んだ末っ子だけ産婆がきて取り上げ、そのほかは姑が取り上げたりした。5女が10ヶ月のとき、ひきつけを起こし死んだ。そのときは15人産んだ人もいたし、当然できるままに産んだ。4人目に男の子を産んだからもっと男の子を産みたくてどんどん産んだ。(人工)流産や産児制限はやってはいけないことだった。法で禁じられていたし、わが国の風習も産まなければならないことだったし、子供を下ろしたりするのは賢母になれないことだ。当時学校に行く女もあまりなかったが、時たま田舎のお金持ちの息子たちがソウルにでて新女性と会って、結婚もしないまま妊娠した女たちがいて大きな問題になった。
子供たちを育てるときは、薄給で家族が多かったのでぎりぎりの生活だった。『婦人公論』の付録をみて子供たちの洋服を作って着せたりした。当時男は子供をみたり、とくに親や家の年長者の前で子供を可愛がったりするといけないと思っていた。子供の教育には一生懸命だった。それで子供たちを何とかして京城師範付属小学校に入れた。子供たちに知られないように担任の先生の所に行って、子供の学校生活など尋ねたりした。一生懸命に勉強させ成功することだけを望んだ。倭政時代だから日本語もよくできないといけないから、家で子供たちに日本語を教えたりもした。父兄会も一生懸命に参加したし、学校で指示することには何でも従った。
日本語ができるから町内の愛国班長もした。集まって訓練もしたし、物を集めたり配給品を配ったりした。警戒警報が鳴ると、やっていた仕事を止めて、愛国班員たちを集めて山のほうに行って隠れたりした。解放後は愛国班員たちが集まって嬉しくて踊ったりした。愛国班長には防空訓練のときに使うように鉄兜をくれたが、解放後それを誰かにあげたら、そこでご飯を作ったらおいしかったといった。愛国婦人会鍾路區総務として名前が上がっていたが、家のことが忙しくて婦人会や時局講演会などにはあまりでなかった。しかし、名前が載っていたので、6.25事変(朝鮮戦争)の時、三日遅れていたら、山につれられていかれ(共産党によって)死ぬところだった。戦時は怖かった。一言いい誤ると、警察につれていかれるから、国に関することは少しも言えなかった。挺身隊につれていかれると聞いて、家で妹を早めに嫁がせた。なんでも配給制だったから、食糧難のために苦労した。配給で満州からきた豆かすもくれたし、子供たちには靴なども買えられなくて、大変であった。
李恩實は1915年生まれで 鄭菜英と同世代であるが、彼女の人生はキリスト教信仰と教職という二つを中心に口述された。李恩實の父親は牧師で、母親も熱心なキリスト教信者であった。母は梨花学堂を卒業した後、日本の聖書学院に留学し、教会で伝道婦人として奉仕した。李は父親が牧師をしていた忠清南道で公立普通学校を卒業した後、ソウルにきて梨花高等女学校に入学した。普通学校では日本人教師たちが規律も厳しく、形にはまった日本式教育をした。日本語も徹底的に教えたために、今も国語教科書の1年から6年までの内容を覚えている程である。それから梨花にきてみると、雰囲気がとても自由で規律がゆるいようだった。1週間に1回クラス会といい、会長も選び学生たち同志で司会もしたが、公立の普通学校ではなかったのでとても違うなと思った。大抵が梨花普通学校からきた子供たちがクラス会を引っ張っていた。梨花高女を卒業した後は梨花専門の保育学科に入学した。当時はまだ戦時前だったから、合衆国からきた宣教師たちも多かった。専門学校を卒業し国民学校の教師をした後、1936年結婚した。新郎は京都の同志社大学で哲学と神学を専攻した後帰国し、牧師になった人であった。しかし、夫は結婚して1年3ヶ月で急性腸チフスで死亡し、李は妊娠7ヶ月の身で実家に帰り、1938年息子を出産した。出産後実家で両親と一緒に暮らし、教師に復職し、定年まで41年間教職に携わった。はじめは日本人に抑圧された教育がいやで私立学校の教師になった。しかし、徐々に私立学校を弾圧したため公立学校に移った。公立学校では戦時体制下で日本人校長がいうままにせねばならなかった。子供たちに皇国臣民の役割をよく果たし、日本に対する愛国心をもつように教えねばならなかった。韓国人教師たちはみかけはやるふりをしたが、内心は自ら嘆いていた。日本人教師たちには僻地手当てが付いて韓国人教師との月給の差が大きかった。韓国人教師たちは日本人教師たちに負けまいと一生懸命にやった。傍目には競争心をみせなかったが、日本人担任の学級より高い点数を取ろうと努めた。教授用語が日本語であって、子供たちの名前も創氏改名した名前を呼ばねばならなかったから、そのことを思うと今も悲しいし、8月15日の光復節になると、涙が出る。戦時下の国民学校の教育は体操や教練、運動をたくさんやらせた。耐寒訓練もさせた。月曜日は愛国日で、校長が時局と戦争に対して子供たちに話した。日本の教育体制は徹底していて何でもやると従わねばならなかった。日本人は礼節を正しく教えた。自分もそうした教育体制下でよく習ったし、教師としてもよく教えたと思う。日本女性は親切が身に付いていて、靴なども出るとき履きやすいように置く。ひざをついて座る習慣を封建的と悪口をいうのではなく、彼らの礼節と節度ある生活は我々が見習うべきだ。普通学校のとき、日本人の先生宅にお邪魔して節度のある生活をみた。日本人の店は韓国人の店より陳列もきちんとされていた。
息子は母親にみてもらった。学校教育を受けた人だから、自分よりよくできた。赤ちゃんのときは、女教師に授乳時間が許され、子守の女中が息子を学校につれてくると授乳できた。父親は創氏改名を拒否したうえ、戦争末期には神社参拝を拒否したために投獄された。龍山警察署で苦労したが、伝染病にかかり隔離病院に移された。病気が治ってまた監獄に戻されて服役中に解放を迎えた。父が息子に李舜臣将軍の話を度々してあげ、韓国人としての意識を植えようとした。戦争末期には小作地のあった京畿道に疎開した。物資が不足したが、小作地があったから食糧不足で苦労したりはしなかった。解放後、1961年の5.16革命の後は女教師にも教監と校長といった行政職を許容する方針によって、ソウル市女子教監1号として抜擢された。以後、奨学士、校長に昇進した。また、篤実なキリスト教信者としてナザレス教団では最初の長老に選ばれた。
22才で夫に死なれ、息子一人を育てながら、再婚しなかったのは「冷たい水のなかの石のようになれ」と言った母の言葉を人生における座右の銘にしたからである。「冷たい水のなかの石」とは周辺の誘惑に負けず自分の守るべき立場を守ることを意味する。若くして一人になると、周りにはどうなるかといった視線があった。解放後初の女校長として他の女性の模範にならねばならないという意識もあったため、意識的に不名誉になるようなうわさを立てられないように気をつけて生きてきた。再婚したいと思ったこともなかった。韓国人は一度結婚するとそれでいいのだ。さらに、夫の家族との関係もずっと維持していたから、再婚すると新しい家族との義務ができるだろうからより複雑になる。女性として社会生活をしながら男尊女卑は当然あることと考えていた。女権伸張というが、男と女は違うから女は女らしく、男に従順するものだと考える。
鄭菜英と李恩實の口述は早々と近代的教育を受けた少数の女性たちも伝統的な女性性に関する観念を維持し、結婚後には家庭でまたは社会でそうした観念をもち続けたことを示す。したがって、近代的女性教育が、女性に新しい機会と可能性を与えたのと同時に、依然として伝統的女性規範を後押しする方向にも働いたといえるのである。

<表2>面接対象者の一般的特性

姓名
出生年
結婚した年
第1子 出産時期
1937-45年の間の居住地
出産子女の数

教育
1937-45年の間の職業

1
韓真淑
1930年
1953年
1955年
咸鏡南道元山(北朝鮮)
1男 1女
大学中退
学生

2
呉恵子
(夫:朴相賢)
1927年
1922年
1949年
1950年
元山
元山,ソウル滿洲(学兵)
3男
大学中退
専門卒業
学生
学生

3
康玉子
1914年
1938年
1942年
江原道鐵原
4人
(長女乳児時
専門中退
死亡)
教師→主婦

4
金仁玉
1918年
1942年
1945年
ソウル, 平壤
1男3女
専門卒業
学生→主婦

5

鄭菜英
1910年
1930年
1931年
ソウル
1男7女
(5女乳児時
高女卒業
死亡)
主婦

6

李慧淑
1919年
1936年
1937年
満州,ソウル
1男 1女
無学
主婦、農業

7

金枝培
1912年
1922年
1933年
忠淸南道瑞山
2男7女
(4人の娘乳
無学
幼児時死亡
主婦、農業


8

趙淵秀
1915年
1930年
1934年
仁川
1男 1女
無学
主婦、工場労働

9
潤心徳
1923年
1941年
1950年
全羅南道新安
1男2女
無学
主婦、農業

10
李鐘姫
1921年
1945年
1946年
満州, ソウル
4人
女医専卒業
教師→学生

11
鄭玉順
1921年
1947年
1948年
ソウル、平安北道龍泉(北
5人
朝鮮)
専門卒業
学生→教師

12
金徳順
(夫:慎正浩)
1924.
1923年
1944.
1945.
.海道海州,(北朝鮮)
ソウル
6人
女子師範卒
専門卒業
教師→主婦
学生→会社員

13
金喜真
1922年
1944年
1946年
ソウル、平安北道龍泉(北 朝鮮)
2人

専門卒業
主婦

14

潤朱英
(夫: 長栄文)
1910年
1910年
1928年
1930年
慶.北道大邱,靑松
大邱
3男2女
(長女 幼児時死亡)
無学
普通学校卒業
主婦
会社員→商業→市庁職員

15

李恩實
1915年
1936年
1937年
ソウル, 京畿道
1男
専門卒業
教師、主婦

16
南京姫
1929年
1950年
1951年
ソウル
1男 3女
大学卒業
学生

17
全英錫
1923年
1944年
1945年
ソウル、
東京
1男 2女
専門卒業
学生→教師



* ☆は、日帝末期父兄の経験がある女性たちである。
* 姓名は仮名を使用した。
* 呉恵子の夫、朴相賢、潤朱英の夫、長栄文、 金徳順の夫、慎正浩を参考のために面接した。

B.戦争と母性の役割

III章では植民支配権力の政治的目的と利害追求によって母性に関する観念が形成され流布される過程並びに機制をみた。本節では、戦時期女性に提示された母性イデオロギーの三つの側面、すなわち出産や養育の役割と子女教育者としての役割という三つの分析枠に合わせ、こうした母性イデオロギーの注入が行われた社会的条件の下で母親たちが実際いかに母性役割を遂行したか、という母性の経験的側面を探る8。つまり、戦時下で母親たちが植民権力により規定された母性イデオロギーをどう認識し、どういうふうにそれらを受容、拒否、もしくは折衝し、実際はどのように養育と教育の役割を担ったかというさまざまな側面を分析する。とくに、この時期は植民支配勢力による母性イデオロギーだけでなく、朝鮮社会に内在してきた伝統的な儒教的家父長制や男性知識人によって構成された母性観念も重要な要素である。よって、こうした多様な主体勢力が女性に求めた母性観念を彼女たちがどのように認識し、彼女たちが果たした母親役割は社会全体の規範やイデオロギーとどんな関係があるのかを考察する。

1.出産の経験
前述のように、総督府は戦時体制を確立して日本と同様、朝鮮でも多産を奨励した。1941年の厚生局新設以前から多産者への表彰が実施されたが、太平洋戦争以後はより積極的に展開された。出産を奨励する宣伝は日本語で「産めよ増やせよ、お国のために」というスローガンをかかげ、幅広く行われた。この政策を覚えている面接対象者たちはそのほとんどが「子供をたくさん産んだ人には賞をくれた」と語った:

“子供12人を産んだ人がいたの。表彰状もらったよ。産めよ増やせよが口からスラスラでるほどだからね。”<呉恵子>
8 軍国主義を支持するための母性役割は、面接対象者のなかに、軍隊に行った息子をもつ女性がいなかったため省いた。年齢上、こうした経験をもつ女性は、あまり生存していないと思われる。

日帝末期に女学生だった韓真淑は、「産めよ増やせよという歌もあって、学校で勤労奉仕に行くときは並んでそんな歌を歌った」と語った。呉恵子や韓真淑、南京姫のように面接対象者のなかでも比較的若くして戦争末期女学校に通っていた人たちは多産政策とそのスローガンを具体的にどのような方法で注入されたかについてより確かな記憶と経験をもっていた。これは戦時教育の徹底性を示す一つの例と思われる。戦時下の学校教育はいわゆる皇民化教育を目標に戦時イデオロギーと政策を学生たちに注入し、戦時体制を備えることに重きを置いた。とくに戦時下の女学校教育は「人口増殖の国策遂行のための産児指導がなければならない」とした教育当局者の指摘通り、実際に母性を強調し、植民勢力の母性観念と政策を注入する通路になったことがうかがえる。多産政策も戦時国家政策の一つとして、とくに将来結婚し出産を担うことになる女学生たちには「母性教育」的次元から教えたのである。
韓真淑や呉恵子のように十代の女学生として学校で多産政策をたたきこまれた場合以外に、より年齢が進んで女学校を卒業した後、専門学校など上級学校に在学中であり、まだ未婚だった女性たちの一部には、多産政策を戦争末期の数多いスローガンの一つとして認識するといった、多少無関心な態度をみせた:

“産めよ増やせよ、あったよ、確かに。何も感じなかった。みなでて死ん でしまうからそういうんだなあと。戦争にでて死ぬから、男たちが。”< 金喜真>

当時専門学校に在学中だった鄭玉順も「そんなことは何も考えていなかった」と述べた。こうした態度は彼女たちが当時結婚と出産を経験していなかったこともあるだろうが、女性たちにとって多産が新しい規範でなかったこともある。実際当時すでに結婚して出産経験をもつ女性たちは教育水準に関わりなく、結婚したら当然子供を産むのであって、また、かならず男の子を産もうとしたと答えた:

“できるままに全部産んだよ。何人産みたいとかそんなこと考えもしなかった。おじいさん(夫)がまた一人息子でね。だから少し産もうとかじゃなくて、できるままに全部。”<潤朱英>

潤朱英は儒教的伝統の強い嶺南地方の地主階級に生まれた。12,3歳の時初めて学校へ行ったが、登校して二日目に伯父に呼ばれた。伯父は長い鞭をもって、「女は学校に行くと台無しになる」といって、家中の娘たちが学校に行くのを禁じたため、学校は一日しか行かなかった。家でハングルの基本を習い、7才の頃から結婚するまで家で裁縫と機織だけを教わった。「7,8才にもなれば、家のなかにいて、外には出さなかったので」外出というと節句や祝祭日などで同じ村に住んでいた親戚の家を訪ねるときだけだった。彼女は「足が顔よりきれいだった」と語った。彼女にとって出産とは結婚相手を選ぶ際、両親に従ったように、自分の意思とは無関係のものだった。これは女学校を卒業した鄭菜英の場合も同じであった:

“(多産奨励)新聞にでたのをみたり。何も考えていなかった。自分が産 んでいたからね。できるままに産んだのよ。何が大変なの。あの時は当然 産むんだったからね。韓国の風習も産まねばならないし。”<鄭菜英>

潤朱英と鄭菜英は同じく1910年生まれである。 潤朱英が生まれてから結婚するまで「川を渡ったこともない」に比べ、鄭菜英は当時としては珍しく普通学校をでて、両親の反対を説き伏せ、自分の望み通り仁川からソウルまで汽車通学をしながら女学校を卒業した新女性である。ところが、この二人の間に出産と男児をほしがることに関する観念の差はまったくみられなかった。鄭菜英は娘3人を産んで四番目に息子をもうけたが、もっと息子が欲しくて産み続け、18年の間に全部で8人の子供を産んだ。「韓国の風習も産まねばならぬ」と述べたように、彼女は家父長制イデオロギーを内面化しており、子供(とくに息子)をたくさん産むことが結婚した女性の当前の義務と認識していた。これは彼女が学校に通った1920年代に女性への教育制度が伝統的な家父長制体制の維持と、それに順応する賢母良妻を生み出す方向で行われていたことを意味する:

“京畿(高女)が賢母良妻主義なの。いつも賢母になれ、良妻になれというの よ。当然そうなると思っていたね。われわれ韓国人は当然、嫁に行くと賢母 良妻になるものでしょ。それが教育でしょう。”<鄭菜英>

鄭菜英は賢母良妻になるよう教えるのが教育で、自分が通った京畿高女がそうした教育を実践したのを自慢げに話した。彼女は、「新女性は家事が下手」という当時の新女性に対する批判を意識し、自ら一層伝統的な賢母良妻の役割を果たそうと努力したことを強調した:

“(姑に)手水をもっていってあげたりしたのよ。夜中の11時には必ず夜食作ってもっていってあげたり…私が何でそんなことしたのかというと、新女性は家事が下手だといわれたから。あの当時は、みんなそういったからね。おでかけばかりして、(家事は)できないと。それで本当によくやったのよ。”<鄭菜英>

潤朱英の場合もできるままに3男2女を出産したが、姑は度々彼女が意図的に子供を少なく産んだと不満をもらした9:

“姑はたくさん産みなさいといったけど、自然にできなかったの。おじ いさん(夫)が一人息子だから、おばあちゃん(姑)がしきりに息子5人産めと いったの。怒ると姑がそんなこといったの、子供生まれないようにして産 まなかったと。産まれないように防止したと。”<潤朱英>

上述のように、多産の慣習が強かった当時の社会条件により、日帝の多産政策は女性の出産行為に変化をもたらしはしなかった10。むしろ李慧淑のように、多く産めなかった女性に対しては少なくとも男児を二人以上出産せねばならない家父長制イデオロギーが大きな抑圧となった:
9 潤朱英は、1回目の面接では「夫が一人息子だから、できるままに産んだ」と語ったが、2回目の面接では「子供がたくさん欲しかったわけではなかった。心のなかではいつも息子三人、娘一人だけでいいと思っていた」と、強い男児出産願望を述べた。また、前述のように、子供の数に対する姑の不満も2回目の面接で明かした内容である。
10 植民地時代の女性たちは平均6人の子供を産んだ。一人の女性が一生の間に産む子供の数を表す合計出産率は、1925-30年 6.198名、1930-35年 6.126名、1935-40年 6.210名である;Tai Hwan Kwon, Demography of Korea, 1984, p.347.

“うちのおじいさんが3代続いた一人息子なんだけど、うちの姑はどうして子供を二人しか産まないで、もっと産まないのかと…(姑が)ある日は山に行って百種類の草を採ってきたんです。そうすると、子供が生まれると。うちの姑がどんなに欲しがったのか、とにかく、近所で誰かが子供を産んだと聞くと食事もしないで、横になっては泣くんです。”<李慧淑>

李慧淑の場合、二人目に男の子を産んで数年経っても子供ができないと、姑は民間療法などいろいろな方法を試したすえ、やがてよそから一人の女性をつれてきて息子と一緒に暮らさせた。李慧淑は「とても辛かったが、仕方がなかった」と語った。実は李慧淑の夫には性病があり、それが李慧淑に移され不妊の原因になったのである。李慧淑は不妊の原因が自分にないことを知っていたが、すべての責任と苦痛に耐え忍んだ。結局、その女性は本妻の李慧淑が苦しむ姿をみて、また夫の性病が治らず子供ができなかったこともあり去って行ったが、これは1930-40年代にも女性に多産の義務がどれだけ支配的で、彼女たちの人生を抑圧する規範であったかを物語る例である。こうした多産慣習の下で、ほとんどの口述者は少なくとも2人以上の男の子を望んだが、それは男児出産が嫁の立場を確固たるものにする必要条件の一つだったからである11。
一方、女性たちが多産宣伝に対して多少無関心な態度をみせたのは、男児出産を望むものが儒教的家父長制のほかに、日本の戦争であるという意識があったからである。多産キャンペーンに接した女性の一部は、日帝が侵略戦争のために朝鮮女性に多産を強要する矛盾を認識し、それに対して反感を示した:

“戦争にでて、どんどん死ぬから、産めよ増やせよをしきりにやったのよ。たくさん聞いた言葉です。そうやって、繁栄するようにしろというのだけど、みんなけなしたのよ。戦争で全部つれて行って死なせて、いうことないから、ばかなこというんだと。聞いたものですか。韓国人には聞こえないことだし、やりたければ、自分たちでよくやれと。”<康玉子>
11 ギティンスは、女性が母親にならないと決して正式な地位が得られないのは家父長制イデオロギーの根底をなしていることだ、と指摘する。Diana Gittins, The Family in Question, Macmillan, 1985. アン.ホヨン他訳『家族はないー家族イデオロギーの解剖』(イルシンサ、1997)146頁。

康玉子は多産宣伝を「当時は属国だったから聞くにもいやな言葉」だったとしながら嫌悪感を示した。金仁玉も「すべてお国のためにたくさん産めといったが、誰がそうするもんか」と答えた:

“だから、おかしなこというんだなってくらいでしょう。お前たちも急いで いるんだよな。みな死んじゃったから、奨励しないと国民が急激に減るでし ょう。20年後には国力が減るだろうから。”<李鐘姫>

面接対象者のなかで多産政策に反感を示した女性たちは、当時専門学校に在学中または、卒業した女性たちであった。前述のように、女学生でまだ少女だった彼女たちが多産政策の矛盾を正確に認識していなかったのに比べ、これらの女性たちは多産宣伝が日本の戦争遂行のなかででたことを認識し、朝鮮もその戦争に巻き込まれたことに対して抵抗感をあらわにした。
朝鮮社会は伝統的に多産の観念が支配的であり、上述のように、鄭菜英のような当時としては珍しく教育を受けた女性であっても、多産の家父長制イデオロギーから逃れることは難しかった。しかし、だからといって、すべての女性たちが多くの子供を望んだのではなかった:

“われわれは、学があるから産児制限せねばならないと、産まないようにしたの。自分の生活水準と合わないから。子供ばかりたくさん産んでどうする。教育させなければならないし。学んだ人であれば、そんなことみんな知っていたから。”<金仁玉>

しかし、丁度良い数の子を望むのは男児出産が前提となった後のことであった。上述のように、鄭菜英は二人目の息子を産むために、7人の娘を産み、潤朱英の場合、姑は男の子5人を望み、彼女自身は3人の息子を望んだ。経済的余裕のある暮らしをした潤朱英や専門学校を卒業した金仁玉のように教育を受けた女性よりは、むしろ貧困層であった金枝培や趙淵秀の場合、多産により強く否定的な態度を示した12。彼女たちには金仁玉が述べたように教育問題より、まともに食べさせ、着せることのできない窮乏した生活と、母親として養育と労働の二重負担のため、決して多くの子女を欲しがらなかった。とくに、戦争末期朝鮮農村は日本の食糧生産拡充のための適地とみなされ、日帝は朝鮮での戦時農産物を確保しようとした13。それにより各種農産物が供出され、産米増産のため労働力が動員され、農民の生活はより窮乏した14:

“あの頃は子供を産まない方法がなかったの。末っ子を44才で産んだね。たくさん産みたかったわけではないのよ。できたから産んだの。ほら、子供を9人も産んだからどんなに苦労したか。赤ちゃん一人産んで育てるのがどんなに難しいのか。食べるものもなくて、少なく産んだらよかったのに、たくん産んでしまったの。”<金枝培>

金枝培は貧農層出身で「一年中農作業をしておくと、日本人が全部もっていくから、食べるものがなくとても苦労した」と語った。基本的な衣食住も解決し難い貧困生活のために、金枝培は子供一人産んで育てるのがどんなに難しいかを繰り返し強調した。この時期、貧困層を中心に子供は農耕社会で労働力と父母の老後保障策としての価値よりも、扶養対象者であるという観念に徐々に変化していることがわかる。子供へのこうした態度は工場労働者として苦しい生計を立てていた趙淵秀にもみられる:

“あの頃は少ししかくれないの。男たちが8ウォンもらったっけ…うちのおじいさんが5ウォンもらって、あがって10ウォンもらったね。韓国人だけ給料をあれっぽっちしかくれないから、いつも足りないでしょう、お金が。だから、あの時苦労しているから、たくさん産みたくなかったの。みんな貧しくて、食べさせてやれないし、着せてやれないし。あまりにもみるのがつらくて、子供たくさん産むの一番嫌いでね。それは本当にいやだった。”<趙淵秀>
12 ムンも、多産主義の価値観があっても、経済的に貧しい階層では出産抑制の欲求がかなり広がっていた、と指摘した;ムン.ソジョン「日帝下韓国農民家族に関する研究:1920-30年代貧農層を中心に」(ソウル大学校社会学科博士論文、未刊行、1991)74頁。
13 カン.ギョング「戦時下日帝の農村労働力と収奪政策」チェ.ウォンギュ編『日帝末期ファシズムと韓国社会』(チョンア出版社、1988)86-108頁。
14 日帝は戦争拡大により食糧の必要性が増すと、1940年穀物の自由買入を供出制に転換した。はじめは物価統制令下で公定価格制を実施したが、太平洋戦争勃発後の1942年からは強制供出制に変え、生産量に対する供出量は年毎に増加した。各年度別、米穀生産量に対する供出量の比率は次のようである:1941年43.1%、1942年45.2%、1943年55.7%、1944年63.8%。チョ.ドンゴル『日帝下韓国農民運動史』(ハンギルサ、1978)13頁、289-90頁。

趙淵秀の夫は工場労働者であったが、韓国人労働者は日本人労働者に比べ、半分程度の賃金しかもらえなかった15。趙淵秀も貧困のため決して子供を多く産みたくなかったと話した。彼女は子供の多い家が少ない配給米で苦しんでいるのをみて自分が二人だけなのを幸いに思った。
しかし、当時避妊や人工流産に関する知識や技術が普及しておらず、法的許可もなかった状況で、現実にはほとんどの女性がたくさん産みたくなくても「できるままに産んで育てるしか」なかった16:

“あの時は産児調節の方法も知らなくて、できるままに産んだのよ。できれば産むの。あの時は中絶もなかったからね。”<李鐘姫>

面接対象者17人のなかで解放前に正確な避妊法を知っていたり、避妊を実行した人は一人もいなかった。金仁玉のみ妊娠周期法を利用した荻野式避妊法を間接的に聞いたことはあったが、実行したことはなかった17:
15 工場労働者の賃金差別をみると、日本人男子に比べ朝鮮人男子は半分程度の賃金を、朝鮮人女子は4分の1ほどを受け取った。1937年、日本人成年男子工の平均1日の賃金が1ウォン92銭であったが、朝鮮人成年男子工は98銭、成年女子工は49銭だった。シン.ヨンスク「日帝下韓国女性社会史研究」(梨花女子大学校史学科博士論文、未刊行、1989)35頁。
16 出産統制の方法は古代エジプトから使用された。日帝時代、医学的な産児制限法は普及されていなかったが、醤油や漢方薬を飲むとか、高いところから飛び降りるといった民間的な方法はあった。1931年『毎日新報』の連載小説『流産』では、妻の流産を望む夫が妻に「ブルジョア婦人たちが使う流産させる薬」の服用を勧める場面がでる。また、新聞にはサック(コンドーム)の販売広告も掲載された。
17 解放後の避妊法としては、駐屯した米軍をつうじて入手したコンドームの使用や1960年代初金徳順の場合のように、排卵期投薬法などがあった:
“産児制限としてやったのが、排卵期に病院に行ってあそこにヨードチンキを塗るといいっていうから行ってみたの。だけどできちゃったから、仕方なく産んだのよ。”<金徳順>
“私の友たちが3人だけ産んだの。避妊したの。避妊したのどうやってわかったかというと、ある日遊びに行ったら、避妊器具を洗っているの。買うの大変だから。男が使うの、それ、何、サック。コンドームのようなもの。薬局なんかで売らないし、米軍からでるものだから、それを消毒して乾かすのね。6.25起きる直前なの。その時、荻野式は知らなかった。”<金喜真>

“産児制限、考えてはいたの。私たちもたくさん産んだほうなのね。そんなの、日本語で荻野法。私の友たちはそれを使った。体温計ったり。(使ってみたのですか)いや。だから1男3女も産んだんでしょう。荻野法、それが日本の雑誌にでるのよ。日本人はそんなのをするから。”<金仁玉>

金仁玉が解放以前、いつ頃日本の雑誌を通して避妊法を知ったかは明らかでない。日本では1926年頃すでに雑誌への避妊法の掲載を禁じていた18。朝鮮でも日本と同じように、公の避妊知識の普及と産児制限を法律で禁じた。戦争末期、妊婦の健康上の理由で人工妊娠中絶をしなければならない場合でも、施術を担当する産婦人科医師の単独決定ではなく、内科など他科の医師二名以上の許可が必要であった。これは母体よりも人的資源としての胎児の生命を優先する政策であったことを示す19。戦争末期、京城女子医学専門学校在学中に病院で実習した李鐘姫の口述もこれと一致する:

“(掻爬手術は)おろさないと産婦が危険だという内科医師が少なくとも二名の診断書が必要です。この人の健康が何処がどういうふうに悪くて妊娠を続けると危険、という内科医師、また産婦人科で施術する人以外に他の医師が、この人は何処がどうで手術が必要であるというふうに法で定めたのです。妊娠中絶が国法で禁じられていたのです。”<李鐘姫>

妊娠中絶施術に対する法的禁止は鄭菜英の口述をつうじても実際に厳重に施行されたことがうかがえる:

“産児制限が何よ。やったら大変よ。禁じられているの。流産なんかしてはいけない。あの時、もし子供下ろしたりすると、法に引っ掛かるからだめよ。京畿(高女)が賢母良妻主義なの。だから産児制限そんなものもないでしょう。産児制限すると、賢母良妻になれない。そのまま産むのよ。”<鄭菜英>
18 1926年と1927年に『主婦の友』は妊娠中絶と避妊に関する知識や、それに成功した経験談を掲載したが、大半の内容が削除された;永原和子「女性統合と母性―国家が期待する母親像」『母性を問う(下)-歴史的変遷』(人文書院、1985)202頁。
19 朝鮮で1941年制定された「国民優生法」は、1年前日本で公布した「国民優生法」を導入したものである。日本と同じように、朝鮮でもこの法によって合理的理由のある場合も積極的に人工妊娠中絶を取り締まったことがうかがえる。

鄭菜英は産児制限に対して強い反感を示した。彼女は産児制限を堕胎と理解していたが20、堕胎すると賢母良妻になれないし、違法になるからやってはいけないと思っていた。植民権力は多産を奨励し、産児制限を禁じ、女学校教育者は「独身と産児制限、避妊法を享楽主義、個人主義の亡国思想」と定義付けた。「京畿(高女)が賢母良妻主義であるために産児制限をしてはいけない」といった鄭菜英の口述は、女学校教育をつうじて戦時帝国主義が求めた女性の母性観念が賢母良妻規範とかみ合い、女性たちに教育されたことがうかがえる。
結論的に、戦時多産政策は当時男児出産のための多産の慣習が依然として支配的であった朝鮮の社会的条件上、出産率に変化をもたらすほどではなかった。しかし、1920-30年代に新女性たちを中心に論議され始めた産児制限が多産政策により法的に禁止され、女性たちの出産に対する自己決定権を志向する論議がそれ以上発展しなくなった。朝鮮の女性教育担当者や知識人たちは戦時の多産政策の影響で一部少数の社会活動をする女性たちの独身主義を誹謗し、女性の教育機会拡大と職業進出のため結婚と出産を忌避する現象が現れないか警戒した。そのため、学校教育でも結婚と出産が女性の賢母良妻規範として強調された21。鄭菜英の場合のように、当時としては珍しく近代的学校教育を受けた女性であっても、結婚後は家庭で賢母良妻の役割を果たし、男児出産の義務もそうした役割の一つと当然のものとして受け入れていたのをみると、欧米では教育が女性の産児制限の欲求を促す要因になったのに比べ、植民地朝鮮では日本の帝国主義膨張により母性がより一層家父長制イデオロギー下に抑圧されたのであった:
20ペ.ウンギョンも、1950年代末や1960年代はじめまで産児制限は堕胎とほとんど同義に理解されていたと指摘した;ペ.ウンギョン「出産統制とフェミニスト政治」シム.ヨンヒほか編『母性の談論と現実』(ナナム出版、1999)148-9頁。本研究の面接対象者のなかで、荻野式避妊法に関して知っていた金仁玉は、産児制限を避妊を含む概念として理解し、医師であった李鐘姫は産児調節という用語を使った。金枝培は、おそらくずっと後の情報により、子供を産まない方法を「かきだす」と表現した。
21 面接結果、多産宣伝は韓国語ではなく、主に日本語で行われたことがわかった。面接対象者のなかで無学のためハングルや日本語がわからず、また農村に居住した5人の女性は多産宣伝について知らなかった。1943年末現在、日本語解読可能人口は、人口全体の22.15%にすぎなかった。10才以上の場合でも男子の44.9%、女子の15.8%のみが日本語の解読ができた。したがって、日本語の解読が不可能なほとんどの女性がこの政策に接することは難しかった、と思われる。つまり、多産政策は、都市を中心に、日本語のわかる教育を受けた少数の女性を主な対象として宣伝された、といえる。日本語の解読率に関しては、ナム.チャンギュン「日帝の日本語普及政策に関する研究」(慶熙大学校史学科修士論文、未刊行、1995)を参照。

“新婦が幣帛22あげるとき、舅がこういうでしょ。ナツメをばら撒きながら男の子何人兄弟産めと。息子ばかり産めというじゃない。それと(多産政策とが)同じようなもんだよ。”<鄭菜英>

戦時の多産奨励を家父長制の男児出産義務と同じ脈絡で話した鄭菜英の口述は、この時期女性の出産に対する認識と行為が女性自らの選択でなく、社会の諸イデオロギーの道具になっていた実状を物語っている。

2.養育の経験
戦時の人的資源としての重要性で朝鮮人児童の健康と衛生へ関心を向けた植民権力は、子供の生存と健康を母親の責任として規定した。しかし、農村では米だけでなく、綿花供出のためオムツもないのが養育の実情だった:

“着るものも綿を採って、綿で服を作るけど、そんなの全部もっていって着るものもないし、子供のオムツもない。ねんねこもない。そんなものなくて(部屋の床面には)ワングル敷物を敷いたの。子供一人育てると敷物一つは腐ってしまったね、おしっこで。子供は上着だけ着せて、下は裸のままだった。”<金枝培>

貧農であった金枝培は綿花供出で着る服にも事欠いた。古着で作ることもできなく子供たちはオムツなしで過ごした。こうした実情は農民だった李慧淑や潤心徳も同様であった:

“オムツは古着なんかで。擦り切れた服を切って。古着といってもそんなにたくさんできるんですか。そんなの(オムツ)買うには百里も行かなきゃ。”<李慧淑>

22 婚礼のとき、新婦が舅と姑にはじめて対面する儀式。
出産奨励の方法として出産時に産衣や純綿を配給するといった宣伝の背景にはこうした事情があった23。日帝末期、出産を経験した女性のなかで物質的恩恵を受けたり、これらのことを聞いたことがあると答えた面接対象者は一人もいなかった。ところが、オムツや衣類といった乳児用品の不足より深刻な問題は食糧不足であった:

“ジャガイモをたくさん千切りにして米と一緒に炊いたり。一ヶ月ごとに(配給を)もらってくると、半月しか食べられないの、食糧が。だからいつも食べられないから黄色くむくんだの、顔が。食べ物の苦労がひどかった。”<趙淵秀>

食糧不足は貧農層だけでなく、特殊な場合を除いてほとんどすべての階層で経験していた。金仁玉の夫は弁護士で、鄭菜英の夫は判事であったが、戦争末期には窮乏した食糧事情のため子供たちの栄養状態が良くなかったと口述した:

“(食糧事情)厳しくて口ではいえないくらいよ。子供たち、4、5人が今みると栄養失調だったみたいなのよ。”<金仁玉>

植民権力は朝鮮に多くみられた乳幼児の死亡を朝鮮の母親が栄養と衛生に関する科学的知識に欠け、非科学的な伝統的養育を行なうためと批判した。しかし、子供の健康にもっとも大きい影響を及ぼしたのは、劣悪な食糧事情と医療施設の不備であった。当時医療施設がほとんどなかった農村だけでなく、都市でも乳児の死亡は珍しくなかった。次の<表3>で示すように、1930年京城府で生まれた児童の約5人中1人は生後1年以内に死亡した24:

<表3> 1920年代乳児死亡率
(%, 京城府, 1才未満)25
23 戦時下の農村において、家内生産されたすべての綿布が供出されたが、農民層は綿布の配給からも除外された;樋口雄一『戦時下朝鮮の農民生活誌1939-1945』(社会評論社、1998)56頁。
24 外国の乳児死亡率をみると、1936年イギリスは6.19、ドイツ 6.58、フランス 6.70、日本 11.67(%)である。日本に比べて朝鮮の乳児死亡率が約2倍高いことがうかがえる;女性史総合研究会編『日本女性生活史第4巻』(東京大学出版会、1990) 212頁。
25 イ.カクジョン「乳幼児死亡率調査」『朝鮮社会事業』9,5,38頁;前掲「日帝下“児童期”の形成と家族変化に関する研究」34頁から再引用。

1921年
1922年
1923年
1924年
1925年
1926年
1927年
1928年
1929年
1930年

朝鮮人
31.5
27.9
22.5
22.1
22.9
22.2
23.6
24.7
25.4
21.2

日本人
18.3
16.7
17.7
14.4
14.0
11.5
13.1
10.8
13.9
11.3


(日本人は朝鮮居住日本人に限る)

潤朱英は長女が3才の時、肋膜炎にかかり、病院につれて行ったが、病院での治療では治せなかった。療養のためより環境の良い実家につれて行ったが、そこで結局長女は亡くなった:

“あの時は病院もなかったのよ。大邱では病院に一度行った。病院に一度行ってから田舎に行ったの。今だったら生きられたかも知れない。だけど我々があの時は暮らしが中以上だったけどそうだったの。”<潤朱英>

潤朱英のように、子供の疾病治療のため病院に行けたのは、都市に住む余裕のある階層でなければ難しいことであった。それは高い医療費のためでもあったが26、朝鮮人が診察を受けやすい私立病院の数が総督府の取り締まりにより大幅に減少し、医療施設の数が絶対的に不足していたからでもある27。したがって、貧農層の児童では伝染病にかかり死亡する確率がより一層高かった。金枝培の住んでいた忠清道の農村には医療施設がなかった。彼女の4人の娘ははしかと赤痢、天然痘、口病にかかり、1才前後と3才、5才のとき亡くなった28:

“病院がなかったの、そのときは。だから死んだの、病気にかかって。そのときはうちだけ死んだのではなくて、よその家もそうして死んだのよ。そのときは病院もなく、予防もなく、そのまま置いたから、大きくならないで死んでしまったの。”<金枝培>
26 1928年総督府は、朝鮮総督府医院と道立病院の医療費を全国的に統一したが、これによると、医院での一回の診察料は1ウォンから5ウォンくらいであった。1932年、朝鮮人男子労働者の1日平均賃金が85銭程度であったから、こうした診察料はかなり高いものであった;前掲『看護の歴史』199-203頁。
27 植民地時期医師の数は増えつつあったが、1921年現在、医師一人当たりの人口数は平均1万名と、医師不足が深刻で、朝鮮人は医師にかかることが難しかった。また、朝鮮総督府医院や道立病院といった官・公立病院は一次目的が日本人の救済にあったために、朝鮮人のための病床は1割程度に過ぎなかった。さらに、1919年「私立病院取締規則」を制定し、私立病院の取り締まりを始めた。このため、とくに、朝鮮人の経営する私立病院の数は1919年の111ヶ所から、1939年には13ヶ所へと大幅に減少した。また、日本人と外国人が経営する私立病院の数を合わせても368ヶ所から93ヶ所に減少した;前掲『看護の歴史』201-7頁。
28 解放以前に出産した9名の面接対象者のなかで子女の病死を経験したのは4名だった。

農村女性たちは育児と家事労働以外に、昼間は畑仕事、夜は機織など多くの労働をせねばならなかった:

“並大抵じゃないですよ。夜も昼も休む暇がないんです。畑にでる時も針や糸、ハサミをもって行くんです。仕事してちょっと休む時間があると、休まないで縫い物する。そんな苦労をして暮らしたんです。”<潤心徳>

とくに農村では米などの穀物のほかに、女性の手によって生産される蚕糸、綿花、ひいてはかますに至るさまざまな農産品が供出対象になった。供出義務は守らないと罰金を科せられるほど強制的であり、農村女性の労力をより加重させた29:

“綿を採っておくと全部もって行くし、蚕をして繭を取っておくと全部もって行く。農作業して米少しやっておくと、それももって行く。それでもっと貧しかった。かます編んで供出しろといって、かます編むのに必死だった。そうやって日本人にもって行くのよ。供出しろと日本人たちがせめたてて。しないと、罰金払わせられるから。”<金枝培>

植民権力は児童養育の国家的意味を強調しながら、母親を全養育の担当者としてみなし、養育指針に従うことを求めた。こうしたい説には母親は専業主婦として子女養育に細心の注意と世話を払わなければならないというメッセージが含まれている。しかし、日帝下の母親の養育経験と労働を考慮するとき重要なのは、一家の生存問題が切実な階層では母親の養育役割は他の労働より優先されなかったことである。これは、母親が家庭において重要な労働力となる場合、養育役割のみを担うことはできないためである。ゲルンスハイムは、前産業社会ではこうしたことが普遍的な現象であると指摘した30:
29 供出農産物の品目は1939年の米から1942年には雑穀、綿花、麻など特用作物と野菜、松脂など40余種に渡った;前掲『韓国女性史―近代編』218頁。かます編み作業は各戸当り決まった量が割り当てられたが、主に女性たちが担当した;キム.ジンミョン『束縛のなかの韓国女性』(チプムンダン、1993)101頁。

“(部屋の床に)敷物をしておくと、どうしてもワングル敷物だからね。そこにかかとをこすりつけて泣いて血がでて、かかとが全部こんなに擦りむけてね。血が流れでして。それでうんこにぬれ、おしっこにぬれ、そんなふうに育ったね。子供はつれて行けないよ、野原には。家においてでる。おなかが空くでしょ。朝8時頃でると、間に乳を飲ませに帰らないし、お昼食べに12時頃帰ってくる。そうすると、子供たちがもうひどいの。夕方5時頃帰ってくるし。お乳飲ませる。それで自分たちで家にいるの。そんなふうに育てたのよ。”<潤心徳>

潤心徳は全羅道の貧農出身で、彼女もやはりたくさんの農作業をした。朝赤ちゃんを家においたまま外にでて働き、お昼に帰ってくると、赤ちゃんは荒いワングル敷物にかかとをこすりつけながら泣いて、血がでるほどであった。母親の労働が家族の生存にとって必須である農民家族では子供の養育は大人が保護せず放置したが、それが当たり前のことと思われた:

“農作業したよ。田植えもしたし。子供は関係なかった。自分たちで遊ぶように家において、仕事は何でもした。田植えもして、畑も耕したし。服も綿をひいて機織して着て、夏は麻するのはもっと難しい。そうやって服を作って着ると、すぐやぶれる。今の服と違ってね。朝8時にでると、12時に帰ってきてお昼作って食べて、薄暗くなると、帰ってきて夕飯つくるし。家に帰ってくると、(赤ちゃんが)おなか空いているから、自分でお乳のほうにはいはいしてきて飲むのよ。”<金枝培>

金枝培も「子供に関係なく」畑仕事をした。幼い子供を家に置いたまま、外で働かねばならなかった女性たちの場合、子供をほったらかすことへの罪悪感は感じられなかった。彼女たちは「そのときはみんなそうやって育てた」と語り、養育よりも窮乏生活のために多くの肉体労働をしなければならなかったことが何よりも苦しい経験として記憶されていた。
30 Elisabeth Beck-Gernsheim, Die Kinderfrage, イ・ジェウォン訳『私のすべての愛を子供に?』(セムルキョル、2000)45-6頁。
農民層だけでなく、労働者階層では女性たちが低賃金で工場労働に動員された。趙淵秀の夫は仁川の製麻工場で労働者として働いた。その工場では日本で爆撃にあって焼けた紡績機械をもち込み、軍需用品を生産するために工場労働者の婦人たちを動員した:

“私は(工場に)行って機械を磨いたよ。ペーパーできれいに白く磨いて油を塗ってですと、もって行って機械を組み立てて全部するの。空気が悪くて本当に大変だった。のどが痛くて、息ができなくてね。油の匂いに鉄の粉がたくさんでて。それで人夫頭に話して、後で女職員たちが300名いる食堂に行って白菜洗ったりそんな仕事した。(工場に)でないといけないのよ、軍需品だから。手早く磨いておかないと、機械を組み立てられないから。手間賃はくれる。私たちには少ししかくれないの。一日中機械磨いても、ほんの少ししかくれないの。少ししかくれないから、稼ぐってもんでもないよ。”<趙淵秀>

趙淵秀は鉄粉のせいで息をするのも大変な作業環境で、朝7時から夕方6時まで1日11時間の重労働をしたが、もらえる賃金は民族と性による二重差別で生活の足しにはならなかった。趙淵秀がこうした労働に動員されている間、当時6才の息子は一人で家に置かれ、8才の娘が学校から帰ると、子供二人で朝作っておいた昼ごはんを食べた:

“茶碗一つにご飯をよそって、半分残して後で昼に食べなさいというと、そうするの、子供たちが。うちの息子と娘が学校が近いからお昼食べに帰ってその半分を食べるの。水とキムチと食べるのよ。子供たちは自分たちでいたの。私は会社で働くと、そこで食べられると食べるし、食べられないと食べない。夕方家に帰ると、子供たちがご飯炊くのばかりまっているのよ。”<趙淵秀>

労働者層や農民層と違い、都市のブルジョア階層であった潤朱英は屋外労働こそしなかったが、かといって養育が主な仕事でもなかった。一般に、幼い子供の養育は主に家事補助人(女中)がいたり大家族の場合には祖父母が受けもち、母親は裁縫そのほかの家事労働に縛られた。この時期の家事労働は、合理化される以前の在来式台所と機織仕事、それに毎度手で解いて洗濯する韓服など時間と労働を要するものであった。潤朱英は家に家事補助人がいたが、彼女が主にしたのは裁縫で、4人の子供を育てていながらおんぶをしたことがないといった:

“家には子守がいて、子守がご飯も炊いて後片付けもする。そんな子たち、たいていの家庭にいたのよ。お母さん(姑)が若いから配給もらうのやってくれて。私たちはそのとき、姑のチマ(韓服のスカート)や足袋のようなもの全部作ってあげたのよ。嫁がくると、針もたなかった、普通の人は。結婚したら、姑は針もたない。チマまで全部ぬわなければならないのよ。足袋も作るし。だから毎日針仕事するのよ。市場に行ったり、外の仕事はできなかった。今と違ってそのときはのり付けて、解いて(洗濯)するたびに縫わなければならない。昔は時間がないし、子守がいて、それで子供おんぶしたことない。”<潤朱英>

とくに、大家族や本家の主婦は頻繁にある祭事の準備、度重なる訪問客の接待、大家族を支えるための家庭経営などで農村女性に劣らないほど多くの仕事をした。子女養育はこうした家事労働に比べ重視されなかった31。
一方、一部では近代的養育法に接することによって伝統的な育児法に少しずつ変化が起きた。面接対象者たちが接した新しい育児知識は西洋人宣教師をつうじて直接習うか、あるいは日本の女性雑誌を通して間接的に接する二つの方法が主な経路であった:
31 “夜明けに起きて夜遅くまで針仕事をしたが、今考えると、どう耐えたかという思いがする…1年に祭事が18回もあって、お客さんを迎え接待し、洗濯は下人がやってくれても、のりつけやアイロンがけ、砧うち、そんな仕事が全部自分の仕事であったから…祝祭日になると、針仕事で夜明かしせねばならなかった…私は胎教だけでなく、子供の教育にもとくに気を使ったことがなかった…私の頭にはいつも“大家族を守らなければならない”“祭祀をどうやって執り行なわねばならない”こんな大きい仕事だけでいっぱいになっていたから…今考えると、私は子供たちをあまりにもおろそかにした…私自ら農事をやって豚も飼い、カイコも飼ったりしたから、どこに力が残っただろうか?”;パク.ピルスル口述・チョ.キュスン整理『名家の内訓』(ヒョンアムサ、 1985)36-7、82-3頁。口述者であるパク.ピルスルは1917年生まれで、本家の嫁として暮らしてきた。

“われわれは田舎でも西洋人が先にきたでしょう、宣教師が。ジョンソンアンドジョンソンあるでしょ?ベビーパウダー。私たちはそれ、子供のときから使ったよ。そしてピン。アメリカのもの、大きいの。うちのおばがいつももってくる。子供が生まれたというと、まずそれを贈り物にする。オムツナンモク32を真んなかにこうしてピンで止める。そこは宣教師が早くきて、とても開けてたのよ。子供産むときは当然消毒するし。うちの母は半分医師なの。エキュブスというのがあるんです。胸にするの。それも準備していて。また吸入器。それはアルコールランプに入れて、こう全部準備しておいて。うちの母は医学知識が並でないんですよ。”<鄭玉順>

鄭玉順の母は近代教育を受けず新女性ではなかったが、親族の中に医師がいたという家族背景と、彼女自身がキリスト教信者として宣教師たちと接触した関係で、西洋医学知識に接することができ、それを積極的に受け入れたのである。

“うちの母も娘たちを嫁に行かせると、当然それを準備しておいたの。ネールというんだっけ?綿。それをくれる。オムツ用に。それを四角にたたんで三角にする。”<金喜真>

金喜真の母も新式教育を受けなかったが、鄭玉順の母と同じように彼女たちが住んでいた平安北道には西洋宣教師が多く、ほかの地方より先に彼らから近代的医学知識と養育法を受容することができた。鄭玉順と金喜真は、「オムツを三角にたたんでアメリカ製のピンで止める」といった新式育児法を母から習った。とくに金喜真は、合衆国と日本から受け入れた、当時の新学問である家政学を専門学校で専攻した。女子専門ではアメリカ人教授を通して西洋式家庭を見学し、科学的かつ合理的な家事知識を学んだ。しかし、そうした西洋式家事知識や育児法は改良された住居環境や施設でないと、実践しずらい場合が多かった。実際に彼女が用いた育児法は、家庭で母親や姉たちがやっていたことを実践したのであって、大部分は伝統的知識であった:
32 やわらかく薄い木綿の一種。

“(育児に関する知識)それはうちで習ったのよ。みたのよ。義理の姉もいるし。当時はそれが(家政学)が新学問ですよ。西洋についても教えてくれるし、家政学についても教える。西洋家庭生活、そういうものみせてくれて、自分(アメリカ人教授)の家につれて行ってみせてくれるし。とてもかけはなれてたんですもの。暮らしぶりが違うんだもの。しようとはするけど…大体はお金持ちの娘たちが家政科に行ったんです。そして裕福な家の子たちがそう結婚するし。(私は)しようとしてもできなかったんです。現実に合せて住むのです。また戦争当時でね。”<金喜真>

金喜真のように専門学校で家政学を専攻した場合でも、実際養育では母親世代の知識に主に依存した。李恩實は専門学校を卒業し、結婚後教師として働き、息子の養育には母親の助けを得たが、彼女もやはり母親から育児法を習った。金仁玉も同様に、専門学校を卒業した新女性として、自ら「最高の教育を受けた」と語ったが、伝統的な大家族制度の下で暮らしたため、舅姑の伝統的育児法に従わねばならなかった:

“分家して住む友達は、日本の雑誌みていたね。私は親たちと一緒に暮らしてたから、そんなふうにはできなかったの。親のいう通りにしないと。”<金仁玉>

金仁玉のように舅姑と同居の場合、新しい育児方法の実践が難しかったのは、この時期依然として父母世代の権威の影響力が強かったことを意味する。こうして近代的な新しい育児知識の実践には教育を受けた新女性でも、どんな家族制度の下に住むかが重要な要因として作用したのである。また、鄭玉順や金喜真の母親のように学校教育を受けなくても、新たな近代養育知識を吸収した女性たちがいたし、近代教育を受けた娘世代はこうした母親の養育知識をかなり受け入れていた。このことは養育が単に知識だけでなく、実際の経験が大事な領域であるためでもあろう。しかも金喜真のように最高学府で家政学を専攻した女性も母親の伝統的知識を何の抵抗もなく受け入れて活用した。彼女は専門学校で学んだ西洋式育児知識が現実と「かけはなれた」ものだと語ったが、とくに戦時体制のように物不足で窮乏した当時はもっとそうだったはずである。これは近代的養育法を実践するには知識だけでなく、物質的条件も整っていなければならないことを意味する。潤朱英の場合がそうした例であるが、潤朱英は学校教育を受けなかった、いわゆる「旧女性」である。しかし、経済的に富裕層に属した彼女は面接対象者のなかで1930年代に人工授乳をした唯一の女性であった:

“私の乳が足りなくて、子供たちに牛乳もたくさん飲ませたり、乳も飲ませたり。(牛乳)粉もあるし、日本からくるもの、この頃飲むカンのようなものに。そんなのついで、水にまぜて。この頃われわれが飲むサイダー飲むカンのようなところにでるのよ。”<潤朱英>33

上述のように、面接対象者たちが近代的養育法を語るときは、ベビーパウダーや簡単な医療道具、そして粉乳など近代的商品もともに語られた。これは、近代的養育法を実践するには、乳児用品といった近代商品の普及も伴うことを意味する。よって、1930-40年代に近代的養育知識を受け入れ、実践するに当たって母親の教育程度と養育に必要な商品購買ができる経済環境、そして親世代から干渉されず新知識を実践できる家族形態がより大きな要因として作用したことがうかがえる34。
結論的に、日帝下での母親の養育役割は、ほとんどの階層で他の家事労働および生産労働に比べて重視も優先もされなかった点である。農民家族の場合、末期に進むに従い、農産品の供出増加は農民女性の労働を加重させ、また、労働者階層では女性たちが軍需産業に動員され長時間労働に従事せねばならない事例もあった。こうして母親が家族の生存のために外で長時間労働に従事せねばならなかった場合、子供たちは放っておかれるのが一般的であり、母親たちはとくに罪悪感を抱くこともなく、また周囲からの圧力もなかった。経済的余裕のあったブルジョア階層の場合も、母親は養育とともにさまざまな家事労働をしなければならなかったため、養育は母親の専任ではなく、祖父母や家事補助人が相当部分を手伝った。
33 潤朱英が語ったように、植民地時代の新聞には、乳児用粉乳と練乳の広告が掲載されている。『毎日新報』1937年1月17日付の広告欄には、アメリカ製品と思われる「Gail Borden Eagle Brand」が、同3月3日付には「森永ドライミルク」が宣伝されている。
34 1920-30年代を中心にした近代的児童養育に関するキム.ヘギョン(1998)の研究では、近代的養育法が新式教育を受けた女性たちを中心に受け入れられた、とした。もちろん、学校教育を受けた女性の場合、活字媒体に接しやすい点でそうであろうが、一般的に、経済的余裕のある階層の女性たちは学校に行かなくても、ハングル程度は解読できたと考えると、近代的養育方法が教育を受けた女性たちだけの専有物ではなかったと思われる。本面接調査で、鄭玉順や金喜真の母親や潤朱英の場合、学校教育は受けなかったが、相当レベルの近代的養育法を実践した点で、家族の経済的背景も重要な要因として考慮されるべきと思われる。
根本的に軍事力と労働力の増強に関心があった日帝は、朝鮮児童の健康と衛生増進のための実際的医療施設や公的サービスの整備には消極的だった。児童健康相談や無料検診など宣伝行事が催されたが、面接対象者のなかでこうした行事に関する話を聞いたりあるいは参加経験のある者は一人もいなかった。むしろ、無理な供出は農村女性の労働を加重させ、母体の健康を害するのみならず、養育をおろそかにする要因になったと思われる35。とくに、戦争末期、ほとんどの階層が経験した食糧不足は児童の健康を悪化させる主な要因の一つであった。植民権力は帝国主義拡大のため家族と母親の養育方法に介入したが、帝国日本とは対照的に植民地では、児童の養育と衛生に関する記事の掲載といった方法にとどまった。それは費用をかけず、女性たちの思考を統制する「啓蒙と教化」中心のやり方で、母親たちの養育に対する個人責任を強調し、それにより 物質的に窮乏した戦争末期の養育と家庭生活を打開しようとした目的であった。また、医師などの医療権力と結びつき、伝統的育児方法を非科学的ものと貶めることによって、女性たちの間で行われてきた世代間の知識伝承を否定し、朝鮮女性は近代養育に無知であると批判することで優越性を示そうとした36。しかし、口述からみられるように、面接対象者の母親世代は学校教育の有無に関係なく、近代的養育知識に対する受容力をもっており、娘世代に養育知識と方法を伝達する役割も果たした。また、近代的学校教育を受けた女性たちも抵抗なく母親世代の伝統的養育法を尊重し受け入れた。それは住居環境の改善や養育を取り巻く整備が旧態依然であり、社会医療の普及もなされなかったために既存世代の養育知識が依然として有効だったためと思われる。

35 植民地時代、貧農層女性の76.9%は出産の直前直後も働き、農村女性の大多数が産後1週間以内に仕事を再開した;ムン.ソジョン「家族生活の変化と女性の成長」シン.ヨンハほか編『韓国社会史の理解』(文学と知性社、 1995) 470頁。
36 植民支配下エジプトの母性と養育に関して研究したシャクリも、植民地官僚は教育を受けなかった「無知な」母親たちを養育に不適合と問題視し、自分たちの主張を立証するために、ヨーロッパの教育を例として提示した、と指摘する;Omnia Shakry, “Schooled Mothers andStructured Play: Child Rearing in Turn-of-the Century Egypt,” in Lila Abu-Lughod, ed., Remaking Women: Feminism and Modernty in the Mddle East, Princeton Uni-
versity Press, 1998, p.127.
3. 家庭教育者としての母親の経験
日帝末期の学校教育目標は内鮮一体の支配政策により、朝鮮人としてのアイデンティティーをなくし、天皇に忠誠を尽くす皇国臣民の育成にあった。日帝末期国民学校の教師であった李恩實によると、こうした皇国臣民化教育は実際に徹底的かつ厳格に行われた:

“月曜日毎に愛国日なの。愛国について、また校長が時局について子供たちに話しをする。戦争について話すのよ。徹底的によくさせた。徹底的に。何でもやりだすと、ついて行かねばならないようにできているの、体制が。とても厳しい。スパルタ式。”<李恩實>

日帝は皇国臣民化教育の効果を高め、戦時体制にふさわしい家庭生活「改善」の実践を強調したが、そこで注目したのが家庭での母親の役割であった。よって、母親たちが戦時体制の学校教育にどれだけ協力し、家庭で皇国臣民化教育方針に従い、子女をいかに教育するべきかの具体的方法を教えようとした。これは、家庭でも学校教育方針の指導を行なうことで植民支配体制の教育的効果を高めるためであった。実際この時期の国民学校は母親たちに戦時教育の協力者としての役割を求めた:

“父兄会といって校長が1年に1,2回親たちを呼んで。校長がいうのは、日本に協力せよというものです。日本思想を入れようと、お前たち、精神がそうだから皇国臣民になれと。日本臣民になれと。そのときは日本校長だから、日本語でいうと、韓国語で通訳するの。全体が集まるのよ。時局講演のように。”<李恩實>

李恩實の口述によると、父兄会では校長が直接父母たちに時局認識を訴え、植民体制への協力を求め、また日本語が不自由な父母たちへは通訳を行なうなど、形式的な集会ではなく実際の内容伝達に忠実であろうしたものとみられる。父母の招集は年1-2回から毎月1-2回に至るなど学校差があり、名称も学校によって異なり父親を対象にした父兄会や育成会、また母親中心の姉母会(または母姉会)があった。日帝末期に子供を学校に行かせた経験をもつ6名の面接対象者のなかで金枝培を除く、5名の女性が学校へ呼ばれた経験があったが、彼女らが参加した父兄会には主に母親たちが出席した:

“初めはひと月に1回以上で。よく行ったもの。(子供の入学後)半年くらい経ってからは一月に1回くらい呼んだの。行かないと、子供たちの成績が落ちていけない。学校に呼ぶと、父兄たちがよく行かなきゃ。そうすると成績が上がる。1年から行かなかったりすると、子供の成績が落ちるのよ。なぜかというと、そんなのが子供たちの成績に入ったからね。そうよ。父兄たちがよく行けば、日本人が満足してそうやってくれるから。父兄会といったけど主にお母さんたちが集まったよ。みんなお母さんたちなの。国民学校でた人は前にでて働いて、何も知らない人は後ろに立って。来いといわれるから出席だけして。父兄会すると、日本語でやらないと。お母さんたち大体国民学校でたみたい、子供たち国民学校に行かせる人は。私たちは田舎に住んだからそうだけど。夜学してもそんな言葉(日本語)できるでしょ。できれば日本語使おうとみんなするしね。”<潤朱英>

潤朱英の子供が通った地方都市の学校では父兄会への参加が子供の成績に影響を及ぼすと思わせるほど、父兄会への出席は義務的に求められたようだ。父兄会では校長または教師が日本語で教育方針を伝え、日本語ができて子供の教育に関心が高い父母は積極的に活動した。

“学校でくるようにいうと行くでしょ。そうすると、子供の成績をみせて、今日本がどこまで行った、日本が間違いなく勝つと、そんな話をしてくれたんです。われわれはじっくり聞かないんですよ。しかし、日本が勝つと話したんです。”<李慧淑>

先の李恩實の口述通り、日帝末期の父兄会は純粋な教育内容より、戦時思想や日本の勝利を確信させる時局宣伝や防空訓練法、疎開の奨励など戦時体制に関する内容が多かった:

“飛行機がやってきたら、どう訓練するか話して、疎開行く人行けといったり、疎開行くなら、食べ物をどう準備するか話したりね。”<趙淵秀>

のみならず、日本の祝日には学校に召集し、天皇万歳を三唱させるなど、親たちにも天皇に対する忠誠を誓わせようとこうした行事に動員したが、これは親の態度が子女教育に影響を及ぼす要因の一つとみ做したためである。こうした親の動員も子女の成績に影響を及ぼすとか、配給における制裁といった圧力があったため、親たちは出席せねばならなかった:

“何といったっけ?神様といったっけな?万歳しに集まりなさいというと、みんなでなければならないの。みんな呼び寄せて(学校の)庭にいっぱい立たせて。天皇陛下万歳、そう唱えたの。お母さんでも、お父さんでも、家にいる人はみんなでなければならないの。主にお母さんたちがでた。でないと子供たちが二人も学校行っているのに、でないと子供たち退学させるといったの。それから配給ももらえないからでたよ。”<趙淵秀>

戦争遂行のための各種供出は愛国班などの地域組織だけでなく、学校でもある程度の強制性をもって施行された。一般に広く供出させられたのは真鍮や金属類で、ほかに戦時物資節約のための廃品回収など学校は親たちを戦時体制に協力するよう積極的に活用した。母親たちは学校をつうじて「匙でも残すと退学させる」といった圧力を受けたりした:

“真鍮の器は全部納めないといけないのよ。匙でも残しておくと子供たち退学させるというから、匙まで全部もってあげたのよ。全部真鍮の器で食べてたのに。<趙淵秀>”

学校が親たちに求めたもう一つのことは家庭での日本語使用であった。日本語の使用は「国語常用」といい、新聞でも「国語常用家庭」を模範家庭として賞賛するなど積極的に宣伝した37:
37 さらに、国民学校を中心に各家庭の日本語解読レベルを調査し、家族全員が日本語を理解する家庭と、祖父母および学齢以下を除いた全員が理解する家庭を選び、「国語の家」を象徴する徽章を門に付着するようにした;前掲「日帝の日本語普及政策に関する研究」51-2頁。こうした「国語常用」を行なった家族への表彰は、小説『カピタンリ』にも描かれている。チョン・グァンヨン『カピタンリ』(乙酉文化社、1994)118-9頁。

“いつも国語を常用せよといって、国語を常用する家庭が新聞にでたりしたんですよ。模範家庭として。そうよ。新聞にでるよ。”<鄭玉順>

日帝末期の学校では日本語使用が義務付けられ、朝鮮語の使用は禁じられた。さらに、学校は家庭での日本語使用を父兄会などをつうじて強く奨励した。こうした状況で、鄭菜英のように子女教育のために家庭で日本語を使った場合もあった。1920年代に京畿高女に通った鄭菜英は「日本時代だから、日本語が話せないといけない」と考え、家庭で子供たちに日本語を教えたり、日本語で話したりした:

“子供たちの教育には熱心だった、私は。だから私がそこ(京城師範付属小学校)に入れることができたの。当然日本語するものと思って。日本語使えって騒ぐでしょ、もちろん。家でも子供たちと日本語使ったもの。そのときは当然日本語で話すものと思ってそうしたのよ。倭政時代だから使わなくてはならないでしょ。家で韓国語も使って、子供たちにもどんどん日本語教えるのね。日本時代だから日本語がよくできないとね。よく覚えたのね、そのとき。子供の教育一生懸命にした。勉強教えて、よくなることばかり願うのよ。”<鄭菜英>

植民国家は二ヶ国語に堪能で、支配国と植民地人たちの間を言語で介在できる事務員を必要とした38。日本語が支配階級の言葉である以上、良い上級学校に進学し、支配エリートになるためには日本語の熟達が求められ、日常生活でも日本語は優越した言語としての位置を保った39。
38 前掲Imagined Community『民族主義の起源と伝播』145頁。
39 ファノンの指摘によると、植民地化された民族は、土着文化の独創性を埋没させられたため、劣等意識をもつようになり、そのため文明を付与した国の言語、つまり植民支配国の言語と文化規範を自分の価値として受け入れることで、未開から離れようとする。人間は言語をもつ特性があるために、結局言語によって表現され意味が与えられる世界を所有するからである。植民支配下での朝鮮人の日本語使用も、こうした脈絡から説明できると思われる;Frantz Fanon,
Peau Noir, Masque Blanc, キム.ナムジュ訳『自分の土から配せられた者たち』(チョンサ、1978)19-20頁。
自ら子女教育に熱心だったと語る鄭菜英は、当時公立の有名小学校に子供たちを入学させ、家庭では日本語を教えた。しかし、彼女は解放後は日本語を教えなかった。彼女は“解放後はどうして日本語を使うの。ほら、親日派になるよ”と反問した。ここで重要なのは、母親役割の遂行は社会体制イデオロギーの影響範囲内で行われ、そうした体制イデオロギーの影響力から離れるのが難しいことである。ルディックは女性は歴史的に軍事的、社会的暴力、時にはひどい貧困の中で母親になってきたが、その社会の価値を決められない無力さのために、母親の思考が他人が「望ましいとするもの」すなわち支配文化の価値を選択してきたと指摘する40。鄭菜英の母親役割はこうした体制イデオロギーの影響力の否定がとくに難しい植民体制の下でその価値を一部受け入れながら、子女の発展と向上のために努力した例といえる。
鄭菜英のように経済的余裕のあった潤朱英も子女教育に関心が高かった。彼女の子女教育に対する望みは、民族差別のなかで子供たちが一生懸命勉強して、いい職をみ付け、できるだけ差別を受けずに暮らすことであった41:

“私たちが子育てをしたときは、解放なんてことは思いもつかなかったけど、うちの子供たちをよく育てて日本人に勝たせる、そんな考えはしていたの。中学校の試験もどんなに難しかったか。制限があったの。日本人何パーセント、韓国人何パーセント、そうやっていたから、韓国人は試験がよくできても落ちて、日本人をもっと入れるから。中学校も入るの難しかった。中学校でると、実力あって。どうしても、うちの子供たちはよく勉強してかならずそうならないと、そんな思いはとっても強かった。やつら(日本人)にやられてもっとそんな気になってね。そう。そのときは大体普通なら職場に入れなかったのよ。同じならやつらを入れて、韓国人は入れないからね。勉強がよくできないと、職場もいいところに入れるからね…そんな思いしかなかった。”<潤朱英>
40 Sara Ruddick, “Maternal Thinking,” Rethinking the Family.Some Feminist Ques- tions クォン.オジュほか訳『フェミニズムの視角からみた家族』(ハヌル、1991)114-5頁。キム.ジョンヒは、母親たちがこうした体制を読み取れないと、子供たちを体制内のはしごの頂上に登れるように押し上げる孟母になるしかない、と指摘する;キム.ジョンヒ「生命女性主義の存在論的探求」(梨花女子大学校女性学科博士論文、未刊行、1998)87頁。
41 アンダソンによると、植民地教育政策の目的の一つは、政治的に信頼でき、恩を知り、文化変容を経験した土着エリートで、植民官僚体制と商業的企業の下級階層の仕事をする、植民支配国の言語を知る植民地人を一定数のみを輩出することである。潤朱英の語るいい職とは、結局こうした仕事をする職を意味する;前掲 Imagined Communty『民族主義の起源と伝播』158頁。

日帝は内鮮一体を主唱したが、実際は進学や就職、給与において日本人と朝鮮人の間には歴然とした差別があった。植民地教育の真の目的は下級労働力の確保にあったため、実業学校以外の中等学校の新設を認めなかった。その結果、中等学校の進学率は10-15%に過ぎなかった。これは学費が払えない朝鮮人の経済的貧困も理由の一つであろうが、最大の理由は朝鮮人のための中等教育機関の数が絶対的に不足していたからである42。さらに、公立学校は日本人学生をより多く入れたため、1930年代になると中等学校の入試が激しくなるという現象が起きた43。こうした社会的条件の下で鄭菜英と潤朱英のようなブルジョア階層では、教育することで社会的地位の高い近代的職業を得て、社会的地位の上昇を願う教育熱心な母親たちがすでに現れ始めた。鄭菜英と潤朱英は、子供たちが上級学校に進学できたため、自らの母親としての役目を肯定的に評価した。
このように、教育問題が母親の役割において重要な問題として認識されるのは経済的余裕のある家族に限ってである。金枝培のような貧困農民、労働者階層の母親は先に指摘したように、教育より食べさせること、服を着せるといった生存問題がより切実な問題であった:

“いや、なに子供がどうなって欲しいと願う、そんなこともなかった。いっぱい食べさせて、着せてそんなことでしょ。食べることもろくにできなくて本当に苦労したんです。”<金枝培>

労働者階層であった趙淵秀はまわりで社会的保護がまったく与えられなかった母子家庭によく接した。彼女は、当時偉い母親とは夫が死んで窮乏しても子供たちを捨てない母だといった:

“そのとき偉い母親は、貧しくても子供たちを最後までよく育てるのが偉い母親なの。そんな人多かったの。夫死んだ後、貧しくなると、どこかにお母さんが行ってしまうのよ。そうすると、子供たちは孤児院に行くか、乞食になるのね。あのときは乞食多かったのよ。今仁苛大学校あるところ、そこに私が一人で市場に行けなかった、怖くて。夫死んで貧しくなっても子供たちよく育てるのが偉いお母さんなのよ。”<趙淵秀>
42 キム.ジョンウ「日帝下初等教育と近代的主体の形成に関する研究」(延世大学校社会学科修士論文、未刊行、1999) 8-9頁。
43 オ.ソンチョル『植民地初等教育の形成』(教育科学社、 2000) 202頁。

このように、日帝時期子女教育者としての母親は階層によって異なる性格の問題に直面し、それぞれ役割を遂行したことがうかがえる。ブルジョア階層では上級学校への進学問題に悩み、父兄会にも熱心に参加するなど教育熱が現れたが、貧困層では教育面での期待より基本的衣食住を満足させることがより切実な問題であった。
一方、植民地教育体制は家庭での日本語使用だけでなく、戦時体制に合った時局教育を徹底させ、「母の会」を組織することで母親たちに子供の思想を監視する役割をするよう求めた。しかし、日本の敗戦をある程度感じていた面接対象者たちは、日本の敗戦予想や植民体制への批判を子供たちの前では表さないよう注意した。これは思想取締りが個人の家庭にも浸透していたことを物語る例である:

“(総統府の指示を)全部受け入れなければならない。そうしないと、その統治下でどうする。それから、日本が滅びるだろうという言葉をあの子(同居していた小学生の甥)のいるところではいえなかったのよ。私たちは想像はした。なぜかというと、真鍮の器を奪って銃を作るから、それが物資になる?アメリカのようなそんな国と対決しているのに。だから、これは負ける徴兆だと大人たちはわかったけど、あの子のいるところではそんな話一切できなかったですよ。”<金仁玉>

金仁玉は、「学校で学んだ通り内鮮一体と思っている幼い甥が、外にでて何をいうかわからないから」子の前では日本に対する批判をしないようにして、日常生活でもなるべく日本語を使うようにした:

“家に国民学校通う子供がいると、家でやたらに韓国語使ってはいけないの。日本語でしなければならない。(そうしたんですか?)もちろん。甥が一人うちの家にきていたけど、その子のいるところではなるべく日本語でしたよ。国民学校なんだけど、無邪気だから。学校でいわれたとおりにするから、怖くて。(学校に行っていうと思って?)そうそう。”<金仁玉>

金喜真の父は地主だったが、住んでいた平安道で独立資金を集めて臨時政府に送る役目をしていた。しかし、金喜真と兄弟たちはそのことを解放後はじめて知った:

“うちの父が独立資金募集しておくる責任者なの。知らなかった。私たちが父の行跡を知らなかったんです。知ったら大変なの。民族だとか、そんなの全部秘密だから。父がそれやるのも知らなかったから。解放後に本がでて知ったのよ。”<金喜真>

金喜真の父親は家族の安全のためにこうしたことを秘密にしたのである。金喜真は親からとくに民族精神を教わることはなかったが、親の影響で自然と日本に対する反感と朝鮮人としてのアイデンティティーをもつようになった:

“特別両親は(民族に関する)話はしなかったが、私たちはもう大人たちが座って自分たちでする話を聞いて…私たちは日本というといつも排撃し、ちっとも好感がなく、いつも敵愾心ばかりもっていたから。私たちは日本人ともいわないで、日本奴といったし。なるべく日本語使わないようにしたし。家は3.1運動44の時、投獄された、そんな人たちだから…”<金喜真>

さらに家庭によってはもっと積極的に民族的アイデンティティーを教え込む教育をした例もあった。李恩實の父は牧師であったが、植民体制を批判し、創氏改名や神社参拝を拒否したため投獄された。李恩實は夫と死別後、息子と一緒に実家で両親と暮らしたが、彼女の父は孫に朝鮮人としてのアイデンティティーを教え込ませることに努めた:

“子女教育正しく、韓国、本当の朝鮮人を作ろうとしたんです。国家意識入れようとしたんです。母方の祖父がいるから。家の息子は、イ.グァンス氏が東亜日報か朝鮮日報に李舜臣将軍を連載したが、それを何回も読んだんですよ。祖父が李舜臣将軍の話ばかりいつもしたんです。(うちでは)あらまあ、日本語やらせないのよ。だれがそうさせるんですか。うちはそうしなかったですよ。”<李恩實>
44 1919年3月1日に起きた日本に対する独立運動。

李恩實は職場では教師として日本式教育をしなければならなかったが、家庭では息子に日本語を教えなかった。彼女は日本式教育を強要するのがいやで私立学校に在職していたが、次第に私立学校に対する弾圧が強くなり、公立学校に移った。韓真淑は国民学校入学からずっと戦時体制期に教育を受け、それ以前の時期に教育を受けたほかの面接対象者と比べ、日本人としての教育に無批判的で、さらに日本人としてのアイデンティティーを自分のアイデンティティーとして受容しようとした態度が強くみられた。しかし、それにもかかわらず、彼女はそうした態度は学校でのみで、家ではそうでなかったと語った:

“学校に行くと、成績がよくなければならないから、いわれるとおりにしただけ。日本が自分の国とは考えなかった。当然韓国人と思った。日本人とは思わなかったね。家に帰ってくると、当然韓国人なの。生活が韓国人の生活だったから。君は韓国人だという教育はなかったけど。”<韓真淑>

韓真淑は、学校では規律が厳しく、成績のために日本人教師のいうとおりにしなければならなかったが、家では生活が韓国式であったために、ごく自然に韓国人としてのアイデンティティーをもつことができた。たとえば、彼女の母は白色の韓服着用を禁じる統制にもかかわらず、祭事日には白い韓服を着たし、韓は母から韓服の作り方を教わった:

“私たちは女学校のとき、韓服の作り方は習わなかったの。毎日勤労奉仕にでたりして。でも、家で母が(韓服)作るのをみて、そばで一緒にしながらみて教わったの。家の母はその時、白いチマチョゴリを着てはいけなかったけど、祭事日のようなときは必ず着たの。”<韓真淑>

韓真淑のように、日帝末期に徹底した皇国臣民化教育を受けたにもかかわらず、朝鮮人としての揺らぎないアイデンティティーをもつことができたのは、家庭で母親が朝鮮式生活を維持し、それをつうじて固有の価値を身に付けたからである。
植民地教育体制は家庭に対し、皇国臣民化を教育理念とする学校教育の延長と実践の場としての機能を求め、何よりも母親たちにそうした教育の主な担い手役を求めた。そのため強制的に召集される父兄会または母姉会をつうじて母親たちに植民体制が求める諸事項を注入し、学校教育に協力する順応的な主体として形成しようとした。
植民地という状況は、植民権力と母性がそれぞれ異なる目的のために各自の利益を追い求め競合する状況といえる。植民体制は体制維持の道具として母性を活用しようとし、母性への新たな観念を構築する45。そして植民地人の教育を非近代的ものとけなし、啓蒙と近代という名の下で介入を正当化した。しかし、母親の母性役割は子女の生命を保護し、成長させ、共同体が望む社会的役割を遂行するよう準備させる目的をもっている46。したがって、母親は子女の生存のために植民支配体制に適応させること, 一方では民族的アイデンティティーをもってこれに抵抗するよう子女に準備させるという、相矛盾する関係を切り抜けなければならない状況に直面する。こうした交渉(negotiation) 過程での母親たちの選択は多様である。たとえば口述からもみられるように、ある母親たちは植民体制に対する批判を差し控え、家庭でも学校が求める事項を遵守することで体制内での子供の安全を守り、保護に努め、また抑圧的体制内で生存するすべを教えようとした。さらに、一部の母親たちは、より積極的に家庭で支配権力の言葉を教えるなど、植民地民に与えられた制限された機会のなかで子供たちが競争に勝ち、社会的機会を確保できるよう後押しするのに努めた。一方、李恩實のように、家庭で子女に民族意識を教え込むのに努めた例もあった。しかし、朝鮮児童を皇国臣民化しようとする植民体制のなかで子女の民族的アイデンティティーを形成させることは母親たちにとって多くの緊張と困難を伴わせた47。面接によると、ほとんどの面接対象者やその母親たちは、戦時という抑圧的社会体制の下で子女の安全と保護をより重視した。よって、特別、民族意識の形成に努めるよりは、意識するしないに関係なく、伝統的な生活様式と慣習を維持する日常生活を持続した。しかし、それが結果的に子供たちのアイデンティティーの形成、維持への機能を果たした。こうした母親たちの役割は、朝鮮の文化と価値体系を否定し日本化しようとする植民体制への抵抗となった側面もあるが48、家族志向的生存戦略を作り出す事によって、より家族主義的価値を擁護する方向に進んだ。そして、その傾向は解放後の社会的混乱を経て、母性役割の肥大化につながるきっかけになったと思われる。また、家族への介入と統制を試みた植民学校教育体制は、母親たちを学校体制に順応させようとし、規律化の対象にした。その結果、朝鮮の母親たちには近代的制度教育の普及と同時に、学校権力によって順応的主体になる経験が刻印されたのである。
45 前掲 “Making Mothers: Missionaries, Medical Officers and Women’s Work in Colo-nial Asante, 1924-1945,” p.29.
46 Ruddickは、母性が子女の生命を保護、存続させようとする側面を指摘した。前掲 “Maternal Thinking,” 『フェミニズムの視角からみた家族』108-9頁。
47 植民地下の母親の役割は、合衆国における有色人種の母親役割と類似した社会的脈絡で遂行された、と思われる。有色人種の母親たちは、有色人種の児童を白人中心文化に同化させようとする社会的抑圧のなかで、子女に体制内で生きる方法と術を得られるように教え、社会化させねばならず、それと同時に、人種的アイデンティティーももたせるべきであるため、母性役割における矛盾と緊張を経験する。 Collinsは、母性におけるこうした社会的脈絡の重要性を指摘した;Patricia Hill Collins, “Shifting the Center: Race, Class, and Feminist Theo-rizing about Motherhood,” in Evelyn Nakano Glenn, Grace Chang, and Linda Rennie Forcey, eds., Mothering: Ideology, Experience, and Agency, Routledge, 1994, pp.57-60.

C.戦争と家庭生活

日帝末期に皇国臣民としての役割を一生懸命したのも母であった。日本人も混じっている班常会にでて、隣の人が通訳してくれる指示事項を指で数えながらおぼえ、祝祭日には国旗も人より大きいのを夜が明ける前に掲げ、防空練習のあるときは年だからこなくてもいいといわれても、モンペにバケツを提げてでた。すべて東京に行って勉強している息子のためであった。休みに帰ってくる息子の口からは日本の悪口しかでなかった。卒業したら、帰国して住むことが心配であった。それで自分が人心を得ておかねばならないと思い、国がやれということは何でも率先してやった。
48 植民支配下女性の役割を研究したCaulfieldによると、子供が社会で自分の位置を認識するように社会化される場所は家族であるために、家族は帝国主義的抑圧に抵抗する中心的場所になる。したがって、植民主義者たちは、年長者の権威を否定するなどの方法を使い、体制への抵抗を抑えるために、家族を植民化の主なターゲットにする。しかし、伝統的制度を破壊し、けなす植民者の努力はむしろ被植民者にして固有の生活様式を守り、再創造しようとする動機を与える。Caulfieldは、こうしたなかで、伝統を維持し、親族関係を持続させる母親たちの日常的活動は体制への抵抗を意味する、と指摘した;Minna Davis Caulfield, “The Family and Cultures of Resistance,” Socialist Revolution 20, 1975, pp.67-85.
チャン.ヨンハク49

1.銃後活動
戦争が女性たちの生活に与えたもっとも大きな変化の一つは、戦争を銃後で支える役割を課したことである。銃後活動と呼ばれた裏方での戦争支持活動は面接対象者が学生だった場合、学校教育をつうじて行われ、主婦だった場合は「大日本婦人会」のような女性組織50と地域の「愛国班」51をつうじてさまざまな活動に動員された。面接対象者のなかで女性組織に動員された直接経験をもつのは鄭菜英一人であった。鄭菜英は、女学校出で日本語ができ、夫が判事という社会的地位にあったため本人の意思に関係なく、「愛国婦人会」鍾路區の総務職を任せられた:

“愛国婦人会鍾路區の総務をした。愛国婦人会をやらされたけど、やらせるならやらせろって。私はあまり婦人会にでなかった。洞会で私を総務に立てるようにと。不安で名前だけ立てておいたけど。そのときもあちこち回っていろんな事やったのよ。たくさん集まって行ったりしたの。どこでなに、どこでなにと。たとえば、鍾路區どこに婦人会集まれというと、集まるでしょ。そうすると、決起大会するとか、時局がなんだかんだ話聞いたり。そこに私は出席できなかった。子供たちと家事やったりするから。婦人会でなくても大丈夫だった。倭政のときというのがそういうもんだから。”<鄭菜英>

49 チャン.ヨンハク「喪笠神話」『チャン.ヨンハク選集』(ソンイル文化社、1975)286頁。
50 「愛国婦人会」は前述のように、1906年、朝鮮駐在の日本官吏婦人たちが、朝鮮の貴族層婦人たちを糾合して組織された。初期の活動はそれほど目立たず、会員も1933年までは5万5千余名にとどまった。しかし、戦時体制以後、急速に全国的に組織を拡大し、1941年には会員数が46万に達したが、そのなかで朝鮮人は32万2千名程であった。「国防婦人会」は、1934年朝鮮軍の主導で組織され、1938年には8万7千余名に拡大した。この二つの団体の主な活動は、国防献金の募金、慰問品発送、出征家族慰問など軍事後援事業であったが、1942年日本で「大日本婦人会」が発足し、朝鮮でもこの二団体が「大日本婦人会朝鮮本部」に統合された;民族問題研究所(編)『日帝下戦時統制期政策史料叢書第52巻』(韓国学術情報(株)、2001) 2-24頁;前掲『韓国女性史ー近代編』286-7頁。1941年「愛国婦人会朝鮮本部」では軍用機献納運動を展開し、会員たちが廃品回収、勤労奉仕などで募金し、収益金10万ウォンを寄付した;『国民総力』1941.3.106頁。
51 愛国班は日本の隣組に相当する組織である。約10戸程の世帯が一つの班に構成され、配給や供出、相互監視を行う国民精神総動員(後に国民総力)朝鮮連盟の最末端組織である。
「愛国婦人会」では女性たちの戦時参加意識を高めるために、度々決起大会や時局に関する講演会などを催し、婦人会員たちの参加を呼びかけたが、鄭菜英はそれほど積極的に参加しなかった。康玉子は、父親が郡首であったが、母親は熱心なキリスト教信者で日帝に対する強い反感をもっていたため、婦人会にも参加しなかったという:

“うちの母は郡首夫人でしたけど、婦人会にでなかったんです。うちの母は勧士52で、教会に行くから、婦人会みたいに前にでてやるの、絶対しなかったのよ。しなくても大丈夫でした。私たちは大所帯で、そんなのでる時間もないし。うちの母は日本のやつらに私たちが愛国してどうするもんかと…”<康玉子>

農村に住んだ李慧淑も農村の婦人会組織への参加を求められたが、積極的に参加したりはしなかった53:

“(婦人会)そんなの、ほかの人たちがやっていました。女たちで、やる人が行ったのです。私は、きてやりなさいといわれても、暮らしも貧しいし、そんなのできないでしょ。しませんでした。今でいう、活発な人がやったしょう…大体が無理していて、やりたくてでる人いません。そのとき、婦人たちも女たちも自由がないでしょ。自由がないんですもの。両班の家で婦人たちが外にでるもんですか。でないでしょ。どこかでて活動したり、そんなのできないでしょう。とにかくきて、無理やり入れと宣伝したり。”<李慧淑>

上の口述でわかるように、女性団体への参加がそれほど強制的に施行されなかったので、参加意思のない女性たちはできるだけ参加しないで済んだと思われる。しかし、対照的に韓真淑は、自分の母が婦人会活動に積極的に参加したといった:
52 キリスト教の教職の一つで、主に伝道の任務をもつ。
53 農村婦人会の場合は、都市とは違い銃後活動への動員よりは、生産の督励と作物の効果的供出にあった。李慧淑の口述もこうした内容である:“婦人会といって会議するところにこいといわれても、私はあまり行かなかったのです。たまに行くと、どこまで(日本軍が)入って行ったとかそんなの思い出します。それからいつも捧げるもの、供出するもののためにそれですよ。それのために集まったと思います。集まってもみんなお互い顔色をうかがうので、座って仲良くそんなのないんですよ。集まりたくないってことでしょ。集まれといわれれるから、仕方なく集まるものよ。あればもっとだせといわれたり。いつも供出するために、それでよく集まったですね。稲、そんなのかますに何かますだせ、というんだけど、収穫ができなくて額数が合わないと…”<李慧淑>

“うちの母も愛国婦人会にでて千人針したの。そんなところにでて動員されてました。町内で有志だといわれるから、出たのよ。愛国婦人会会員としてそこで主導的役割をしなければならない。先にでないと、たすきかけて。父が何(町内の有志)だから母も何なの。婦人会の幹部なの。それで母は日本語できるの、うちの母は。うちの母はわかって話したりしたの。父と、日本のお客さんもきたりするから。”<韓真淑>

韓真淑の母が銃後活動に参加したのは、彼女の夫が咸鏡道の道議員を3期勤めた上に、船舶を所有し漁業を行うなど地域社会の有志だったからである。韓真淑の母は婦人会活動に積極的に参加することが夫の事業が順調に運ぶのに役立ち、それが家族の利益と福利につながると思ったのであろう。同じく、婦人会に参加しなかった女性たちが共通して不参加の理由として挙げているのも家族の問題であった。つまり彼女たちには、家事や子供たちの世話をするといった主婦あるいは母親の役割がより重要であった。鄭菜英や韓真淑の母など社会的参加経験のない女性たちは一般に政治的動機づけがない。そのため、彼女らの行動動機として自分の政治的意識ではなく、家族や夫の問題が優先される54。韓真淑の母のように、女性たちは自身の個人目的ではなく、家族の利益と安全のためという意識があるときは戦略的に体制に協力するようになる。康玉子は自分の母がキリスト教信仰のため婦人会にも参加せず、神棚も設置しなかったと述べたが、日帝末期彼女の弟は郡首であった父の社会的地位や地域での圧力のために神前結婚式を行なった。これも体制への協力が家族の生存のためにとられた選択だったことを表す例である55。女性たちの公的活動動機が家族の利害関係や安全と保護に置かれたのは、植民体制の下で家族は、抑圧的な植民体制に対抗する生存戦略を維持し、日常生活を営むもっとも基本的な場だったからである56。こうした側面は面接対象者の記憶にも反映されている。韓真淑や康玉子の場合のように、自分の家族が体制に協力的な場合、それが日本や戦争を支持するための選択であったとは考えていない。韓真淑は自分の母が家族と夫のために対外活動も活発に行なう、強くて立派な女性であったとみている。康玉子も母の神棚設置や神社参拝への抵抗は母が熱心なキリスト教信者であるためとみなしたが、弟の神前結婚式については体制協力ではなく、植民体制の抑圧性を表す側面としてのみ記憶している。
54 ナチドイツ占領下のフランスにおいても、女性たちが協力組織に参加したのは、夫や父親を支えるためであった; Hanna Diamond, Women and the Second World War in France
1939-1948: Choices and Constrants, Pearson Education Limited, 1999, p.94.
55 “うちの弟のときは、その後、神前結婚式をするって騒いだりして。むりやり村長たちがきて、神社でやらなければいけないというから、弟が結婚するときは神前結婚式をしました。神社で神主がそれやるところでやったんです。なに、こんなの振り回したりするのよ。そのとき一般的に青年たちをどんどん追い立てるのが、そのまえでやれっていって、神棚を家ごとにしろって。44年、そのときは神前結婚式をとても強要したね。面で。面事務所をつうじても。”<康玉子>
「愛国婦人会」といった官立婦人団体が識字層の女性を対象にした反面、「愛国班」はすべての住民を対象に、毎月「常会」を開いたが、「常会十訓」では、「主人も主婦も出席すること」を規定している57。「愛国班常会」は主に当局の政策を伝達し、地域単位の配給と供出の担当を受けもった。当時主婦であった面接対象者たちのほとんどが「愛国班常会」に出席しなかったが、彼女らはその不参加理由として「年も若い嫁だったから」と語った:

“一軒で一人でろというと、みんなでなければいけないけど、私はそのとき若い嫁だったから。私はあんまりでなかったよ。姑がいるし、そうだから。”<金仁玉>

“私は、嫁に行ったばかりだから、でれるかな。若いのがでるもんではないでしょ。私はでられなくて、姑がでたっけ、舅がでたっけ。”<金徳順>

また、地域によっては男性が中心になって出席する例もあった:

“班常会のようなところは男だけでるもんで、我々女たちはでたことがないんですよ。”<康玉子>
56 一部の学者たちは欧米の白人中心理論から脱皮し、家族は家父長制規範が維持、実践されるところではあるが、黒人や植民社会といった抑圧される状況では、家族が女性にとって単純に抑圧される場のみではない、と指摘する;Patricia Hill Collins, Back Feminist Thought, Routledge, 1990;前掲 “Imperialism, the Family, and Cultures of Resistance,” pp.67-85.
57 「常会十訓」『国民総力』1941.8.28頁。

当局では、「愛国班」活動に教育を受けた女性たちへの積極的参加を呼びかけた58。その理由として、彼女たちは日本語ができるので伝達事項が理解でき、また、学生時代に皇国臣民化教育を受けたことで動員により効果的と判断したためであろう。しかし、女学校を卒業した面接対象者のなかで「愛国班常会」に出たことのある人は、愛国班長を任された鄭菜英を除いては一人もいなかった。面接対象者たちは、結婚してまだ日が浅い嫁の身分で、一家を代表して常会に出席するような立場ではなかったし、また舅や姑など一家での年長者や男が主に参加するものと思っていた。女学校出身者であっても大家族の場合、嫁という立場は常会といった外部での活動への参加を規制し、国家政策や宣伝もこうした家父長的地位と性別役割観念を変えることはできなかった。事実、当時まだ儒教的伝統の強い地域の両班階層では若い嫁や娘たちが市場に行くことさえも自由でなく、外の仕事は男性または年長の女性が行った。
一方、舅姑と同居しなかった鄭菜英は愛国班長を経験した。彼女が愛国班長の役割を任されたのは婦人会の幹部役割と同様、彼女が女学校出で日本語ができる識字層であったためであり、彼女もそうした点を認識していた。つまり、彼女は当局が望む銃後活動を忠実にやり遂げられる新しい主婦層であったが、彼女がそうした活動に対して抱いていた態度と認識はかなり傍観的なものであった:

“愛国班長もしたし。ご飯をよそっていても走りでて行くし。警戒警報がなると、山に登るし。みんなよけて、防空壕掘って何だあれをするでしょ。集まれというと、愛国班員たち全部集めて山に登って。(配給)もらって食べるの、あのどこで食べて。米も倭政のときは班にでて。配給ももらって食べたけど。野菜なんかも買わせてもらえないから。愛国班で(野菜など)でるとお金をいくらかやって払ったでしょう。統制をしたから。まあ、何か買って食べようとすると、田舎でも、どこでも行って、買って食べたりしたのよ。愛国班でなにか集まれというとするし、ネギがでると配るし。”<鄭菜英>

鄭菜英は早くに有名公立女学校を卒業し、夫も判事であったが、銃後活動を積極的にするほどの社会参加意識はもっていなかった。彼女の愛国班長としての経験は防空訓練に受身的に参加したことと、不足した食糧確保のために東奔西走したといった記憶がほとんどである。
58 「京城の模範愛国班長像」『国民総力』1941.1.86-7頁。
面接対象者が女学生であった場合、学校でさまざまな銃後活動に動員され、戦争末期に進むにつれ動員の強度と時間も増加したが、京城と地方の学校との間には活動内容に差があった。勤労動員の場合、京城では主に教室で雲母剥がしや軍服修理といった軽作業であったが、農村や地方都市の場合は工場や畑での農作業など重労働を課せられ、肉体的にきつかったと語る場合が多かった。「挺身隊」募集についても地方では募集員が学校を訪問し支援を促す講演も行われたが、京城ではそうした経験をもつ人はいなかった。むしろ、南京姫が通った有名公立女学校では、「挺身隊」に志願した学生を有力者であった父親が後に連れ戻すという出来事もあった:

“挺身隊に志願して、学校でそれほど拍手喝采を受けて、挺身隊に行くようになったんです。それで、あの子がブサンまで行ったの。行ったら父親がそれを知って、追いかけて行って、つれ戻してきた。父親が有力者で、それであの子抜けだせたんです。”<南京姫>

これとは対照的に、農村で貧農として暮らした李慧淑の場合は、「挺身隊」につれて行かれないように1年余りを隠れて過ごさねばならなかった。挺身隊動員の対象が下層女性に集中されたことを示す例である:

“挺身隊あったのよ。でる人は出ます。そこに行かされないように私が米びつのなかにも入っていたし、瓶にも入っていたし。多分一年以上、そうしていたでしょう。そして最後はうちの父が面倒くさいって、髪の毛を全部そってしまったんです。女にみえないように。”<李慧淑>

当時女学校に在学中であった女性たちのほとんどは、1990年代以降韓国で社会的イッシュになっている「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)問題について、当時「挺身隊」募集はあったが、それが「性的サービス」を意味していたとは知らなかった、と語った。しかし、当時一部の女学校で志願を奨励したのは「慰安婦」ではなく「勤労挺身隊」である。彼女たちは自分たちの社会的出身階層と女学生という身分が自分たちをそうした性的動員から守り、また自分たちがいかに恵まれた階層であったかを十分認識してはいないようだった。さらに、ある女性は「挺身隊」、つまり「従軍慰安婦」の実情を知らなかったことを当時女学生としての性的知識の欠如のためと考えていた。また、ある女性はこうした挺身隊に関する質問に気まずい表情をみせ、あまり語ろうとしなかった。こうした反応は「従軍慰安婦」問題を軍隊による組織的な性暴力や人権問題として理解するというよりも、女性に対する性的行為とみているためと思われる。それは、この世代の女性たちに貞操や肉体的純潔といった観念が意識の内面に重要な規範として位置づけられていることを示している。
女学生たちは神社参拝のほかに、慰問文作成、慰問袋作り、千人針、出征兵士の出迎えや見送りといった女性に与えられたさまざまな戦争応援活動をした。こうした銃後活動に対する面接対象者たちの態度は大きく二つにわかれた。日本に対する反感から、「面倒くさくてやりたくない」と思ったグループと59、とくに反感もなく「当然やらねばならないこと」と受け止めたグループである60。ほとんどの面接対象者は体制への反感のために銃後活動も形式的に行なう程度にとどまった。しかし、戦時体制期に女学校に入学し戦時教育を受けた場合、日本に対する反感よりも同調的態度を示す傾向がより強かった。それは戦時体制以後、朝鮮語や朝鮮史教育の廃止など皇民化教育が徹底して行われたためでもあろうが、彼女たちが他の面接対象者より相対的に年齢が低く、体制に対する批判意識が形成しにくかったとも思われる。もう一つ面接対象者たちの戦争に対する認識に影響を及ぼしたのは、家族の体制に対する認識と態度である。南京姫と韓真淑は、お互い年齢は近いが、植民体制と戦争に対する認識はかなり対照的である:

“日本が負けるか勝つか、そんな話は家に帰ってきてした、うちの父と。父はいつも負けるといって、学校行くと先生たちは勝つというし。だから二つの考えの間で学生たちは何もいわないでいたの。でもいつも疑いをもっていたでしょう。一方では勝つというけど、もう一方では負けるといっているけど、必ず勝つともいえないし、必ず負けるともいえないし、どっちかな、まあこんな程度で。”<南京姫>
59 “(慰問手紙)私が書くとみんな書き写しますよ、そっくり。ただ一生懸命戦えと書くんです。義務的に書くものなの。神宮参拝するたびに悪口をいったんです。そこに行って悪口をいいながら敬礼するもの。そのとき、行くの好きなひと、何処にいるもんか。やらせるから義務的に行くしかないんですよ。みんな反感をもちます。みんな悪口をいいながら行ったの。”<鄭玉順>
“神社参拝も、それを真剣に行った子は一人もいません。授業しないから良くて、おしゃべりしながら、遠足行ってくる気持ちで。そこに行って神社に向かって祈る子が何処にいましょうか。”<南京姫>
60 “私たちにはそんな人いませんでした。当然やるものと思ってやったの。日本人から教育受けて、日本人になるところだったんです。反感もなく、当然やるべきことと思って、やったんですよ。”<金徳順>

“日本が滅びるとかそんなのは、大人たちは考えていたかもしれないけど、私たち子供にはそんなこと一切いわなかったから、私たちは聞けなかったよ、そんなこと。そんなことを話したりすると大変だから。日本人の先生が日本精神(について)話すのを当たり前、と受けとめたのよ。われわれは韓国人なのに、日本語使わなければならないことについて反感をもって話をするのも、私は聞いたことないのよ。当然そうするものと考えていた。”<韓真淑>

家族が民族意識や戦争への批判的態度をもっていると、これが家族内で表現され自然に彼女たちも学校で注入される皇国臣民教育や内鮮一体思想に対して批判意識をもつようになり、よって銃後活動に対する不満も大きかった。
要するに、主婦であれ女学生であれ面接対象者たちの銃後活動は、消極的参加と他律的従順にとどまったといえる。朝鮮では日本のように空襲による戦争の恐怖が少なかったこともあろうが、いくら「国民」や「臣民」と呼びかけられても自分たちが日本人として一体化できなかった民族的アイデンティティーがより大きい原因と思われる:

“韓国人と違うと感じたのはですね、戦争を経験していたけど、戦争に対して日本の女たちはそれを本当に自分たちの戦争だ、そんな態度だったけど、われわれは一歩下がって、傍観者的なそんなのがあったんです。日本の女たちが、たとえば、私が一番印象的だったのが千人針。それを本当に信じてするのよ。あれをみるたびに、私たちは、はばかりながら、おかしいな、それがなんになるの、そんなふうに思いました。けれど、彼女たちはそんなのをあれほど一生懸命やっていたのよ。日本人の女たちがね…日本人がいくら君は日本人だといっても、それが本当に私は日本人だ、そういうふうにはできなかった。できなかったんですよ。いくら内鮮一体だの、そんなこといっても、それがどうして同じなんですか。そうじゃないでしょう。それをどう否定できるの、自分が。私はそれで、そんなふうにはなりませんでした。いくら誰が何といっても。”<南京姫>

しかし、こうした民族的アイデンティティーのために戦争に対する傍観的態度をとった点のほかに、女性を家内活動に制限する伝統的な性的役割観念が持続的に作用した側面も看過されてはならない。つまり、銃後活動は私的領域を離れた公的活動であって、既婚女性の場合、不参加の主な理由は、民族的アイデンティティーよりも母親および主婦としての役割が家庭の範囲を超える公的活動より、より重視されたためである。また、活発に参加した場合も、その動機は家族の利益と妻としての内助といった伝統的女性規範にもとづいていた。

2. 戦時の家庭生活
戦時の家庭生活でもっとも重要な問題は食糧確保であった。この経験は戦時期に主婦だった面接対象者たちに共通するもっとも苦しい記憶の一つであった61。食糧不足の程度と確保の方法は階層間で著しい差異がみられる。都市ブルジョア階層の面接対象者のなかで食糧不足を経験しない人はいなかったが、程度の差こそあれ、家族ごとに食糧確保の手段をもっていた。田舎の小作地や知り合いから少しずつ米をもってくるか、もっていた絹など高級品を米と交換する方法をとった。どの方法にせよ、非合法的な「やみ米」を得る行為だったが、不法という意識はなかった。食糧不足が日本の戦争のためという認識とともに現実的に生存のため家族が何らかの対策を立てねばならなかったためである。女性たちは田舎から米を隠して運ぶことを主な役割としてうけもった62。それは平素と同じく、ご飯を炊いて家族の食事を作ることが主婦、母親の役割と認識されたためであろう。そして「愛国班常会」への参加とは違い、米を隠して運んだり、配給の米をもらってくることは若い嫁たちも行なった63。
61 1942年、京城の愛国班長の70%を女性が占めるようになったのも、男性が参加に消極的だったこともあるが、とくに、食糧調達の難しい都市で愛国班をつうじて食糧と物資の配給が行われたために、主婦たちが参加せざるを得なかったためでもある。
62 “うちの夫の実家は、平壤から約百里行くとある自山というところに水田があったの。そこに行くと、小作人たちが少しずつくれるから。それも調査するでしょ、ここで。それで、ここに隠して、少しずつもってきて食べたりしたの。”<金仁玉>
家族構成員が多い場合、食糧調達の問題はより深刻であった。鄭玉順の場合、故郷の小作地から米をもってきたが、大家族の食糧調達が末期に進むに従い次第に難しくなると、弟の中学入試失敗をきっかけに家族全員が再び故郷に戻った。食糧事情がもっとも厳しかったのは労働者層と貧農層であった:

“一年ずっと農業しておくと日本人が米全部もっていく。それで日本難64のとき、とても大変でした。飢えたの。日本人が全部もって行っちゃって…豆の粉、豆かすも食べたりして。豆かすというのは、それでご飯を炊くと、とても食べられないの。少しずつくれるの。食べるものが何処にあるの?麦稲切って炒めて蒸して挽いて、おかゆも作って食べたり、食べ物がなくて…そのときはかぼちゃを集めて、かぼちゃのおかゆ。そんなもの食べて生きたの。”<金枝培>

農民は農業をやっても供出のために常に食糧不足を経験した。農民であった潤心徳は、供出に備え、米を土に埋めておく方法で家族の食糧を確保した65。貧農層女性の場合、文盲でかつ教育機会の不足、過度な労働で政治状況に関する情報や体制批判意識をもつに限界があったが、他の問題より強制供出といいかげんな配給による食糧不足は彼女たちに体制への反感を抱かせた要因になった。
女学生の場合も配給問題は体制への反感を強めさせた。李鐘姫はほかの女学生に比べ、厳しい環境で学業を続けたケースであった。彼女が通った京城女子医学専門では日本人学生が半分以上だったので、朝鮮人学生と日本人学生の間に言語問題など微妙な葛藤が起きることが度々あった。配給に対する差別は学生の間にいわゆる内鮮一体にもかかわらず、民族の差を認識させる出来事の一つであった:
63 “数升をいっぺんにくれるから、私が頭にのせてきたの。約五升ずつ頭にのせてこなければならないから。多分それが一月分だったと思う。それだけで食べたりした。”<金徳順>
64 無学で文盲の金枝培は、日中戦争、太平洋戦争期を「日本乱(....)」朝鮮戦争を「人共乱(....)」とよんだ。
65 “野良仕事をして、自由に食べれませんでした。全部あの人たちが供出してもって行くから。米。野良仕事しておくと、そんなに全部もっていって。だから、土掘って、埋めておいて。いくらお金持ちでも、自分勝手にそんなに食べられなかった。土掘って埋めておいて暮らして。そうすると、こんな槍もって回って、埋めておいたところをこう刺してみたりした記憶がありますね。そんなときはちょっと隠しておかねばならない。たくさんの食糧はできなくても、自分の食べる食糧は常時備えておかないと。”<潤心徳>

“本当にお魚も腐ったものをわれわれ韓国人に配給して。糧食もそんな食べられないものをくれて。本当にそんな差別待遇を受けながら。しかし、日本人の子たちは、そのときうちの学校の半分以上だったと思いますが、米も手に入らないけど、あの子たちがたまにその韓国の海苔がおいしいって。彼女たちは韓国の食べ物をほめるけど、こっちは本当に頭にくるのよ。韓国で採れた海苔を私たちはみることもできないのに、そうよ、みることもできないのよ。そのときは全部が配給だったんです。だから、そういっているのが憎らしくて、気に触って。気が利く子は海苔を一束もってきてはくれるんです、食べてみてって。自分たちの配給でもっらたのだと。そうすると、もっと腹が立って。自分たちもちょっとは気がすまないと思うんでしょう。でも、彼女たちも反日感情があるのを感じるのよ。”<李鐘姫>

食糧不足のほかに女性たちの反日感情を刺激したもう一つは真鍮器の供出であった。これも貧困層で打撃がもっとも大きかった。富裕層では備蓄して置いた物の一部だけ供出してもたくさん供出できたが、貧困層では日常生活になくてはならないものを取られるという矛盾があった:

“あのときはこんな匙もなかったの。木の匙、木の箸、木のしゃもじ、そんなの使ったの。真鍮の器、匙のようなもの、鉄というものは…あのときは部屋が寒くて火鉢というものがあるの。鉄でできた火鉢。部屋に置いてあぶったの、寒くて。そんな火鉢も全部もって行かれちゃって、日本人が全部。”<金枝培>

真鍮の供出も地域の愛国班長がうけもったが、住民の間に不信や反目はなかった66。供出を担当した朝鮮人に対してはまかされた仕事をやるだけという認識だったし、住民の間には供出は形式にすぎないという理解と共通の利害関心があったためである。
66 “親日でなくても仕方ない、やらなければいけないから。みんな大目にみてやるから、韓国人たちはお互い。”<金仁玉>
主婦たちは米の確保だけでなく、生地の不足やその他の生活必須品の欠乏に対処して行くために多様な戦略と技術を使った。植民権力が唱えた生活改善は現実に欠乏と困難を経験していた女性たちに実際には必要な方法を示すよりは、むしろ反感をかきたてるばかりであった:

“(生活改善)あら、まあ、キャンペーンしても誰が聞くんでしょう。暮らしがよかったら、それも聞けるでしょ。みんな暮らしが貧しくなったから、節約するものもないのよ。おかずなんかはとっくに。”<康玉子>

“いつも家庭生活、緊縮生活やれといったし。そんなのはいつもいうんです。生活改善しろ、また耐乏生活しろって。それは、まあ、継続的にするの。物資節約やるものがある?砂糖もないし。だからモンペ着て…節約するものもないの、物資がないから。”<金仁玉>

女性たちには家族の生存と健康がもっとも重要な問題であったが、国家の「生活改善」は消費を節約して戦争のための物質的動員を最大化することが主な目的であったからである。したがって、実際に戦時の家庭生活は強制供出を除いて、国家は主婦たちの自発的協力を得られなかったし、主婦たちは固有の生活慣習を変えようとした国家の「生活改善運動」に対し、依然として個人の家庭生活をそのまま維持しようとした67。
このように、面接対象者たちの戦争に関連した家庭生活に関する記憶は、食糧不足と真鍮器の供出、さまざまな物資の配給制に集中していた。その他の家庭生活の大部分は伝統的な様式が維持された。とくに、近代教育を受けた女性たちが結婚し大家族の主婦となった場合にも生活様式はそれほど変わらなかった。舅姑の権威が維持されていたために、彼女らが習い、接した新しい家事の運営は実践しにくかった。また、住居環境が改善されていなかったうえ、戦時の物資不足が近代的かつ合理的な家庭生活への改善を制限したために、姑の家事運営の知識が依然として通用する側面が多かった。そのために、家事は姑と嫁が協力して行なった。戦時中、女中廃止が唱えられたが、大体のブルジョア階層の場合、女中の賃金が安く、家事労働が依然として肉体労働の側面が強かったため、女中を雇った家庭が多かった68。教育水準の高い面接対象者であるほど、姑との同居を、関係の難しさよりも家事と育児を補助してもらった点から肯定的に評価し、また円満な嫁姑関係を強調する傾向が強かった:
67 とくに、固有の生活慣習に関する規定は強制にもかかわらず、慣習を変えるよりは取締りを避ける方法が取られた。“陰暦正月もやらせなかったし、もちも作ってはいけないし、酒も造ってはいけない。それでコッソリと夜やったりしたのよ。お酒も造ったら罰金払わせたの。もち作らないように監視する。精米所やどこかでうすでつく音がでるか監視するし。”<趙淵秀>

“何か買ってくるって全部お母さん(姑)が買ってくるし。お金を預かって使うから。(夫が)給料をもらってくると、お母さんに渡すのよ。そうすると、お母さんが全部買ってくるの。それが楽なの。後で病気になって、自然に私がやることになったの。うちのお母さんは、もともと何でもよくできるの。何でもお母さんがなさるのがいいのよ。気が楽。自分がお金もっているより。お金だって、給料もらってくるの多くないから。それを分けて使おうとすると、頭痛くなるよ。まあ、後になったら、自然に自分に。近頃はそうではないようだね。私たち仲がよかったの、二人が。お母さんと私が仲がいいから、誰か嫁もらうけど、秘訣を教えてって。何でも大変なことは、お母さんがしようとするからね。”<金徳順>
これは、彼女たちが現在姑の立場で、嫁の務めをしたのが過去であったこともあるが、また、彼女たちが教育を受けなかった女性よりももっと伝統的な嫁の役割規範に支配されているためでもある。
最後に、戦時の家庭生活に関する記憶には窮乏した苦しい記憶ばかりでないことを付け加えておきたい。母親の近代的な料理法や外国料理を人より先に食べてみた経験が誇らしげに語られた69。さらに、日本の食べ物や服装など日本文化の体験が親日的という否定的観点からではなく、一個人が裕福な家庭環境で享受できた近代的かつ異文化的な体験の一つとして語られた70。鄭玉順と韓真淑の場合、こうした傾向が強かったが、それは彼女たちが解放後、南下と家産喪失により家勢が傾いたため、そうしたことが過去の裕福だった家庭生活と結びついた体験として記憶されているためでもあろう。
68 “大体数年一緒に住んでみると、自分は大変な仕事をしてやって、家事をやってあげて、家の奥さんは学校先生しにでる、いない間に私が良くやってあげろ、と。人間的な紐帯感というか、そんなのがそんなに葛藤がなかったんですよ。昔、私たち家事をやってくれた人たちは私たちよりずっとノウハウがよかったんですね。私より洗濯もきれいにするし、洗濯も全部手洗いでしょ、そのときは。”<全英錫>
69 “うちの母は、新式教育は受けなかったけど、漢文はたくさん知っていて、小説が好きで春園(イ.グァンスの号)の小説は全部読んだのよ。YWCAチョン・スンウォン氏中国料理、チョ・ジャホ氏が韓国料理するの、必ず行って全部習ったのよ、その昔。それで、私たちは子供のときから、カレーライス、ハイライスなんか、全部作って食べましたよ。”<鄭玉順>

D.戦争と女性性の変化

昔は素敵なツーピースだった制服もなくなり、学生たちはモンペ、先生たちは脚絆に国民服姿であった。思春期の私たちはそれでもおしゃれがしたく、モンペに線を立てて着ようと、夜は敷布団の下に水を噴きかけたモンペを大事に敷いて寝た。
羅英均『日帝時代、我が家は』71

本節では女性の服装と容貌、立ち居振る舞いや態度といった日常生活を通して家父長的規範と植民主義、そして戦争がいかなる方法で女性性、あるいは世間的に女らしいと定義する観念の意味を規定し、また女性たちはこれらの意味づけをいかに認識し、どういった過程で女性性の意味を変えて行ったか、の側面を考察する。

1. 伝統服と洋服、そして家父長制女性規範
開化初期、上流層に属するわずかな女性たちが洋服を着始めて以来、1920-30年代にはいち早く海外留学を終えて帰国した新女性たちが洋服を着始めた。1930年代には女学校の韓服制服が当局の政策によって洋服に変わったことで、洋装姿の女性たちが徐々に増え始めた。女性の洋装は主に男性たちに奢侈と放縦、無分別な西洋模倣という批判の対象となり、そうした言説は多くの記事にされた。女性の洋装が当時一般化されたような印象を与えるが、決してそうではなかった。解放までは女性の大部分の服装は韓服が一般的であった。1930年代、女学校の制服が洋服に変わった後も女学生たちは家で韓服を着ていた。面接対象者のなかで1920年代後半以降出生した南京姫と韓真淑のみ子供のときからずっと普段着として洋服を着た。彼女たちは当時富裕層で教育水準も高かったために、普段着として韓服を着たことのない洋服世代においても早い方だと思われる。富裕層で教育水準も高かった全英錫(1923年生)や鄭玉順(1921年生)は家でも韓服を着た。彼女たちの通った女学校は一番早く制服として洋服を採用した学校であるが、彼女たちがこうした制服に対してとくに自負心や満足感を抱いていたようではない。とくに、鄭玉順の場合、卒業した淑明女高は日韓併合以前からいち早く制服として洋服を採用した学校で、彼女も1930年代には洋服の制服を着たが、洋服制服の不便さをこう回想した:
70 “すき焼きは家でよく食べたんだけどね。日本食は父がよく日本料理屋に行って食べたから。日本人をつれて外で食事もしたりしたから。私は好きだった。私たちは辛いの食べられなかったから…日本羽織、父も着たよ。日本人のお客さんくると、羽織着たりしたの。私は国民学校4年のとき、神社踊りしたの。日本の神社祭りするときに、花車に子供たちを、日本桜、これを被って日本服を何枚も着せて、化粧もさせて、子供たち踊るの、それをやったのよ。一年に一人だけなの。それをやったの、私が。家庭もいいし、学校で勉強もできるし、顔もきれいで、それで選ばれるのよ。だから、一番は父のためよ。まあ、本当に貴族だった、貴族。日本貴族なのよ。”<韓真淑>
71 羅英均『日帝時代、我が家は』(ファンソジャリ、2004)210-1頁。

“夏ですね、家に入るときには、女中が真鍮のたらい、大きいのよ、そこに水汲んでくるでしょ。私がいきなり脱ぐんです。私一人で脱げないんです。母がきて私の服を脱がせてくれるんです。ぴったりくっつくんです、ブラウスが。くっつくのよ、完全にくっつく。毛織の後ろの裏地が黒の木綿なんですよ、純綿。だから、厚い純毛に、なかにまた綿を入れて、その中にまたブラウスがこんなに長いじゃないですか。何枚もなのよ、何枚。だから、死にそうですよ。(家に)帰るときにはもう泣きそうになって入るんですよ。死にそうといいながら。女中が水汲んでくるし、母が入って。戸を閉めて私を洗うようにするんです…夏がくると、本当に死にそうだったのよ。一年中それを着るんです。冬はその上に上着一つ羽織るんです。 …可愛いどころか、本当にうんざりです。それに帽子まで被って。まあ、夏に帽子被るのよ…私はその服が本当にいやだったの。4年も着たでしょ。”<鄭玉順>

鄭玉順が洋服の制服に不満だった理由の一つは夏でも冬に着ていた毛織のジャンパースカートを着るためかなり暑く、慣れない帽子まで被らねばならなかったためであった。当時韓服の制服を廃止し、洋服に改めたのは経済性と活動性を生かすという政策的理由からであったが、気候の変化に合わせて選択できた韓服の素材に比べ、女性の洋服生地はそれほど多様ではなかったために、洋服の制服にはこうした短所があった。さらに、鄭玉順にこうした洋服の制服への不便さが主な記憶として残ったのは、洋服がもたらすモダン性や開化性にそれほど魅力を感じなかったためでもあろう。意外にも、当時女性として最高教育機関であった専門学校に通ったり、日本留学までした高学歴女性の間に洋服への憧憬や好みが現れなかった。李恩實が1930-34年に通った梨花女子専門はアメリカ人教授や合衆国留学後帰国した韓国人女性教授など洋服を着た教授がいたために、ほかのどこよりも洋服姿の女性たちを多くみかけられる場所であったはずだ。しかし、当時学生だった李恩實は洋服に対するあこがれをもってはいなかった:

“金活蘭72、あの方はアメリカ行ってきて洋服着たの。洋服着てもあの方は背も低いし、それで恰好もよくなかったの、正直いって。あの方はアメリカ行って帰ってきて当然洋服着るだろうと思ったけど、それを着ようと考えもしなかった。(金活蘭は)洋服も着たし、韓服も着たけど、洋服着てもあれ着たいな、と思うほどの洋服ではなかったの。金活蘭先生と一緒にいたソ.ウンスク先生やキム.エマ先生、キム.シンシル先生のような方たちはみんな韓服着ていたの。おしゃれというより、金活蘭氏は女性にとって彗星のような輝く存在だからそうだろうと思ったけど、うらやましがったり、私たちもあの洋服着れたらいいな、と思ったことがないの。宣教師たちは洋服着るものと思って、学生たちは洋服なんて思ったこともないの。西洋の服だ、あれ着たいな、考えすらしなかったの。外国人は外国の服、韓国人は韓国の服。(韓服が)不便だと思わなかった。韓国人は当然韓服着るものよ。”<李恩實>

梨花専門の制服は戦時体制が始まって以後、1939年に当局の政策で洋服に変わるまでずっと韓服であった。李恩實の口述からわかるように、当時梨花専門の学生たちはアメリカ宣教師やアメリカ留学から帰国した人たちが洋服を着ても、自分たちの韓服着用を当たり前のことと思ったのである。これは、韓服が制服であるためにそう思ったのではなく、学生たちの韓服への愛着が一貫して韓服を制服として維持したとみるのが妥当であろう。既存の指摘のように、韓服制服を植民統治下の民族精神の発露とみなすのは、植民地下の女性たちの意識と行動をありのままではなく、民族主義的観点に立って偏った解釈をしたためと思われる。服装は民族的なアイデンティティーを表す以前に、個性やアイデンティティーを表現する手段であり、女性らしさや女性性は、女性のアイデンティティーをなす一部分である。梨花専門の学生たちが洋服に魅力を感じなかった理由は、西洋人宣教師たちや西洋を経験した女性たちによって体現される形の制限された洋服よりは、自分たちがずっと着てきた韓服が自らの個性と美しさを表現するに当たって、より着慣れた服であったからと思われる:
72 梨花専門の卒業生で、梨花初の韓国人総長になった人物。1930年代にアメリカで韓国人女性として博士第一号になった。

“韓服を着ると恰好がいいのよ、洋服より。洋服着慣れないと、おかしいね。(梨花専門の学生たちが)服を着ても、恰好よく着たの。昔はチマ(スカート)にはチマひだをぱりっとさせる。そうすると、その姿がきれいなのよ。女学校では制服だから、同じ生地で同じ服を着るけど、専門学校は生地がいいものが取れたりすると、いくらでもおしゃれできるから。”<李恩實>

鄭玉順も梨花専門を卒業したが、彼女は女学校のときの女教師たちのしゃれた韓服姿についての具体的な記憶をもっていた:

“(女教師たちが)韓服、素敵に着てました。美術の先生、東京留学した方なんですよ。韓服なんだけど、一流のおしゃれ…また、家政科、日本女子大学出たけど、みんな韓服を着たんですよ…(先生たち)みんな韓服。(スカートの)長さは短くはくんです、靴履くから。全部おしゃれ、一流のおしゃれ。夏にはね、黒のケキ(チョゴリ)も着たんですよ。ぱっと透けてみえるもの。裏には赤を着たの。そんなのを着て。私たちはただ気をとられてみていたの、あら、素敵ねえと。私たちのとき先生はみんな韓服を着たんです。洋装しなかったんです。けれど、本当に服が素敵でね。色とかそんなのをよく合わせて。チマ(スカート)は大体黒とかそんなのをよくはいてましたね。服は、チョゴリ(上衣)があまりに素敵なの。私の印象に残っているのは、ケキチョゴリというのは大体白を着るの。けれど黒のケキチョゴリを着たのよ。それがとても印象に残っているの。普通、誰がそんなの着るもんですか。東京で女子美術学校出た先生、ユン.ヨンイ先生はオーバーを着てあまりにも素敵。韓服に着るんですよ、ベルト締めて。それが今も私の印象に残っているんです。”<鄭玉順>

彼女の記憶によると、当時女学校の若い未婚の女教師たちは最上級教育を受けて、日本留学をした場合も多かったが、華美な韓服に対する制裁のなかった戦時体制以前、多様な色と生地を使い、韓服でしゃれた美を表現するのが上手であったようだ。女教師は韓服でファッションリーダーの役割をしたのであり、それは金活蘭などの洋服よりも女学生たちによりアピールしたのである。透けてみえるチョゴリや韓服に洋服を合わせる着こなしは、当時男性たちの批判の対象にもなったが、学生たちは何の偏見もなく、そうしたスタイルを憧れの対象としてみていた。女性たちが家の外に出て近代的な経験をすることになり、彼女たちの服装と容貌は男性たちの観察と批判の対象になった。鄭玉順の口述によると、女性たちがこうした社会的視線にそれほど縛られず、少なくとも女学校という囲いのなかでは自分たちの個性と自我を服装をつうじて自由に追い求め、こうした感性が女教師と女学生の間に共有されていたことがうかがえる。
ところで、前章で述べたように、当時新女性たちが活動性と能率、労働節減のために服装の改良を主唱したが、実際は韓服の部分的改良にとどまり、洋服への完全転換を提唱しなかった理由はなんであったのか。口述によると、大体の女学生たちが学生時代は制服として長さの短い改良韓服や洋服を着ても、結婚後は慣習に従い、依然として伝統的な長い韓服を着たことが語られた:

“私たちの同窓も女学校4年卒業して(1939年)、その年に結婚して、その次の年に結婚して、そうするのが普通常例だったんですけど、結婚すると、当然たびはいて長いチマチョゴリ着たね。私たち同窓が150名なんだけど、学校卒業して、学校の先生かどこかの銀行に就職するとかそんな人たち以外に、気軽に洋服を着た人がどれぐらいいるか今考えてみると、そんなに多くないんですね。”<全英錫>

“大体、そうしても、結婚すると、よく韓服着たんですね。”<鄭玉順>

これは、近代教育を受けた女性でも、結婚後は再び伝統的な家族生活と女性としての役割、とくに伝統社会で重視された大家族内での従順的な嫁としての役割が求められたことを意味する73。新女性たちもやはり結婚後は「賢母良妻」になり、こうした規範の枠から自由ではなかったために、彼女たちの服装改良は韓服から離れられない限界があった、と思われる。こうした例は服装だけでなく、髪型においてもみられる。李鐘姫が通った女学校では何人かの「勇敢な」学生たちが学校の規則を無視して当時流行した断髪を敢行したことがあった74。この断髪事件は該当学生たちの停学処罰をもって終わったが、その理由は、女学生は卒業すると結婚して慣習によりまげをするため、髪を伸ばさねばならないが、それを無視して髪を切ったということにあった:

“卒業すると、すぐ嫁に行かないといけないから、髪を切ってはいけなかったんです。こうやって、おさげ髪をしてあんで行ったんですけど。最初、ある子が扇動して、中髪をしたんです。中髪とは、ここにこんなふうに、ピンを止めて、あまないで。それで、4年のときだと思うけど、ある学級で数名がそれを切ってね、その子たちを全部停学にしたんです。親たちから抗議が入って、騒動になったんです。卒業すると、すぐ嫁に行かせるんだけど、その髪でどうするってことだったのね、まげをしなければいけないのに。それで首謀者何人かが停学にされたことがあったのよ。”<李鐘姫>

このように近代的女性教育が普及しても、依然として家父長的伝統と規範が女性の服装と容貌を支配していたことがうかがえる。こうした側面は当時の女学校での裁縫教育にもみられる75。女学校で裁縫と手芸は総教育時間の三分の一を占めるほど重視されたが、制服は裁縫教育の一部として学生たちが製作したりした:
73 こうした例は、パク.ワンソ(朴完緒)の自伝的小説『彼の家』でも詳細に描かれている。パク.ワンソは、1931年生まれで戦時下の淑明女学校に通い、解放後に卒業し、1954年結婚したが、結婚当時女性の服装をこう表現した;「少女時代もほとんど韓服チマチョゴリを着て過ごす時代だった。結婚すると、後ろが左に分かれる長いチマチョゴリを着るようになるが、結婚前は、ひざ下くらいまでの筒状のチマに肌色の靴下に靴をはいった。洋装はしゃれた職業女性を中心に徐々に広がりつつあったが、家で花嫁修業する良家の子女や職場が保守的な学校の先生や銀行員たちは依然として韓服をよく着る時代であった。」パク.ワンソ『彼の家』(現代文学、2004)170頁。
74 この学校の「学生の注意事項」には、「髪をいつも正しく結い、3年生以上の断髪は不許可」と記されている;淑明女子中高等学校『淑明70年史』(淑明女子中高等学校、1976)107頁。
75 “私が卒業した保守的な女学校ではたび縫うのも教えたが、服の型を採る方法から裁縫法を徹底的に教えた。姑は私が裁縫ができるのにすごく満足した。”前掲『彼の家』170頁。

“家政時間に3年のときからミシンを使う。ミシン、学校にたくさんあるの。ずらりとあったの。ミシンなんでも自由に使えたの。できるものは全部作ったの。洋裁というでしょ、洋裁時間。ワイシャツも作ってみたし、運動服もしたし。制服はするの。私たちが4年のとき、1年生の新入生のも私たちがするの。寸法も測ってするの。一人ずつうけもって。私たちが入っても、上級生がしてくれたの。それがとっても印象深い。夏物、冬物。”<金徳順>

“セーターは、冬服制服は私たちが学校に入ると、秋まで私たちの手で編みます。”<全英錫>

伝統社会で裁縫は女性の重要な家事労働の一部であった。嶺南地方の両班層であった潤朱英は近代的学校教育の機会は得られなかったが、幼いときから家で自分が受けた教育のほとんどは結婚に備えた裁縫であった。彼女は裁縫について農業労働をせねばならない常民層の女性に比べて両班階層女性としてもつ技術であり、かつ重要な家事労働として口述した:

“韓服、全部したよ。嫁にくる前にうちの母から全部習ってくるのよ。私たちは結婚するときは男たちの服、全部したの。男たちの服、トゥルマギ76そんなの、私が全部したのよ。そのときは、ちょっと田舎であって、ちょっと結構なところあって、班村あって、民村あって、民村人たちは娘たち、みんな畑で働いて、班村人たちは女たち、畑で働かなかったの。針仕事だけしたの。そのとき、家が結構な人たちは娘たち、韓服取り揃えて着た。だから、韓服全部できるのよ。生地だけもってくれば、服作れるの。トゥルマギなんか、(常民たちは)よくできないの。班村人たちは子供のときから針仕事を教えるのよ。畑仕事はしなかったんだから。”<潤朱英>

76 男性用の外套。
こうした裁縫は近代女性教育が施された日帝下の女学校でも持続的に重視され、女性たちも裁縫の重要性を認識していた:

“裁縫よくできる子は冬休み、夏休みに自分たちで作って着る。昔は女が裁縫できないと、女の一つの生命と思って、一生懸命習ったの、幼いときから。そうよ、幼いときから針仕事したのよ。母親から習ったの。韓服作れるの。綿チョゴリ、作ってみたよ。女の生命だから、できないとだめでしょう。料理と裁縫はできないとだめですよ。家事実習時間があって、裁縫時間は手芸。洋服作るの、女学校のとき、一つ習った。ネクタイ、一つ作って、子供のオーバー作るの、私は弟の、作ってあげた。学校時間にやるから。”<李恩實>

よって、学校を出た女性たちは学校で習った裁縫技術で自分や家族の服を作ることができた。師範学校を卒業し、教師として勤めた経験のある金徳順は昨今の女性はそうした能力がないと指摘した:

“最近の子たちはミシンもできない。(私は)子供たち、全部作って着せた。私がよく作って着せたの…うちの娘、大学のときも私が作ってあげたの。女学校のとき、習ったから。おじいさん(夫)シャツも作って着せたし。そのときはあまり買えないから。私の友だち、みんなできるの、習ったから。韓服は1,2年のときして、3年からは洋裁した。”<金徳順>

“(女学校で)パジ(ズボン)チョゴリそんなの全部したの。洋裁も、夏休みになったら、誰かがきて特別講習をしたね。ワンピースしたよ、ワンピース。それは特別に2,3日講習をさせましたね、洋裁縫を。”<鄭玉順>

裁縫とともに重視されたのは手芸だが、ほとんどの女学校で手芸時間には卒業後の結婚に備えて嫁入り道具としてもって行けるスジョジップ77を作ったり、ときには手芸教育のためほかの科目の授業が軽視されることもあった:
77 匙と箸を入れておく袋。

“私が淑明で東洋刺繍、藤の屏風、刺繍をしましたよ。何年も選ばれて。だから、まともに勉強をしなかったのよ。房子女史に差し上げるって。そのために勉強をまともにしなかったんですよ。そのとき、房子女史が(学校の)理事長格のようだったんです。”<李鐘姫>

賢母良妻理念の近代的女性教育の真価は前近代社会で重視された裁縫が依然として女性教育のなかで少なからず比重を占めていた点に現れる。こうした教育内容のため、近代的教育を受けなかった潤朱英と、当時最高学府をでたというプライドをもっていた李恩實の間には、女性の家庭内の役割と義務に対する観念に相違点がみられない。近代的教育機関である学校が家庭に代わり、また家政学を専攻した女教師が母親に代わり女学生の裁縫教育を担当したが、これは近代女性教育が前近代社会での女性教育の目的と同様、結婚とその後嫁としての役割を務めることに目標を置いたことを意味する。
一方、貧困した農民層であった潤心徳と金枝培にとって衣服とは、労働を意味するものであった。彼女たちは木綿の種をまく段階から、成長後収穫し、糸をつむぎ、布を織って家族の服を作るまでの前近代的手工業的家内労働の全過程を今も詳細に記憶している。彼女たちは一日中畑での農業労働を終えた後、帰宅して夜また機織をしなければならなかった農民層女性に負わされた労働の厳しさを仔細に話した。解放以前、農民層女性には伝統的織物生産の労働が必須的役割として求められたことが分かる。
当時近代的教育を受けた女性たちが賢母良妻主義の学校教育や家庭での教育にどれほどの抵抗や不満をもっていたかは口述からはうかがい知れない。当時、抵抗感を抱いていたにしても、長い年月が経ち、ライフステージ上の変化も思春期や短い青春時代の感性への記憶を損なうであろう。しかし、女教師の韓服に対する記憶や友人の断髪事件など限られたいくつかのエピソードをつうじて、社会的批判や圧力にもかかわらず、女性たちが服装と容貌、ひいては自分の身体に関することを自らの意志によって主体的に決定しようと試みたことがうかがえる。女性教育が伝統社会での女性規範をそのまま持続するように行われたとしても、女性たちが容貌と服装をつうじて美しさを表現しようとしたのは、ある面で服装と容貌こそ日常で自分の自我を表現できる領域であったためであろう。しかし、農民女性がこうした経験から除外されたことは植民支配下女性の生活経験の多様性という観点の重要性を示す。要するに、いかなる階層であれ、衣服を取り巻く女性たちの体験に家父長制の規範が作用していたことは見逃せない。

2.戦時女性の服装統制と女性性維持の戦略
モンペが戦時女性の服装として強制される前から事実上、女性に対する服装統制は始まっていた。同じ梨花専門でも、戦時以前に卒業した李恩實と、戦時中に通った鄭玉順とではその口述から差異がみられる:

“自由でかなり奢侈したね。昔は梨花女子専門学校、最高学府といって、本当におしゃれは一番で。梨花のおしゃれは服もよく着て、奢侈でそうだったの。とにかく、梨花というと、おしゃれすることでたいてい知られていたの、世間から、一般社会で。髪もちょっとしゃれて素敵にしたりして。化粧も少ししますよ、おしろいもして。”<李恩實>

“そのときは韓服着るけど、色がいくつかあったんです。それであれこれ着たんです。それでも、華美に着たりするといけなくて、地味に着たんです。(戦時だから?)そうですよ。夏は、麻チョゴリと黒のチマ着ました。冬は、色がちょっとあるのを二つか三つ着たんです。コ.ファンギョン、韓服。金活蘭、韓服。イ.ジョンエ先生は長いチマもお召しになって。学校でる方はみんな短い(韓服)チマ。我々のときは、洋装しなかったんです。洋装したの、みなかったけど。(教授たち)地味に短いチマ、靴はいって。おしゃれしなかったですよ。”<鄭玉順>

学生たちの服装だけでなく、先駆的に洋服を着た新女性である教授たちの服装も地味な韓服に戻った。モンペが強制されて以後、女性たちのモンペに対する反応は多様になった。年齢別でもそうした差がみられるが、モンペが強制された当時、一番おしゃれをする年齢にいた未婚女性たちがより反感を示した。鄭玉順は、専門学校卒業後、結婚前に臨時教師をしたり、家事手伝いのとき、モンペが強制的に施行されると、取り締まりを避けるために仕方なくモンペを作ってはいたことをとても不快な経験として語った:

“(1941年、専門学校卒業後)北韓(北朝鮮)の私たちの故郷に行ったが、そこで取り締りがひどかったんです。新義州から行くけど、とにかく着ないといけないっていうんです。それでまあ、私はモンペはきたくないけど、モンペを仕立てて。つまらないとこがあったんです、洋装店というものが。日帝末期だから、モンペ着ないといけないんです。汽車に乗らなければならないんですけど、それに乗ってくるんだけど、取り締りをするって。みんなはいているんです、ズボンのようなもの。私はそれ、はきたくないのをはいていました…(モンペ)それをはくと、へんなんです。いやだったんです。なぜか、いやでした。取り締まりするって相当うわさが出たんです。車にも乗れないとか、そんな話があったんですよ。”<鄭玉順>

韓真淑の場合、女学校入学後、勤労動員が増えたためにズボンスタイルのモンペが制服に取り入れられた。彼女がモンペに対して特別な反感をもたなかったのは、容貌に関心をもつには幼かったこともあるが、戦時に国民学校に入学してずっと厳格な軍国主義の下で学校生活を送ったためか、モンペを戦時下の圧力的な学校規律の一つとして受け止めたからである:

“私たちは(勤労奉仕で)ずっと畑で働いたのよ。ズボンをこうひだをつかんで、こうしたズボンを着たと思う。お母さんたちは上にひだをたくさん取って大きくモンペで、私たちは、上はあまりひだをとらなかったね。それで、ズボンのようにして、下だけひだをとってしぼって。登校のときもはいた。戦時になって、そうなったと思う。そのときは戦時だから、おしゃれも知らないで、ただ働きに行ったから。おしゃれというのを私は知らなかったと思う、女学校1,2年のときは、幼くて。”<韓真淑>

モンペへの反応は職業によっても異なった。小学校教師であった李恩實によると、モンペは教育目的から学校の防空訓練時に着用するよう義務づけられたが、彼女はモンペ着用を職務遂行上、行なわねばならない項目の一つとして受け入れ、特別不満を表さなかった:

“月曜日が愛国日なの。愛国日にはモンペといって、今はズボンが色とりどり。しかし、昔はズボンはかないでモンペといって、月曜日は避難訓練のため(モンペを)もって行ったよ。(出勤のときは)洋服など着て、月曜日愛国朝会日だけ。防空訓練のためその時間だけはいたの。普通ははかないで。”<李恩實>

外での活動のため外出せねばならない若い女性や職業女性は取り締りのため、モンペをはかねばならなかったが、家庭婦人たちはできるだけ取締りを避けることでモンペをはかないようにした:

“うちの母、まあ、はかなかったんですよ。なんやかんやと、切り抜けたようです。私たちは外にでることが多くて、年とった人は…”<鄭玉順>

それはモンペが、ズボンのように腰や脚の線を表すが、当時韓服ばかり着た女性にとってズボンとは伝統的な女性の下着として認識されていたからである。したがって、儒教的伝統の強い地方の班家の女性たちは下着のようなモンペを年長者の前でははけなかったと語った78。女性の服装が植民権力と家父長権力がお互い競合する地点になったのである。一方、積極的にモンペをはいた女性たちもいた。父親が地方都市の有志として個人事業を営んでいた韓真淑の場合、彼女の母はとくに拒否感を表さず、モンペを日頃からよくはいた:

“うちの母は、いつもいわれたとおりにしたから。やれといわれると、無条件やったからね。父がそうだったから、やれとなると、すぐ守るのが原則だったから。みんな(モンペを)はいていたから、当然はくものと思ったから。父が(国民服)着ろというと、着るものと思って。だから、母もしゃきっと着て。それどこがみっともないとか、はきたくないとか、そんなこと、私は聞いたことがない。”<韓真淑>
78 チョ.ヒジン『士とピアシング』(東アジア、2003)266-9頁。

韓真淑の母がモンペに順応できたのは、夫の順調な事業のために地域婦人会の一員として活動した彼女の自発的な選択であり、一つの生存戦略である。
モンペに対する認識と反応は、階層によっても異なる。貧農層で多くの農業労働をせねばならなかった潤心徳は、モンペを働きやすい服と思っており、最近まで自分で作ってはいた。:

“モンペをはけ、といわれてはいていました。モンペ作って黒く染めて。はさみで切って、ただ手で作ってはきます。今も作れというと、作れるよ。私はこの夏も生地、いいものがあって、作ってはいて出入りしましたね。今、みますか。全部手で作ったんだから。これ、直接自分で作ったのよ。”<潤心徳>

自ら作ったモンペを誇らしげにみせてくれた潤心徳からはモンペスタイルへの拒否感は感じられなかった。ミシンなど大した道具も使わず、手軽に作れる点が彼女が最近までモンペを日常的にはいているもう一つの理由でもある。30代に夫と死別した後、農作業とよその家の雑事で子供3人を養った潤心徳にとってモンペは機能的な作業服であった。これとは対照的に、ブルジョア階層だった鄭玉順は戦争末期、短い間モンペをはいた記憶を恥ずかしいものと思っていた:

“仕立ててはきました。下手な洋装店があったんです。そこに頼みました。汽車に乗って行き来するときにはいて、その後は、はきませんでした。捨てたんです。”<鄭玉順>

この二人はモンペのはき方にも大きな差があった。鄭玉順がモンペを高級生地でブラウスを仕立ててはいた反面、潤心徳は働くとき、韓服チョゴリ(上衣)下の肌がみえないように、韓服チマを着てその上にまたモンペをはいた:

“上は、まあ、夏に、本当におかしいの一つ。私、それ、はきたくもないのを仕方なくはいたね。上着一つ仕立てて着ました。それは木綿、細い木綿がとてもきれいなのよ。それが珍しいものよ。ポプリンか何かで作るのあれで…モンペズボンにそれを着たね。”<鄭玉順>

“そのときは、これはくときは筒状のチマがあったから。チマをはいてしまえば、このチマがなかにあるから、これ(胸)がみえないでしょう。だからチマをはいて、モンペをはいて、そうするの。チマをズボンのなかに入れるのよ。そういうふうにはいていたんです。”<潤心徳>

モンペに対する抵抗は両班意識の強かった潤朱英にもみられる。彼女はモンペを働く女性の服とみなし、自分は裕福な両班階層であるため、モンペをはく必要がなかったことを伝えようとした。彼女が多少不快な表情でモンペに対する記憶を語ったのは、解放後もモンペが労働者、農民、商人など主に女性労働者の服として残ったためである:

“モンペはたくさん働く人、台所で便利だからはいて。私はモンペそんなにはかなかったの。韓服着たよ。モンペそんなによくはかなかった。私は、手伝いの人がいたの。手伝いの人がいたから、モンペそんなにはかなかったよ。人並みに暮らしたから、そんなに悪く着たり、そうしなかったの。モンペはちょっと貧しい人がはいた。どこかお出かけするときは、モンペでは行けないでしょう。おかしいでしょう、仕事着だから…そんなに貧しい暮らしではなかったのよ。”<潤朱英>

潤朱英のモンペに対する記憶と口述は服装に対する伝統的女性の階級意識を表すが、近代教育を受けた女性たちも何らかの形で自分たちの意志を表現しようとした。1945年4月、すでに梨花という校名を抹消され、京城女子専門に改称された梨花女子専門に入学した南京姫は、モンペを強要された戦争末期の女性知識人たちの服装と容貌をこう語る:

“京城女専のときはね、入学式のときに(金活蘭校長を)たった一度だけみたんです。それで、髪をオールバックにして、こうして。彼女が断髪なんだけど、後ろにかつらを一つパンのようにつけて。黒のブラウス、チャイナカラーに…モンペはいて、同じ色で。紺でしょ、多分。モンペはいて。こんなに高いハイヒールをはいたのよ。それも無言の抵抗よ。キム.ヨンイ先生もモンペをはけっていわれるから、はいたけど、そのモンペがそのときみてもハイカラなんですよ。素敵なの。あの方、アメリカ留学生なのでね。日本式モンペがまったくなくて、本当に西洋の匂いがプンとする、そんなモンペだったの。生地もそうで、生地もとにかく西洋もののようで。スタイルもそうで。”<南京姫>

前章で述べたように、当代新女性のアイコンといえる女性知識人たちも戦時体制による服装と容貌への規制に抵抗はできなかった。むしろ、彼女たちの社会的地位と知名度のため、より強い制裁と干渉が加えられたと思われる。ところが、実際の彼女たちのモンペ姿はモンペ本来の趣旨である、西洋を排撃し真の日本精神を生かすという戦時の政治的意図からだいぶかけ離れている。モンペにハイヒールをはいたり、西洋生地で作った西洋スタイルにモンペを作ってはくことで、日本の伝統服であるモンペがむしろ洋服に変わったのである。農村の作業服であり、日本の伝統的衣服であるモンペが、植民地の都市知識人に画一的に強制されるとき、女性たちのこうした創造的ファッションは、自分たちの女性性とアイデンティティーを守ろうとする戦略からでたものである。これは、個性と女性性を奪おうとする全体主義的画一性と軍国主義への一種の消極的抵抗であり、植民主義に対する無言の反抗と読める。南京姫も、流暢とはいえない日本語で話し、西洋スタイルのモンペをはいた教授たちが出席した「無言の入学式」で公立女学校のときとは違って「心に伝わるものがあった」と語った79。
都市で教育を受けた女性たちのモンペへの抵抗は、モンペの代わりにズボンをはくという現象をもたらした:

“家の近所に洋裁する人がいて、ズボン作ったことを思い出すね。セールチマ解いて。その人に裁断してもらって、自分で作ったことが思い出される。44年なのね。そのときは戦争の真っ最中だから、私が多分モンペの代わりにはいたと思う。セールズボンだから恰好もいいし。モンペは醜くて、それはお出かけしないの、着たら。(モンペ)はけ、はけといわれてもよくはかなかった。”<金徳順>
79 “(京城女専の入学式のとき、金活蘭)校長先生は一言もいわなかった…私はそれがとても印象的だった。校長がでてきているけど、何にもいわないのよ、はじめから最後まで。本当に印象的だった。入学式といってもとても簡単だったね、だから。そんなのが心に伝わるものがあるの。何にもいわないけど。”<南京姫>

格好悪いモンペスタイルを嫌った女性たちは代わりにズボンを作ってはいたりしたが、彼女たちがズボンの機能性に惹かれたわけではなかった。戦時服と容貌に対する統制と介入は女性性の表現を抑圧し、そのため解放後に流行したのは戦時下に禁じられたパーマと化粧、ベルベットの韓服チマ、絹の韓服チョゴリであった:

“女たちがね、確かに活気があった、解放された後で。反動でベルベットのチマをはいたりしてね、学生たちが。ベルベットのチマに、絹のチョゴリ。ハイヒールに、短い(韓服)チマに。だからおしゃれし始めたね。パーマネントしてすごかった。解放直後にね。洋服を着た人が少なかったの。韓服をそんなに着て。”<南京姫>

モンペに対する女性たちの反応が年齢別、階級別、教育水準別で多様に現れたのは、衣服がもつ社会的意味との関連がある。面接対象者のなかでブルジョア階層で学歴の高い女性たちの間でモンペに対する否定的な反応がもっとも強く現れた。特筆すべきことは、彼女たちがモンペ着用の強制性を強圧的な植民統治や軍国主義体制と関連させて批判するよりは、醜い服を着たことを女性一個人としての羞恥として語る傾向がみられた点である。彼女たちはモンペ着用を社会体制の矛盾としてみるよりは、自分たちの女性性と個性を損なった側面として受け入れるか、または記憶しているのである。よって、当時モンペのはき方も、できるだけ自分たちの衣服に対する感性や個性的なはき方、社会的地位とイメージを守る方法ではこうとしたのである。戦時国家はモンペを強要することで女性間の差異をなくし、画一化しようとしたが、厳密な意味でそういった画一化が進んだとはいいがたい。モンペが衣服である以上、はく人の経済的、社会的条件と分離できない側面があったばかりでなく、より重要なのは、体制によって画一化されまいとする女性たちの女性性とアイデンティティー維持の戦略および選択性が作用した面である。

3.民族的アイデンティティーと女性性の植民地性

昨年秋ヨランは上級班の学生数名と一緒に日本人舎監排斥運動の首謀者として追い込まれ、ついには鍾路警察署の世話になったことがある。中村という日本人舎監が寮生の反感をかったのは、日本化教育の生活化に徹底しすぎたためである。部屋ごとに神棚を置くようにするし、さじの使い方は野蛮的、箸の使い方は文化的といい張るし、甚だしくは畳部屋で女性がひざまずく座り方を女性美の極致であるかのように、オンドル部屋でも強要した。それは立ったり座ったりが刑罰のように苦痛で屈辱に思わせた。寮で起きた中村舎監排斥運動はすぐ全校生盟休へと波及した。
朴完緒『迷妄3』80

日帝時期女性に求められた規範の一つは日本的女性性である。これは、従順と温和、謙譲、誠と献身といった日本の伝統的婦徳の強調のみならず、節制された厳格な、決まった型をもつ態度や姿勢といった身体的側面での日本女性的なさまざまな要素を求めたのである。こうした点は言説からはそれほどうかがえないが、女学校に通った女性たちの記憶と口述にはっきりと現れる。それは、こうした日本女性独特の立ち居振る舞いや姿勢の強調と日常化が女学校教育をつうじて実際に行われたためである。どの女学校にもあった「礼儀作法」教育は茶道や歩き方、すわり方、姿勢に至るまで女性の身体を統制する厳格な規律化の過程であった:

“たとえば、すわり方。日本人はとくにそうなの。昔、着物着て、なかに下着をつけなかったって、日本の女は。だから、この先生のいうことは、自分の立ち居舞いをいつも裸だと思って立ったり座ったりしろ、そうすると、足をどういうふうに置くべきか自然にわかるようになるだろう、そんな話をしたね。女が立つときも、座るときもいつも足をこうくっつけて座って、そんなのをそういうふうに表現したんだけど、私が日本の女のように行動するということではなくて、そんな話が頭にいつもあるんですよ。”<南京姫>

80 朴完緒『迷妄3』(文学思想社、1990)32頁。
“畳部屋に行って日本式のお辞儀して、日本式のすわり方、そんなの。日本人の先生そっくりにしなければいけない。歩き方もこういうふうに内向きで歩くの。こんなふうにした。”<韓真淑>

礼儀作法教育のねらいは受身の態度と姿勢を女性としてふさわしい態度として規定し、それを身に付けさせることにあった。南京姫と韓真淑の口述からわかるように、礼儀作法教育は女性の身体を常にみられる客体として対象化し、そうした他者の視線を意識し、自分の体の動きに対して緊張感をもつようにする。歩き方やすわり方は限られた空間で限られた動きだけが可能だが81、こうした教育は女性が劣等で脆弱な立場にいることを女性自らに刻み込む過程である82。学生たちは、ほかの授業より礼儀作法の時間をよりはっきりと記憶しているようであった。彼女たちの記憶のなかでは、「その時間はとても足がしびれた」といった身体的経験が共有されていたが83、これはひざをついて座る習慣が韓国人にはないためである。つまり、礼儀作法教育の内容は、畳とふすまがある住居と幅の狭い着物を着る日本文化にもとづくものであるため、幅の広いスカートをはいて、硬いオンドル部屋に座る韓国人の住居生活や行動様式には適合しないものであった:

“君たちも日本女性と一緒だ、と想定するの。お辞儀をするときはこうして、歩くときはこう歩いて。日本式の座敷に入るときは、床の間があるけど、はじめ入って、床の間に何かが掛けてあると、それをみて、拝見するといって、それをみてお辞儀をして。床の間のあるところは上座で、なんかそんなこと。だから、私たちの生活とあまり関係ないことを、そういうふうに教えたんです。歩くとき、畳の縁あるでしょ、布でできた、それを踏んではいけないって。ふすまを開けるとき、必ず座って開けるけど、ここに取っ手があると、座ってこういうふうに、少しこれだけ開けて、残りを開けるとか。それを閉めるときは、はじめはこういうふうに引っ張って、こう閉めるとか、そんなの。”<南京姫>
81 Wexは、日本女性が足の指先を内に向けるように教わるのは伝統的従属の表れである、と指摘する。Marianne Wex, Let’s Take Back Our Space: “Femae” and “Male” Body
Language as a result of Patrarchal Structures, Frauenliteraturverlag Hermin Fees, 1979. Sandra Lee Bartky, Femininity and Domination, Routledge, 1990, p.130から再引用。
82 Sandra Lee Bartky, Femininity and Dominaton, Routledge, 1990, pp.67-71.
83 “作法室といって別個にあった。そこに座って一時間座って立ち上がると、みんな倒れるのよ、足がしびれて。それで礼法もたくさん習って。座って何かたくさん話をしてくれたけど、足が痛くて、その時間になると、みんな苦痛で。”<呉恵子>

礼儀作法教育は畳敷きの個別の作法室で和服姿の日本人女性教師が担当した。彼女たちは日本文化に接したことのない植民地女学生たちにとって、日本文化のなかで作られた日本的女性性の伝達者であり、伝統的家庭での母親や女性家族員に代わって女学生たちの身体的規律を担当する、公的権威をもった統制者の役割を務めた:

“おばあさん先生だったんです。日本でも貴族たちが娘を嫁がせる前に、この方のところにやって、何年か修行させて、自分の家に帰ってから嫁ぐんですって。いつもその態度がとても、本当に端正で。静かで。とても尊敬していました。そのお宅に年頃の娘さんがいつも二、三人きていて。日本貴族の娘たちです。きて裁縫なんか習うけど、これは先生の話なんだけど、まともにやらないと、解けというんですって。解くと後でよくできないですから、気をつけろって。本当にできないと、マッチもってきて、先生の前でその服を燃やすんですって。先生の前でぶるぶる震えながら。それほどとても厳しい、そういう教育をさせて。(その先生の家が学校の)運動場の前にありました。”<李鐘姫>

李鐘姫が記憶する礼儀作法教師は淵沢能惠(1850-1936)である。淵沢能惠は、淑明女学校の全身である明新女学校の創立に関与してから以後32年間学監として事実上校長の役割を務めた。いいかえると、日本女性として植民地女性教育を担当した代表的人物といえる84。淑明女学校に通った李鐘姫は、在学当時学校の運動場のすぐ隣にあった彼女の日本式家屋で日本式礼儀作法を習い、また彼女が学校で尊敬される立場にあった教師だったと記憶している。女学校に日本人女教師を配置して、彼女たちに日本式礼儀作法を教えさせようとした植民地女性教育政策には日本精神の涵養のみならず、日常生活で日本人女教師と頻繁に接触させることによって、女学生たちに自然と日本文化を受け入れさせ、同化させる目的があった:
84 任展慧は、奥村五百子、淵沢能惠、津田節子を植民統治に加担した3女性と指摘しながら、日本女性の朝鮮植民支配に対する責任問題を提起した。鈴木は、これら3人の女性は政治、経済のみならず、思想と教育、文化に至る、日本女性による朝鮮女性の支配を表す系譜と指摘する。鈴木は、日本近代のフェミニズムは、日本の帝国主義的侵略と植民地建設に反対せず、むしろ当時の『婦女新聞』でさえ朝鮮併合を「多年間の悪政」と「国民の無知」に起因する「当然の結果」とみなし、植民地への日本女性の進出を奨励した、と批判する;鈴木裕子『フェミニズムと朝鮮』(明石書店、1994)38-44頁。

“日本女性、とにかく親切が身に付いていて、それが出てましたね。日本女性たちの礼儀、節度ある生活、これはわれわれが見習うことよ。先生の家に行ったりしたね。本当に節度ある生活するのをみたの。”<李恩實>

李恩實や李鐘姫は礼法を教えた日本人女教師に対する尊敬心を表したが、南京姫や韓真淑はそうではなかった。彼女たちが日本人女教師に親しみを感じなかった理由は厳しい教育とともに教師自身の日本人としての民族的アイデンティティーの主張のためであった:

“私たちその先生を嫌ったの。なぜなら、とても日本人で、自分は日本人である、ということをかなりみせて、それで私たちとはちょっとつうじない、そんな先生だったんです。”<南京姫>

“とても怖かった。望月って本当に怖かった。私たち同士ではあの人わるい、いじめているなあと思った、厳しくするから。”<韓真淑>

作法教師だけでなく、女学生たちは日本精神を強調したり、日本人の優越性をあらわにする教師に対して反発するまでに朝鮮人としてのアイデンティティーや民族意識をもっていた:

“とくに日本の民族性を強調する、そんな先生は憎まれるんです。国語先生のなかに、大和魂をとても、ああいうふうに話す人はいやでしょう。私たちより2,3年先輩たちがストライキを起こして何人かが犠牲になったという話があるんです、民族の話のことで。”<李鐘姫>

口述者たちの大部分は学校での厳しい皇国臣民化教育にもかかわらず、韓国式生活様式と文化を守る家庭で親兄弟の日本に対する敵意ある態度に接することで民族的アイデンティティーをもった85。しかし、一方で、女学生たちは日本女性としての教育については足がしびれたこと以外にそれほど不満や抵抗を示さなかった。むしろ、模範生だった女性たちはそうした規律の内面化傾向が強く、今でもそれをよい教育として評価した:

“規律が厳しいですね。だけど、それが学生を制裁するためより…それで姿勢も正しいし、それが生活化されるから正しいですよ。”<全英錫>

“日本人はいつも礼儀、正しく本当にしっかりと教えたといった。私は今もよく習った、よく教えたと思う。私がそういうふうに習って、また、私自身が日本人の下で子供たちをそういうふうに教えたし。日本人は秩序があって整然として、それだけは本当に見習うことですよ。”<李恩實>

規律の内面化には実生活で接する教師だけでなく、読書といった文字媒体も補助的役割を果たした。植民地における言語教育は教育経験のある女性ほど韓国語よりも日本語の上達をもたらし、そのため彼女たちの読む本は日本語で書かれたものがほとんどであった86。読書をつうじて本のなかで再現される日本女性の受身で優しい話し方や態度を理想のものとして捉えるようになると、朝鮮女性は「おてんば」という新たな認識がうまれる。事実、日本人と朝鮮人の居住地はどこの都市でも隔離されていたため、女学生たちが教師以外に多数の日本女性と接する機会をもったわけではなかった。したがって、本をつうじた間接的経験は、日本女性たちをより理想的な女性性を具現した対象としてみることに主な役割を果たした、と思われる:
85 面接対象者のなかで民族的アイデンティティーや反日感情は、教育を受けた階層だけがもっていたのではない。貧農層であった李慧淑は子供のとき、父親が日本人警察から不当に殴打されるのをみたり、米供出などで反日感をもつようになった。金枝培と潤心徳も、米供出に関連して反日感情を表した。潤朱英は、地域社会における日本人の朝鮮人に対する軽蔑的言語や行動を口述した。一般化できないが、家族の反日感情が強いほど、戦時期以前に教育を終えた人であるほど、反日感情や植民体制への不満が大きく表れた。戦時期に幼かった人ほど、皇民化教育に対する批判意識が低かった。
86 “日本のものしか読めなかったんです。韓国語は習わなかったんですから。文字を知らなかったのよ。韓国語で出版された本は、それを探して手に入れて読んだ人でなければ、我々のように普通の女学生、まったくそんなものが手に入る機会がなかったのよ。家におばや父の本があったけど、知らないから、読めないのよ。ハングルが読めないから、(その本を)読めなくてすべて日本のものだけ読んだのよ。日本文学も読みました、たくさん。”<南京姫> 朝鮮語教育が禁止される前に女学校に通った面接対象者たちも、日本語で読むのがもっと楽で、速いと語った。

“いつも本何か読んでみると、あの人たち(日本人女性)の態度は、本当に見習うに値しますね。小説でも何でも、そのときは全部日本語で読んだから。韓国語よりは日本語の本がずっと読みやすくて、たくさん読んだから。あの人たちの態度は、本当に私たちが見習わないと。その言葉使い優しくするのと、私たちはおてんばなのよ。あの人たちのやさしい話し方と態度なんかは見習わないといけないと思ったんですよ。”<李鐘姫>

このように、教育水準が高く、読書をたくさんした女性ほど日本女性の態度を礼賛する傾向が強かった。また、女学校以上の教育を受けた女性たちはそうでない女性に比べ、日本女性を自分たちよりやさしく親切であるとみなし、それを見習うべき美徳として認識し、模倣しようとする傾向が強かった。こうした態度はより文明的エチケットとして彼女たちの体と意識に刻印されたため、以後も意識を支配し自ら身体を統制するようになる:

“私はテレビなんかみていると、韓国の女たちの立ち居振る舞いがとても醜い。とくに足の場合、女たちが普通にこう座るんですよ、こう。ホテルみたいなところでみてください。びっくりしますよ。私はいつも注意してみるけど、日本に行って地下鉄乗るでしょ、電車に座った女たちが一様にひざをくっつけて座るの。こう座る女がいないんですよ。でも、私はいつもこう実践できなくても、それが頭から離れないのよ、その話が。”<南京姫>

さらに、こうした立ち居振る舞いについての教育を受けなかった女性に対しては他者化する傾向がみられる。また。こうした「礼儀作法」が文化的で優越なものと認識されているため、日本人教師たちの帰国後、こうした教育を行わなかった解放後の教育に対して不満を表した:

“それが身について、私は今も男足87できないのよ。男足する友だちもいない。男足はしてはいけないことと知っていたから。女が男足するのは、とても常識のない家の子たちがする。今も私は男足するのを変に思うの、女が。先生がそういうふうに教えたの。それで、私は地下鉄のなかでも、女の子たちがこう座っていると、変なの。ちょっとこう(足をくっつける)しないのかと。解放後はそんな教育がなかった。むやみに教えたのね。日本人の教育がまともだった。”<韓真淑>

教育を受けた女性たちは民族としては朝鮮人だというアイデンティティーをもっていて、同時に女性としては学校で教育された日本的女性性を受容し内面化した。これは、民族的アイデンティティーと女性としてのアイデンティティーがそれぞれ別個のものとして形成され共存したことを意味する。その一例を挙げると、彼女たちは学校での銃後活動への動員について、特別に考えもなく、しなければいけないことと受け入れ形式的に参加するか、あるいは内心反発しながらも順応するという二つの態度をとった。しかし、女性としての態度と行動についての規律へは、学校教育で日本式「礼儀作法」を学ぶことを良い教育として認識、内面化し、現在までもそうした規範をもち続けていた。このように、彼女たちが日本的女性性を民族的アイデンティティーと矛盾を感じず受容できたのは、「礼儀作法」教育の内容を日本文化的要素として認識するよりも、女性としてもつべき普遍のものとして受け入れたためである。また、元来彼女たちに従順と謙譲、献身を強調する伝統的女性規範があった点も考えられる。つまり、日本でも朝鮮でも賢母良妻規範が支配的であり、階級的に両班層やブルジョア階層の女性であるほど家庭でもこうした女性規範が強かったために、学校での賢母良妻規範が彼女たちの意識と矛盾する点が多くなかったためと思われる。ところが、賢母良妻規範といっても、立ち居振る舞いや態度に関する規範に限り、実生活でこうした礼儀作法がどれほどの拘束性をもっていたかには大きな差がある。つまり、朝鮮の伝統的女訓書でもっとも重視されたのは嫁としての孝と従順、夫に対する恭敬であり、精神的美徳と心構えを強調しただけで、具体的な動作や立ち居振る舞いに関する言及は意外に少ない88。1914年ナム.グンオクの『家庭教育』でも、「人前で伸びやあくびをしたり、歯をいじったり、鼻をすすったり、口をすすいだりしないこと、大声を出さないこと、食べ物を指で味見をしないこと」といった大体の礼儀の基本にのみ言及しただけで、その内容も女性にのみ求められる礼儀とはみなしにくい89。しかし、日本の場合、江戸時代女性のしつけに関して書かれた数多くの書物には、歩き方と食べ方、箸の使い方に至るまで具体的な「礼儀作法」の順序と形式を細かく扱っている。明治12年に書かれた『女のしつけ』でも戸の開け方、手の置き方、座っての礼儀、立っての礼儀、人の前後を通るときの礼儀、物の渡し方、食事の仕方など具体的な状況での数十の礼儀作法が記されている90。要するに、朝鮮より日本で女性の礼儀と行動様式に関する規制が具体的で強く、女学校での「礼儀作法」教育はこうした伝統にもとづいているのである91。したがって、女学校でこうした教育を受けた世代の女性たちは家庭における伝統的女性規範に加え、学校で日本女性的な礼儀作法の教育を受け、二重の拘束と抑圧を受けたといえる。
87 韓国で昔からの男の座り方。跏趺坐。
88 たとえば、イ.トクムの『士小節』では、サンチュサムを大きく包んで食べると、みた目が悪いので注意すること、足音を立てないこと、ご飯を食べるとき噛む音を立てないこと、大きな笑い声を立てないこと、といった基本的礼儀が記されている;前掲『韓国の女訓』65,68頁。
89 前掲『韓国の女訓』145頁。
90 芳賀登『良妻賢母論』(雄山閣出版、1990)74-5、133-9頁。
91 家政学者である大江スミは戦時期にも『礼儀作法全集第一巻―九巻』と『女子礼法』を著した;前掲『良妻賢母論』246頁。

http://www.hues.kyushu-u.ac.jp/education/student/pdf/2004/2HE03076T.pdf
植民地朝鮮における女性教育の研究  安 明僊

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