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Tuesday, July 31, 2012

Miyako Masuda opinion by Pr. Shoji Yamada




平成21年(行コ)第241号 分限免職処分取消請等求控訴事件
原審 東京地方裁判所 平成21年(行ウ)第478号


控 訴 人  増田都子
被控訴人  東京都 外1名


意見書

―歴史教育や歴史研究における公正とは何か―

2010年5月10日


東京高等裁判所第2民事部 御中


立教大学名誉教授   山 田 昭 次
専攻  日本近現代史研究

住所  359-1145 埼玉県所沢山口8-2 Tel.Fax 04-2928-2456




Ⅰ 平成21年6月11日付の東京地方裁判所民事第36部判決書の問題点

はじめにー本意見書は歴史教育や歴史学における公正とは何かという問題を検討の主要な課題とする―
平成21年6月11日付の東京地方裁判所民事第36部判決書は、控訴人東京都千代田区立九段中学校の社会科担当教員増田都子氏が平成17(2005)年6月下旬~同年7月上旬に東京都千代田区立九段中学校3学年生徒に対する社会科歴史教育に際して生徒に配布した資料の内容に関して、「公正、中立に行なわれるべき公教育への信頼を直接損なう」ものという判定を下し(判決書、21頁)、東京都教育委員会がこの資料の内容を問題視して行った「本件戒告処分の取消請求に理由がない」と判定した(判決書、22頁)。
しかし、この判決は歴史教育に関して安易に「公正、中立」という基準を持ち出していると私には思われるので、本意見書は歴史教育や歴史学における公正とは何か、という問題を検討の主要な課題とする。

東京都中学校社会科教員である控訴人の韓国ノ・ムヒョン統領宛の手紙の作成と
これに対する東京都教育委員会の戒告処分の発動
まず、上記東京地方裁判所民事第36部判決書により、「公正、中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なう」という判定を下された控訴人の歴史教育行為について具体的に説明する。
韓国大統領ノ・ムヒョンは2005年3月1日に行った三・一節記念演説中で韓国国民に対して日韓の和解のために日本に対して寛大になることを韓国国民に求めた。それと同時に日本の政府と国民に対しても次のように要望した。
「しかし、我々の一方的な努力だけで解決されることではありません。二つの国の関係発展には、日本政府と国民の真摯な努力が必要です。過去の真実を究明して心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければなりません。それが全世界が行っている、過去の歴史清算の普遍的なやり方です。」(「日本の知性に訴える―盧武鉉韓国大統領の三・一節記念演説」『世界』2005年5月号、86頁)
控訴人は、この演説に大きな感銘を受けた。そこで控訴人は、2005年3月に「アジア・太平洋戦争の戦争責任を考える」という題目の紙上討論を行い、侵略戦争と植民地支配について考えさせた2年生の生徒たちが3年生になった2005年4月にその生徒たちにこの演説を読ませ、「ノ・ムヒョン大統領への手紙」、または「ノ・ムヒョン大統領の3・1演説を読んで」という題目で意見を書かせた。さらに自分自身も生徒たちがこの手紙を書いた経緯を説明した同年4月19日付のノ・ムヒョン大統領宛の手紙を書いて、これを生徒たちの手紙と共に韓国領事館に送った。この手紙はまた生徒に配布した「3学年、紙上討論1」と題する資料にも掲載された。
控訴人 はこの手紙のなかで侵略を反省しない日本人の思想状況を次のように書いた。
「情けないことではありますが、04年10月26日の我が東京都議会文教委員会において、古賀俊昭という都議会議員(自民党)は言っています。“(わが国の)侵略戦争云々というのは、私は、全く当らないと思います。じゃ、日本は一体どこを、いつ侵略したのか、どこを、いつ、どの国を侵略したかということを具体的に一度聞いてみたいというふうに思います(カッコ内は増田)”(文教委員会議事録)などと、国際的には恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として嬉々として披露しているのが我が日本国の首都の議会なのです。横山教育長以下、東京都教育委員会は、これに対して何の反論もしませんでした。というより、大いに共鳴しているのでしょう。侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社の歴史教科書を“生徒達に我が国に対する愛国心を持たせる一番良い教科書”などと公言して恥じない人達ですから。古賀都議その他の歴史偽造主義達が“日本は一体どこを、いつ侵略したのかという、どこを、いつ、どの国を侵略したかということを具体的に一度聞いてみたい”なら、“一度”韓国独立記念館や南京大虐殺記念館に行ってみたらいいのです。“具体”例が、“聞いて”みるまでもなく眼前に展開しています。“歴史を反省しない国”と他国の人から言われることは屈辱ではありますが、残念ながら“そんなことはありません”と言い切れぬ現実があり……。」
ところが、この文章は東京都教育委員会から「特定の個人を誹謗する不適切な教材」と見做され、「控訴人は同年8月30日に戒告処分を受け、さらにその他の点で同委員会と対立した結果、2006年3月31日に分限免職の処分を受けた(『東京都教育委員会「処分説明書」平成18年3月31日)。

東京地方裁判所の本件戒告処分に対する認定と歴史教育・歴史学研究が守るべき基準
東京地方裁判所の判決書中、控訴人のノ・ムヒョン大統領宛の手紙中の上記の部分に関して「公正、中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なう」という判定を下した箇所の全文は下記のようである。下線は山田がつけたものであり、それは特に注意して読んでいただきたい箇所であることを示す。

「第5 当裁判所の判断
1 本件戒告処分について
(1)懲戒事由該当性
原告の本件資料作成、配布行為が、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉になる行為(地方公務員法33条)、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行(同法29条1項3号)に該当するかを検討する。
上記前提事実によれば、本件資料の中には、特定の都議会議員及び出版社の名前を挙げて「国際的に恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として嬉々として披露している」「歴史偽造主義者達」「侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社の歴史教科書」との記載が含まれている。
これらの表現は、ことさらに特定の個人及び法人を取り上げて、客観性なく決めつけて、稚拙な表現で揶揄するものであり、特定の者を誹謗するものであることは明らかである。
中学校は、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とし(平成19年6月27日法律第96号による改正前学校教育法35条)、公正な判断力を養うことが目標の一つとして掲げられている(同法36条3項)。そして、原告は、生徒らに学校や教師を選択する余地の乏しい公立の普通義務教育において、教育を行う立場にある。原告が教育する対象である中学校の生徒らは、未発達の段階にあり、批判能力が十分備えていないため、教師の影響力が大きいことを考慮すれば、公正な判断力を養うという上記目標のためには、授業が公正・中立に行われることが強く要請されるのであり、教師という立場で、特定の者を誹謗する記載のある本件資料を授業の教材として作成、配布することは、公正、中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうのであり、教育公務員としての職の信用を傷つけるとともに、その職全体の不名誉となる行為に当たるし、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行であるといわなければならない。
原告は、歴史を歪曲、偽造しようとする公人や教科書出版会社の存在を生徒に知らせることは、社会科教師の責務であり、正当な行為であると主張する。しかし本件資料の上記表現は、原告の見解を客観的に教えるというものではなく、自分と反対の見解を持つ者を教師の立場において誹謗するものであり、上記判断のとおり、そのことに対して信用失墜と評価されているのであるから、誹謗の対象者を論じる上記の原告の主張を採用する余地はない。
以上によれば、原告の本件資料の作成、配布行為は、地方公務員法33条に違反し、同法29条1項1号及び3号に該当し、懲戒事由該当性が認められる。
(2) 違憲性、裁量権の逸脱、濫用
原告は、本件戒告処分は、紙上討論という授業内容に対する介入であるから、教育への不当な支配であり、教師の教育に対する自立性を侵害し、憲法26条、旧教育基本法10条1項等に違反すると主張する。しかし本件戒告処分は、紙上討論授業そのものでなく、上記の内容を含む本件資料の作成、配布行為を対象にしているのであるから、原告の上記主張は前提を誤っている。そして、憲法26条は、普通教育の教師の立場において特定の者を誹謗することを保障していると解する余地はないから、原告の上記の主張を採用することはできない。
(3) 以上によれば、本件戒告処分の取消請求には理由がない。」(判決書、20~22頁)
以上の判決文中下線を付した箇所に示されているように、公教育は公正・中立に行われるべきだという基準が設定され、控訴人が作成・配布したノ・ムヒョン大統領宛の手紙はこの基準に反するので、東京都教育委員会の戒告処分を妥当としている。しかし何をもって「公正・中立」とするのか、全く説明がない。
裁判所が教育問題に関する判決を下すに当ってまず念頭に置くべき基準は、日本国憲法の前文と第9条に掲げられた平和主義であるべきはずである。
しかしそれだけでは足らない。ここで問題となった授業は歴史教育の授業であるから、歴史教育、さらにはそれを支える歴史学研究が守るべき基準は何かということが明確にされなければならない。しかし判決書はこの点に関して言及していない。
そこで歴史研究者であり、歴史教育者でもある私の見解を述べれば、歴史教育や歴史研究はナショナリズムに陥って、他国ないしは他民族の歴史を視野から排除して独善的になってはならないということが第一の基準と考える。これは天皇制国家を賛美し、アジア諸国を蔑視した皇国史観が日本のアジア侵略と植民地支配を思想的に支えたことへの反省から導き出された基準である。これも日本国憲法の前文に言う「いづれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を無視してはならない」という理念に一致するものである。控訴人のノ・ムヒョン大統領宛の手紙は、日本が朝鮮に対して行った侵略と植民地支配によって韓国民衆が負った被害の傷は今も癒されていない歴史的現実を視野にいれて欲しいという日本人に対するノ・ムヒョン大統領の要望に応えようとしたものであり、この第一の基準に合致するものである。
第二の基準は、身分的差別を受ける被差別部落民や民族的差別を受ける在日朝鮮人、病気に対する偏見から差別を受けるハンセン病患者などのマイノリティや性的差別を受ける女性の歴史にも眼を配ることである。1948年12月10日に国連総会で採択された「人権に関する世界宣言」第2条第1項にも「人はすべて(中略)いかなる種類の差別なしに、この宣言に掲げられているすべての権利と自由を享有する権利を有する」と述べられている。中立という美名に隠れて差別を無視することは許されない。中立という観念は人間として判断すべきことを避ける名目として往々使われるので、私はこれを基準として採用しない。
さまざまな差別に目配りするのは容易なことではない。なぜならば、差別は重層的に存在するからである。例えば、被差別部落民が在日朝鮮人を民族差別する、民族差別を受ける在日朝鮮人男性が在日朝鮮人女性に性的差別をする、性的差別を受ける日本人女性が在日朝鮮人に民族差別をする、といったことが歴史の中でしばしば存在してきた。人は大概重層的差別の中にいるのだが、差別されることには敏感であっても、他面では自己が差別する側にいることにはなかなか気づかない。歴史研究や歴史教育は自己が差別する側にいることに気づく困難さを深く自覚して、この困難を乗り越えなければならない。
第3の基準は客観的に史実を確定することである。歴史学が史実を確定する材料は史料である。しかし史料に書かれたことも国家的利害や階級的な利害やマイノリティに対する偏見によって史実が歪められていることが往々にしてある。したがって厳密な史料批判をしなければ、史実を確定できない。
このように考えるならば、歴史研究や歴史教育は容易なことではない。しかし上記の三つの基準が歴史研究や歴史教育の公正を保障するものであると思われる
このように考えると、控訴人に対する東京都教育委員会の戒告処分という権力的措置は妥当でない。東京都教育委員会は古賀俊昭都議会議員や扶桑社、後には自由社から出版された中学校歴史教科書『新しい歴史教科書』の歴史観と控訴人の歴史観のいずれが上記のような基準を満たしているか、控訴人と対等の立場で議論して決着をつけるべきなのである。そのことをせずに懲戒処分という権力的な措置を行うことは、日本国憲法の第19条の思想・良心の自由の侵害の禁止の規定、ならびに第23条の学問の自由の保障の規定に反する。原判決はこうした憲法に違反する東京都教委の措置を見落としている。
本意見書は扶桑社、後には出版社が替わって自由社から刊行された中学校『新しい歴史教科書』に対する控訴人の批判が妥当であるか、どうかを検証するために、この教科書の内容が上記の基準に照らして妥当か、否かを検討する。先に結論を述べれば、この教科書は日本の朝鮮や中国に対する加害行為の記載を極力避けようとしており、性的差別や民族差別に無関心である。この点が明らかになれば、古賀都議会議員の日本の侵略否定論も歴史の現実を無視した考えであることがおのずから判明するから、本意見書は古賀都議会議員の発言をとくに取り上げることはしない。

Ⅱ 「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校歴史教科書『新しい歴史教科書』の性格の検討

「新しい歴史教科書をつくる会」作成の扶桑社版中学校歴史教科書『新しい歴史教科書』、ならびに自由社版『新しい歴史教科書』の4つの版から次の項目の内容を検討し、この教科書の性格を検討する。
(1)韓国併合と植民地支配下の朝鮮
(2)関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺
(3)アジア・太平洋戦争中の朝鮮人強制動員
(4)日韓条約締結めぐる韓国に対する日本の戦後処理
(5)東京裁判

(1) 韓国併合と植民地支配下の朝鮮についての「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校歴史教科書の内容分析

①平成12(2000)年の検定用の所謂白表紙本扶桑社版『新しい歴史教科書』
日露戦争後、日本は韓国に統監府を置いて、支配権を強めていった。1910(明治43)年、日本は韓国を併合した(韓国併合)。これは、東アジアを安定させる政策として欧米列強から支持されたものであった。韓国併合は、日本の安全と満州の権益を防衛するには必要であったが、経済的にも政治的にも、必ずしも利益をもたらさなかった。ただ、それが実行された当時としては、国際関係の原則にのっとり、合法的に行われた。しかし韓国の国内には、当然、併合に対する賛美両論があり、反対派の一部から激しい抵抗もおこった。
②平成12年(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』
日露戦争後、日本は韓国に統監府を置いて、支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス、アメリカ、ロシアの3国は、朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景にして押さえて韓国を併合した(韓国併合)。 韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育などの同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。
③平成17年(2005)年3月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版
日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて、支配を強めていった。欧米列強は、イギリスのインド、アメリカのフィリピン、ロシアの外モンゴルなど、自国の植民地や勢力圏の支配を日本が認めることなどと引きかえに、日本が韓国を影響下におさめることに異議を唱えなかった。 日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合を必要と考えた。1910(明治43)年、日本は、武力を背景に韓国内の反対をおさえて、韓国併合を断行した(韓国併合)。 韓国の国内には、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 韓国併合のあと置かれた朝鮮総督府は植民地政策の一環として、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育などの同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。
④平成21年(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』
日露戦争後、日本は韓国に日韓協約によって韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。欧米列強は、イギリスのインド、アメリカのフィリピン、ロシアの外モンゴルなど、自国の植民地や勢力圏の支配を日本が認めることなどと引きかえに、日本が韓国を影響下におさめることに異議を唱えなかった。 日本政府は、この先、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が必要であると考えた。1910(明治43)年、日本は、武力を背景に韓国内の反対をおさえて、韓国併合を断行した(韓国併合)。韓国の国内には、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 韓国併合のあと置かれた朝鮮総督府は植民地政策の一環として、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、その他にも朝鮮の伝統を無視したさまざまな同化政策を進めたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。
以上のように、①では韓国併合は「国際関係の原則にのっとり、合法的に行われた」と述べられている。しかしこれは検定により修正せざるを得なかったらしく、②では「日本は韓国内の反対を、武力を背景にして押さえて韓国を併合した」と記されている。以後、武力による強制併合という記述に変りはなかった。この経過を見ると、「新しい歴史教科書をつくる会」としては武力による韓国強制併合という史実を隠して置きたかったのであろう。
また②③④とも、日本が鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行ったことが記されているが、その目的が記されていない。鉄道は第1に軍事目的で敷設された。朝鮮を縦貫する京釜鉄道と京義鉄道は1904年の日露開戦に対処して日本が着工したもので、前者の着工は1901年、後者の着工は1904年だった。

表1 1916―34年の朝鮮米生産高と対日搬出高
年 次 生産高(A) 対日搬出高(B) B/A
1916~20年平均 14,101千石 2,196千石 15.6%
1921~25年平均 14,501千石 4,342千石 29.9%
1926~30年平均 15,799千石 6,607千石 41.9%
1931~34年平均 16,782千石 8,456千石 50.4%
出典:楠原利治「日本帝国主義統治時期の朝鮮米搬出について」
(『朝鮮史研究会論文集』第1集、1965年)表9より作成。

第2の目的は、米穀や鉱産物、林産物を日本に搬出するためだった(高成鳳『近代日本の社会と交通 第
9巻 植民地の鉄道』日本経済評論社、2006年<43~44頁、56~57頁)。
灌漑設備の工事は日本への米穀搬出の増大ためだった。朝鮮では1920年から1934年にかけて産米増殖計画が実施されて灌漑設備が整えられた。しかし増産された米は、表1が示すように、専ら日本に搬出され、1931~34年には日本への搬出量は生産高の半分を超えた。生産者朝鮮農民はますます米が食べられなくなった。植民地支配下の開発は日本の利益のために行われたことが、教科書にも明記されねばならない。
農民の所有地を調査した土地調査事業も植民地財政確保のための収税強化策として行われたから、多くの農民が没落した。在日朝鮮人の増大は、こうした没落農民の増大の結果だった。在日朝鮮人は民族差別を受けて、極貧状態で生活せざるを得なかった。このために在日朝鮮人のハンセン病の発生率は極めて高く、1955年3月末の統計によると、ハンセン病の発生率は日本人の10倍になる(立教大学史学科山田ゼミナール編『生きぬいた証に―ハンセン病療養所多磨全盛園朝鮮人・韓国人の記録―』緑蔭書房、1989年、Ⅷ頁)。この病気は健康ならば感染しても発病しない。従って彼等の発病率の高さは、民族差別の下での極貧状態を示している。そして今日も彼等に対する日本人の差別と迫害は解決されていない。在日朝鮮人の形成史と生活史は、彼等の人権を確保するために日本人にとって不可欠な教養である。しかしこの教科書は、後述するように、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関してもごく僅かに言及するのみである。
日本書籍新社版『わたしたちの中学社会―歴史的分野』(平成17年検定合格)には、朝鮮で「多くの農民が土地を失い、生活に困った人々は、日本や満州などに移住するようになった。日本国内では、賃金や生活のうえで朝鮮人に対する差別が生まれ、朝鮮人を軽蔑する意識も強くなった」と書かれている。今日も在日朝鮮人に対する迫害が行われているのだから、在日朝鮮人の存在の歴史的性格を理解させるために、中学校の歴史教科書でも、せめてこの程度の説明が欲しい。 

(2)関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺についての「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校歴史教科書の内容分析

①平成12年(2000)年の検定用の所謂白表紙本扶桑社版『新しい歴史教科書』
記述はまったくない。
②平成12年(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』
1923(大正12)年9月1日には、関東地方で大地震がおこり、東京・横浜などで大きな火災が発生して、約70万戸が被害を受け、死者・行方不明者は10万を超えた(関東大震災)。この混乱の中で、朝鮮人や社会主義者の間に不穏なくわだてがあるとの噂が広まり、住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人・中国人を殺害する事件がおきた。
③平成17年(2005)年3月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版
1923(大正12)年9月1日、関東地方で大地震がおこり、東京・横浜などで大きな火災が発生して、約70万戸が被害を受け、死者・行方不明者は10万をこえた(関東大震災)。この混乱の中で、朝鮮人や社会主義者の間に不穏なくわだてがあるとのうわさが広まり、住民の自警団などが朝鮮人・中国人や社会主義者を殺害するという事件がおきた。この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けた。
④平成21年(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』
1923(大正12)年9月1日、関東地方で大地震がおこった。東京・横浜などで大きな火災が発生して、約70万戸が被害を受け、死者・行方不明者は10万をこえた(関東大震災)。この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けたが、地震の多い日本での近代都市づくりに得た教訓は多く、耐震設計の基準づくりや都市防災への研究がはじまった。(注)この混乱の中で、「朝鮮人や社会主義者の間に不穏な計画がある」とのうわさが広まり、住民の自警団などが朝鮮人やそれに間違われた中国人、日本人を殺したり、軍人が独断で社会主義者を殺害する事件がおきた。

①には関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺事件は記載されていない。「新しい歴史教育をつくる会」は、朝鮮人や中国人に対する日本人の加害行為を書きたくないのである。検定で指示されたらしく②と③には、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は記載されている。しかし、④では朝鮮人・中国人虐殺事件は、注に回されてしまった。
この教科書は朝鮮人・中国人虐殺者として自警団だけを挙げているが、軍隊や警察も朝鮮人や中国人を虐殺したのである。日本書籍新社版『わたしたちの中学社会―歴史的分野―』(平成17年検定合格)には次のように軍隊・警察が虐殺したことや、流言が信じられた背景として民族差別に対する復讐を恐れたことを次のように記している。
「大震災の混乱のなか、“朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ”などのうわさが広められた。そのため数千の朝鮮人や数百の中国人が、軍隊・警察や、住民がつくった自警団によって虐殺された(2)。また、社会主義者や労働組合の指導者のなかには、軍隊や警察によって殺されたものがいた。
関東大震災は復興に巨額の費用を要し、経済に大きな影響をあたえた。また、震災はぜいたくに対するいましめだという主張があらわれ、精神を引きしめようとする動きが強まった。
注(2)この事件は、人々が日ごろ朝鮮人や中国人を差別しているため(→p.163)、そのしかえしをおそれる心から、流言を事実と思いこんでおこしたものといえる。」
そしてこの163頁には、前述のように、在日朝鮮人の発生が日本の植民地支配の結果であり、かつ彼等が日本で民族差別を受けていたことを指摘し、それが関東大震災時の虐殺の原因になったことを指摘している。関東大震災時の虐殺の原因には確かに日本人の民族差別意識にもあったが、1919年の3・1運動以後、解放を求める在日朝鮮人の運動が量的にも質的にも発展した結果、日本の警察の不安が高まったことにも原因がある。つまり、3・1運動以前の在日朝鮮人の運動は朝鮮人留学生の運動だったが、3・1運動以後の在日朝鮮人の運動は新たに社会主義者や無政府主義者、さらには労働者の運動が起こってきた(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任―』創史社、2003年、57~68頁)。日本書籍新社版の中学校歴史教科書もここには眼を配っていないが、「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校教科書に比べれば、在日朝鮮人を理解する上に必要な点にきちんと目配りしているといえよう。
この「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書の②や③が言う噂に重大な問題がある。この噂は民族差別意識をもつ日本人民衆からも発生・流布されたと思われるが、しかし政府が誤認情報を流した事実を無視することはできない。この史料は間違いなく残されている。その2つの史料を挙げよう。
その1つは埼玉県内務部長香坂昌康が1923年9月2日の晩に県下郡役所経由で町村長に自警団結成を命じた指令である。原文は下記のようである。
「庶發第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移牒
今回の震災に対(際―引用者)し、東京に於て不逞鮮人の盲動有之、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとの趣及聞、漸次その毒手を振るわんとするやの惧有之候に付いては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速やかに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度。右その筋の来牒により、この段及移牒候也」(吉野作造『圧迫と虐殺』1924年、96頁)
1923年12月16日に永井柳太郎が衆議院で行った演説によると、以下のような経過でこの移牒が県下郡町村長に電話で送られたのである。
「埼玉県の地方課長が九月二日に東京から本省との打合せを終え、午後の五時頃に帰って来ましてそうしてそれを香坂内務部長に報告をして、其報告に基いて香坂内務部長は守屋属をして県内の各郡役所へ電話で急報し、各郡役所は其移牒せられたるものを或は文書に依り、或は電話に依って之を各町村に伝えたのであります。」(『官報号外 大正十二年十二月拾六日 衆議院速記録 第五号』106頁)
これによれば、埼玉県内務部長の県下郡町村長宛の上記移牒は、埼玉県地方課長を通じて伝達された内務省の指示に基づくものだったのである。熊谷事件、神保原事件、寄居事件、片柳事件など埼玉県内で起こった朝鮮人虐殺事件や日本人を虐殺した妻沼事件などの被告に対する1923年12月26日付け浦和地方裁判所判決書は、すべてこの内務部長の指令によって9月3日に自警団が組織されて、朝鮮人虐殺事件が引き起こされたことを認めた(山田昭次、前掲書、84~86頁)。そのうちの一例を挙げれば、熊谷事件の被告に対する判決書には次のように記されている。
「県当局者に於ても(中略)翌二日夜、所轄郡役所を介してその管内の町村役場に対して不逞鮮人の襲来に処する処置として予め在郷軍人分会・消防手・青年団等の各主脳者の諒解を得て警察官憲に協力して自警の方法を講じ置くべき旨の通牒をしたるより、被告等居町民は翌三日来その襲来に備う可く自警団なるものを組織し、日夜警戒の任務に服し(下略)」
他方、朝鮮人の取締を命じた警保局長後藤文夫の次の電文が翌3日午前8時15分に船橋海軍無線送信所から呉鎮守府副官経由の各地方長官宛に送られた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」
(琴秉洞編・解説『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 Ⅱ 朝鮮人虐殺関連官庁史料』緑蔭書房、1991年、158頁)
この電文の欄外には「この電報を伝騎に持たせやりしは二日の午後と記憶す」と書かれている。これによれば後藤がこの電文を起草して伝令に渡したのは2日であった。内務省の指令が埼玉県内務部長に伝えられたのも9月2日だった。これから見て内務省は9月2日に朝鮮人が暴動を起こしたと誤認したのであろう。そしてこの日に東京市とその周辺5郡に、3日には東京府と神奈川県に、4日には埼玉・千葉両県に対して戒厳令が布告されたから、民衆は朝鮮人暴動が起こったのは事実と一層確信したのであろう。民衆からも流言が発生・流布されたであろうが、お上の権威が強かったこの時代のことだから、官憲が流した誤認情報の責任はきわめて大きいと言わねばならない。
比較的に良質な日本書籍新社版の中学校歴史教科書さえも官憲の誤認情報流布のことに触れてないが、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書の②や③にいたっては、軍隊・警察が朝鮮人・中国人虐殺をしたことも記さず、朝鮮人虐殺の国家責任に全く眼をつぶっている。しかも、前述のように④の自由社版『新編 新しい歴史教科書』では、本文に書かれているのは自然災害である大地震のみであって、人災である朝鮮人・中国人虐殺事件は注に回されてしまった。「新しい歴史教科書をつくる会」は、マイノリティに対する迫害や差別に眼を向けまいとしていることがここにも現われている。

(3)アジア・太平洋戦争中の朝鮮人強制動員についての「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校 
歴史教科書の分析

①平成12年(2000)年の検定用の所謂白表紙本扶桑社版『新しい歴史教科書』
大東亜戦争の戦況が悪化すると、国内の体制はさらに強化された。労働力の不足を埋めるため徴用(政府の命令で指定された労働を義務付けられたもので、植民地である台湾・朝鮮へも適用された)が行われ、…
②平成12年(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』
このような徴用や徴兵などは、植民地でも行われ、朝鮮や台湾の多くの人びとにさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。このほかにも、多数の朝鮮人や占領下の中国人が日本の鉱山などに連れてこられて、厳しい条件のもとで働かされた。また朝鮮や台湾では、日本人に同化させる皇民化政策が強められ、日本式の姓名を名乗らせることなどが進められた。
③平成17年(2005)年3月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版
朝鮮半島では、日中戦争開始後、日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われ、朝鮮人を日本人化する政策が強められていた。戦争末期には、徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され、現地の人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。また多数の朝鮮人や中国人が、日本の鉱山に連れてこられ、厳しい条件の下で働かされた。
④平成21年(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』
朝鮮半島と台湾では、日中戦争開始後、日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われ、朝鮮人と台湾人を日本人化する政策が強められた。戦争末期には、徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され、現地の人々にさまざまな犠牲や苦しみを強いることになった。また多数の朝鮮人や中国人が、日本の鉱山に連れてこられ、厳しい条件の下で働かされた。

「従軍慰安婦」の記載の欠如
①の検定用の白表紙本ではアジア・太平洋戦争中の朝鮮人強制動員に関しては、「労働力の不足を埋めるため徴用(政府の命令で指定された労働を義務付けられたもので、植民地である台湾・朝鮮へも適用された)が行われ」と、本文中の注で簡単に触れただけである。ところが、②の平成12年(2001)年4月検定合格本になると、過酷な強制労働動員や徴兵や皇民化政策の記述が登場した。これはやはり検定に際して文部省側の指示があったためであろう。しかし「従軍慰安婦」の記述は登場しない。
それもその筈、そもそも「新しい歴史教科書をつくる会」の最も中心的な人物である藤岡信勝氏は、1996年に検定に合格した中学校の歴史教科書のうち、7社のそれに「従軍慰安婦」の記述が登場すると、いち早く教科書からの「従軍慰安婦」の記述の廃止を主張した人物だった。この彼の主張は、『汚辱の近現代史-いま、克服のときー』(徳間書店、1996年)や、『「自虐史観」の病理』(文藝春秋、1997年)で展開された。
「従軍慰安婦」問題が論争の焦点になったのは、1993年8月4日に宮沢内閣の官房長官河野洋平が「従軍慰安婦」について政府見解を発表したことによる。この河野談話で「従軍慰安婦」の歴史的性格を述べた部分を記せば、下記のようである。
「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められる。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当ったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下で痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比率をしめていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」
河野談話が認めた従軍慰安婦の存在を否定する藤岡氏の主張が比較的に整理されて述べられている論説は「文部大臣への公開書簡―「慰安婦」記述の削除を要求する―」(前掲『「自虐史観」の病理』に収録)である。これによって彼の見解を紹介する。
彼の第1の論点は、「そもそも“従軍慰安婦”なる言葉自体が存在しなかった」ということである(前掲『「自虐史観」の病理』16頁)。しかし1938年3月4日付陸軍集兵務局兵務課の文書には「軍慰安所従業婦等募ニ集関スル件」という表題がつけられている(鈴木裕子、他編『日本軍「慰安婦」関係史料集成』上、明石書店、2006年、103頁)。また在厦門総領事館作成の「一九三八年一〇月一日現在在支邦人職業別人口統計」の職業名欄には「慰安所従軍婦」と記されたものがある(鈴木裕子、他編、前掲書。117頁)。当時、その他に「酌婦」とか「特種婦人」といった用語も使われているが、上記のように「従軍慰安婦」に類する用語も使われている。従って「そもそも“従軍慰安婦”なる言葉自体が存在しなかった」といって、その存在を否定する理由にはならない。ただし、「従軍」というと自発的に軍に従事したような印象を与えるので、本意見書では所謂という意味で括弧をつけて「従軍慰安婦」と記すことにする。
軍による強制連行の有無
藤岡氏が第2の論点とすることは、問題は「軍に付属する慰安施設があったかなかったではなく、軍による強制連行があったか」ということである(前掲『「自虐史観」の病理』18頁)。
そこで韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊問題協議会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳『証言―強制連行された朝鮮人軍慰安婦』(明石書店、1993年)に収録された19人の証言を整理して、慰安所にどのようにして徴集・連行されたかを調べてみる。

表2 朝鮮人元「従軍慰安婦」の証言による「従軍慰安婦」の徴集をめぐる状況
姓 名 徴集年 年令 徴集地 学   歴 徴集時職業 徴集方式 徴集人 徴集先
12345678910 a10 b111213141516171819 金学順金徳鎮李英淑河順女呉五穆黄錦周文必李容洙李玉粉文玉珠同 上李順玉李相玉李得南李用女金台善朴順愛崔明順姜徳景尹頭理 1941193719391941か19421937193419431944193719401942193819371939194219441941194519441943 17171721か2216131816121618171522161823191616 中国北京慶尚南道慶尚南道全羅南道全羅北道威鏡南道慶尚南道慶尚南道慶尚北道慶尚北道同上慶尚北道京城満州京城全羅南道京城広島富山釜山 教会の学校に4年在学無学無学無学無学夜学に2年在学無学小学校に1年未満在学、後に夜学に在学小学校に2年まで在学書堂、後に夜学に在学同上夜学小学校に4年まで在学普通学校2年まで在学無学無学普通学校2年まで在学小学校4年間で在学国民学校高等科1年まで在学普通学校に在学 妓生養成の家の養女女中女中女中無職養女家事工場労働者小学生工場労働者住み込み働き無職紹介所養女カフェ女給飲み屋女給無職紹介所にいた軍人の妾不二越女子勤労挺身隊員失業中 拉致就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺拉致拉致就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺就業詐欺無断引渡し逃亡中に拉致される拉致 軍人朝鮮人朝鮮人夫婦朝鮮人と日本人朝鮮人日本人班長の妻朝鮮人と日本人警官日本人日本人と朝鮮人軍服着用日本人朝鮮人慰安所管理人朝鮮人朝鮮人と日本人軍属日本人飲み屋女主人日本人と朝鮮人紹介所軍人の息子憲兵警察官と軍人 中国中国中国中国中国中国満州台湾台湾満州ビルマ満州、シンガポールパラオ中国、スマトラビルマビルマラバウル日本日本釜山影島
【注】下線をつけた名前は仮名である。

上記の表2中の10番に掲載されている文玉洙は、「従軍慰安婦」に徴集されていた満州から帰国した後、再度「従軍慰安婦」に徴集された。従って彼女の場合は2人分とし、この表2に示された徴集方式を分類すると、下記の表3のようである。これによれば、「従軍慰安婦」の徴収方式は、20人中14人、すなわち全体の70%が就業詐欺による徴集である。これほど就業詐欺が行われたのは、警察がこれをきちんと取り締まらなかったことにも原因があろう。しかも拉致された者も5人おり、そのうち3人は軍人や警察官によって拉致された。
しかし、1944年10月1日付けアメリカ情報局心理作戦班『日本人捕虜尋問報告書』によると、ビルマの日本人慰安所経営者M739は300円から1000円を支払って両親から未婚の朝鮮人女性22人買い受けた(吉見義明編集・解説『従軍慰安婦史料集』大月書店、1992年、458頁)。つまり身代金による人身売買もあったのである。植民地支配下の貧困と家父長制の下での性差別が生み出したのが身売りだった。

表3 朝鮮人「従軍慰安婦」の各種徴収方式の比率
徴収方式 人  数 比  率
就業詐欺拉  致無断引渡 14人5人1人 70%25%5%
合  計 20人 100%
【注】表2から算出。

表4 朝鮮人「従軍慰安婦」の徴集の際の就業詐欺の方式
被就業詐欺者 就業詐欺の方式
234567810B111213141516 金 徳 鎮李 英 淑河 順 女呉 五 穆 黄 錦 周文 必 李 容 洙文 玉 珠李 順 玉 李 相 玉李 得 南李 用 女金 台 善朴 順 愛  朝鮮人が「日本の工場で仕事をする女を募集に来た」と言った。朝鮮人が「朝鮮より暮らしやすい日本に就職させてやる」と言った。朝鮮人と日本人が「日本の大阪に行けば、たくさんお金がもうかる」と言った。朝鮮人が「紡績工場に就職させてあげる」と言った。村の班長の妻が「日本の軍需工場に3年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる」と言った。日本人の手先の朝鮮人が「勉強もできてお金が儲かる所に行かせてあげる」と言った。友達に母が「うちのプンスンとそこにいけば、ご飯もおなか一杯食べられるし、お前の家族の面倒もみてくれるって話だよ」と言った。友人が「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と言ったので、実は慰安所管理人である朝鮮人に同行した。朝鮮人が「日本の新しい絹織物工場で働く娘が必要だ」と言った。朝鮮人と日本人軍属に集められた朝鮮人女性が「日本の工場に行くのだ」と言ったので,一行に参加した。カフェ常連の日本人が「ここより給料がいいカフェを紹介してやる」と言った。飲み屋の女主人が「日本に金をたくさんか稼げるところがあるが、行かないかい」と言った。崔という朝鮮人が「日本に行って一年間だけ働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言った。野戦病院で3年も働けば借金も返せるし、お金も儲けられるという噂を聞いた。
【出典】韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊問題協議会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳、前掲書
表5 日本および朝鮮での朝鮮人の賃金(1922年平均熟練労働者、日給、単位は円)
職 業 (a)日本での朝鮮人賃金 (b)朝鮮での朝鮮人賃金 (b/a)bに対するaの倍率
農作夫農作婦土 方仲 士坑 夫職 工雑 役 1.640.872.302.502.201.801.20 0.920.561.301.601.301.100.70 178%155%177%156%169%167%171%
【出典】「内地及朝鮮に於ける朝鮮人賃金比較表」(大阪市社会部調査課『朝鮮人労働問題』1924年)。

表6 朝鮮から慰安所までの「従軍慰安婦」の送出者
姓 名 朝鮮から軍慰安所までの従軍慰安婦の送出者
12345678910a10b111213141516171819 金学順金徳鎮李英淑河順女呉五穆黄錦周文必李容洙李玉粉文玉珠同 上李順玉李相玉李得南李用女金台善朴順愛崔明順姜徳景尹頭理 軍人が姉と共に彼女をトラックに乗せて慰安所へ。朝鮮人男子が徴集し、釜山で引率者は慰安所経営者らしい朝鮮人男女に替わり、上海の慰安所へ。朝鮮人夫婦が彼女を新義州で日本人軍属に引渡し、広東の上海の慰安所へ。徴集に来た日本人慰安所経営者と朝鮮人が上海の慰安所へ彼女を連行した。金という男が彼女たち5人を満州に連れて行き、そこで日本人に引き渡して慰安所へ。彼女等を引率した朝鮮人男子が駅で軍人に引渡し、満州の慰安所へ。朝鮮人男子と村の派出所日本人警官が釜山に連行し、そこから軍人が引率して満州の慰安所へ。日本人男子が大邱に連行し、そこから引率者は日本人慰安所経営者に替わり、台湾の慰安所へ。日本人と朝鮮人が連れて行って監禁した後、別の日本人が釜山経由で台湾の慰安所へ。軍服を着た者が捕まえて日本人男子と朝鮮人男子に引渡し、満州の慰安所へ。松本という朝鮮人慰安所管理人に連れられて釜山港から軍用船でビルマへ。呉という朝鮮人が連行して満州の慰安所へ。京城の紹介所に徴収に来た日本人軍属が連行し、パラオの慰安所朝鮮人経営者に引き渡された。カフェの常連の日本人男子が連行し、漢口の朝鮮人慰安所経営者に引き渡した。金をたくさん稼げるところがあると、飲み屋の女主人に騙され、朝鮮人男女の引率者により釜山経由でビルマのラングーンの慰安所へ。朝鮮人1人と日本人1人に連れられて釜山、大阪経由でビルマのラングーンの慰安所へ。朴に連れられて釜山、下関経由、軍艦でラバウルの慰安所へ。町内会の男に騙されて広島の軍人の妾にされ、さらに軍人の息子によって行先も告げられず慰安所へ引き渡された。富山の不二越の女子勤労挺身隊員だった彼女は工場から逃亡したところを憲兵に捕まり慰安所へ。釜山の南部警察署の巡査につかまって軍人に引き渡され、釜山の影島の第一慰安所へ。
【出典】韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊問題協議会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳、前掲書

就業詐欺の方式は、表4のようである。すなわち、「日本に就職させてやる」とか、「日本の工場に就職させてやる」といった就業詐欺が14件中9件も占める。この就業詐欺が多く用いられた原因は2つある。第1の原因は、朝鮮人の賃金は民族差別により日本人の賃金より低かったが、それでも朝鮮での朝鮮人の賃金よりは日本での朝鮮人の賃金より多かったことである。具体的に言うと、1929年当時、東京の朝鮮人の賃金は日本人のそれより2割ないし3割安かった(東京府社会課『在京朝鮮人の概況』1929年。朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第2巻、三一書房、1975年、971頁)。しかし表5に示されているように、1922年当時、朝鮮での朝鮮人の賃金よりは日本での朝鮮人の賃金は5割から8割近く多かったのである。
もう1つの原因は彼女たちが社会の底辺に生きる女性であったからである。表2によれば、学歴は無学の者が7名もいる。職業は女中、無職、女給、無職といった恵まれない状況にある。したがって朝鮮よりは高賃金の日本での就職を強く望んでいたことが、甘言に騙されやすい条件となったのであろう。
表6を整理して、従軍慰安婦の送出に従事した者を分類すると、下記のようになる。
①軍人・軍属・警官などが女性を徴集または拉致して送出する場合:
1.7.10a.12.18.19
②徴集人が女性の送出の途中で軍人・軍属に引き渡す場合:3.6
③慰安所経営者または慰安所管理者が自分で女性の徴集に乗り出した場合:4.10b
④女性の送出の途中で慰安所経営者が徴集人から女性を受け取って慰安所に連行する場合:2.8
⑤女性の送出の途中で徴集人から別の日本人(これは慰安所経営者かもしれない)が女性を受け取って慰安に連行した場合:5.9
⑥徴集人が慰安所まで女性を連行した場合:11.13.14.15.16
⑦個人が女性を慰安所に連れ込んだ場合:17
①の場合が生ずるのは軍直営の軍人・軍属占用の慰安所があったためであろう。
民族差別を受けた朝鮮人「従軍慰安婦」
1943年3月から中国の漢口兵站司令部副官で慰安係長だった山田清吉は日本人「従軍慰安婦」と朝鮮人「従軍慰安婦」を比較して次のように述べた。
「内地から来た妓はだいたい娼婦、芸妓、女給の経歴のある二十から二十七、八の妓が多かったのにくらべて、半島から来たものは前歴もなく、年令も十八、九の若い妓が多かった」(山田清吉『武漢兵站―支那派遣軍慰安係長の手記―』図書出版社、1978年、86頁)。
日本人「従軍慰安婦」は娼婦で年令が高かった原因は、内務省警保局長が1938年2月23日付けの各庁府県長官宛通達「支那渡航婦女の取扱に関する件」で「婦女売買禁止に関する国際条約の趣旨に悖る事無きに保し難」いという理由で「醜業を目的とする婦女の渡航は現在内地に於て娼妓其の他事実上醜業を営み満二十一歳以上且花柳病其の他で伝染病其の他疾患なき者にして北支、中支方面に向う者に限り」と、渡航する日本人従軍慰安婦に条件をつけたからである(吉見義明編集・解説、前掲書、103頁)。
ここで言う「婦女売買禁止に関する国際条約」とは、日本が1925年12月21日に批准した「醜業を行わしむる爲の婦女売買禁止に関する条約」と「婦人及児童の売買禁止に関する条約」を指す。前者は第1条で「醜行」のために未成年の婦女を勧誘、誘引、かどわかした者は、本人の承諾を得ても、その行為が異なる国の間で行われた場合でも罰せられること、第2条では「醜行」のために詐欺または脅迫権力濫用などの強制手段で成年の婦女を勧誘、誘引、かどわかした者は、その行為が異なる国の間で行われた場合でも罰せられることを規定した。前者は未成年満20歳未満とし、後者は未成年を満21歳未満とした。
しかし、日本政府は上記条約の批准に先立ち、1925年6月23日に「日本国政府宣言」を発し、未成年の規定年令21歳を18歳にし、また朝鮮・台湾などの植民地を条約の適用除外地とした。日本政府は年令保留は1927年に撤廃し、未成年を満21歳未満としたが、植民地に対する適用除外は変更しなかった。この結果、植民地の未成年の女性は人権保護の外に置かれた。朝鮮人「従軍慰安婦」の年令が日本人「従軍慰安婦」の年令より若いのはこのためである。表2に掲載した朝鮮人女性19名中満21歳未満の女性は16名である。つまり「従軍慰安婦」にさせられた朝鮮人女性の多くは21歳未満であった。この表ではまだ12歳だった李玉粉さえいた。同じく「従軍慰安婦」であっても、朝鮮人や台湾人女性には民族差別が加えられた。
戦争を円滑に行うための慰安所設置
慰安所設置には2つの目的があった。
第一は、中国人女性に対する日本人兵士の強姦の頻発が中国人の抗日意識を強めたので、強姦防止のために慰安所が設置された。
〔史料〕
北支那方面軍参謀長岡部直三郎「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」1938年6月27日
(前略)
二、治安回復の進歩遅々たる主なる原因は、後方安定に任ずる兵力の不足に在ること勿論なるも、一面軍人及軍隊の住民に対する不法行為が住民に怨嗟を買い反抗意識を煽り、共産抗日系分子の民衆扇動の口実となり、治安工作に重大なる悪影響を及ぼすこと尠しとせず。
而して諸情報によると、斯の如き猛烈な反日意識を激性せし原因は、各所に於ける日本軍人の強姦事件が全般に伝播し、実に予想外の深刻なる反日意識を醸成せるに在りと謂う。(中略)
四、右の如く軍人個人の行為を厳重取り締まると共に、一面成るべく速に性的慰安の設備を整え、設備の無きために不本意ながら禁を侵す者無からしむるを緊要とす。(吉見義明編集。解説、前掲書、209~210頁。下線は引用者がつけた)

第二に軍隊の秘密漏洩防止と兵士の性病予防の必要もあった。
〔史料〕
シンガポール駐在独立自動車第四十二大隊第一中隊「陣中日誌」第7号、1942年7月4日
風紀の粛清並に防諜及悪疾予防の爲、自今軍に於て設置したる特種慰安所以外特に私娼窟等に於て特種慰安を求むるを禁ず。(吉見義明編集・解説、前掲書、354頁)
軍隊と慰安所経営者との関係
慰安所には、①軍直営の軍人・軍属専用の慰安所、②民間業者が経営するが、軍が管理統制する軍人・軍属専用の慰安所、③軍が指定した慰安所で、一般人も利用するが、特別の便宜を求める慰安所、この3
種類があった。
②の場合も、民間業者と軍との関係はきわめて密接だった。日本軍は,1938年10月27日に中国の武漢、すなわち武昌・漢口・漢陽の3都市を占領した。この日に早くも第11軍村中先遣参謀は漢口兵站司令部設置のために入城した木村惣三郎少佐に対して単独宿舎と慰安所設立の準備を指示した。兵士の強姦事件を防止するために慰安所の設置を急いだのである。軍は慰安婦を連れた慰安所経営者を優先輸送した。漢口の積慶里が慰安所設置の地として選ばれた。漢口兵站司令部は、上級司令部の指示により積慶里に慰安所に供する家屋を選定し、慰安所一軒に対して民家2軒を貸与し、11月下旬には約300人の慰安婦がいる30軒の慰安所の開業にこぎつけた(元漢口兵站司令部・軍医大尉 長沢健一『漢口慰安所』図書出版社、1983年、42~55頁)。以上の経過を見ると、軍と民間の慰安所経営者の関係が極めて密接だったことがここに示される。
従軍慰安婦についてのまとめ
藤岡信勝氏は、「慰安婦の女性は.職業としての売春婦」と規定する(前掲『「自虐史観」の病理』20頁)。その理由は下記のようである。
「もし、慰安所で働いていた女性が軍によって強制的に連行されてきたのなら、それは“セックス・スレイブ”(性奴隷)と呼ぶのがふさわしく、当時の社会的規範に照らしても、日本軍の行動は国家的な煩犯罪として指弾されるのが至当です。しかし、業者に伴われて戦地に働きにきたのなら場、彼女らは“プロスティテュ―ト」”(売春婦)と呼はぜるべきです。彼女らは“人類最古の職業”に従事していたことになるのです。」(前掲、『「自虐史観」の病理』、20頁)
しかし既に検討したように、軍人・軍属や警官による拉致もあったのである。しかもこれを除いても、朝鮮人女性に対する徴集方式で最も多いのは就業詐欺である。これは親のために娘の身売りは当然と見る家父長制の下での性差別に便乗して、本人の意思を無視した徴集であり、従って強制連行である。
藤岡氏は「一部には、業者にダマされたのも“強制連行”だ、などと詭弁を弄している人々がいるが、それならその業者の責任を問うべきで、日本国家の責任ではない」という(前掲『「自虐史観」の病理』134頁)。しかし徴集業者は軍と一体になっていた例が多いのである。表6によれば、3の李英淑、6の黄錦周、12の李相玉の場合は徴集人が慰安所への連行の途中で軍人や軍属に引渡し、10bの文玉珠や16の朴順愛の場合は軍用船や軍艦で運ばれた。また既に述べてように漢口では陸軍兵站部が家屋を選定して慰安所経営者に提供した。就業詐欺をした業者と軍が連携し、慰安婦の輸送や慰安所接地に軍が便宜を与えたのであり、頻発する就業詐欺がひとり徴集人や慰安所経営者の責任とはいえない。
また就業詐欺による女性の徴集が多発したのは、警察がこれを黙視して、取り締まる意志がなかったためであろう。この点から見ても、就業詐欺はひとり業者の責任とは言えない。
また既に述べたように、日本の国家は日本人女性に対する場合は21歳未満の未成年女性は除外したのに対して、朝鮮人女性や台湾人女性に対してそうした配慮はしなかった。これは明らかに民族差別である。
藤岡氏は「従軍慰安婦」問題を取り上げる論者に対して「自虐史観」と罵倒する。しかし朝鮮人「従軍慰安婦」の問題は民族差別と性的差別が重層的に重なった問題である。こうした問題はこれまで歴史研究でもなかなか自覚されなかった。その例として関東大震災時の朝鮮人虐殺の際の朝鮮人女性に対する虐殺には民族差別と性的差別が重層的に重なっているのだが、気づかれないで来た。この点を指摘したものは、拙稿「朝鮮女性への残虐な性的虐待―関東大震災から80年 闇に葬られた真実―」(『朝鮮新報』2003年8月27日)だけであろう。以下、この拙稿の一部を紹介する。

「  関東大震災時の東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する性差別的な虐待、虐殺
湊七良は、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰ってきた」と回想した(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31頁)。
亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人もいた。その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き刺した」(崔承万『極熊筆耕―崔承万文集―』金鎮英、1970年、83頁)。
当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人の死体を見た。「なかでも、いちばんあわれだったのは、若い女が、腹をさかれ、6、7ヵ月くらいと思われる胎児が、腹ワタノ中にころがっているのを見たときだ。その女の陰部には、ぐさりと竹槍をさしてあった。あのときほど、朴は日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98頁)。
野戦重砲兵第一連隊兵士の久保野重次は、1923年9月29日の日記に、岩波少尉たちが小松川で「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」と記した(関東大震災五十周年著朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会、1975年、18頁)。
朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味 
上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたというデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、きわめて攻撃的である。それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であろう。
朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論・反省されることは皆無だった。その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。」

公正とは何か
公正とは何か。最も虐げられた者や最も差別された者の側に立って、とかく見落としがちな史実を直視し、すべての人間の解放を志すということなのではないのか。前述のように、人間は差別されたり、抑圧されたことには敏感であって、自己が他者を差別したり、抑圧していることにはなかなか気がつかない。研究史を振り返りば、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件や「従軍慰安婦」を含む朝鮮人戦時強制動員も、被害民族の一員である朝鮮人研究者が声を挙げてから、日本人研究者がこれを取り上げてきたことを無視することはできない。最も虐げられた者や最も差別された者の側に立ってことを見ることは、人間社会の最底辺で生きていない人間にとって極めて至難なことは重々承知の上で、あえて上記のように考える。

(4) 日韓条約締結をめぐる韓国に対する日本の戦後処理についての「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校歴史教科書の内容分析

①平成12(2000)年の検定用の所謂白表紙本
1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償・無償計5億ドルの援助を約束して、韓国に協力金を支払った。
②平成13(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』
1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償・無償計5億ドルの協力金を支払った。
③平成17(2005)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版
1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル、無償形3の経済協力を約束した
④平成21(2009)年4月検定合格、自由社版『新しい歴史教科書』改訂版
1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル、無償形3の経済協力を約束した。

以上のように、『新しい歴史教科書』は最初の白表紙本から最近の自由社版に至るまで日韓基本条約および関係諸協定を含む日韓条約締結に関する記述はすべて、日韓条約が植民地支配責任を処理したのか、否かについて、何の説明もない。
そこで日本書籍新社版『わたしたちの中学社会―歴史的分野』(2005年3月検定合格)と対照させてみよう。この教科書では「日本の戦後処理」という欄が設けられている。このうち日韓条約関係の部分を紹介すると、次のようである。
「一方、ソ連は1956年の日ソ共同宣言で、中国は1972年の日中共同声明で、それぞれ賠償支払いを求めないことを決めました。また、韓国も1965年の日韓基本条約で同様のことを決め、その代わりに日本政府が経済援助をおこなうことになりました。
日本政府は、こうした経過から、賠償などの戦後処理の問題は基本的に決着ずみとの立場に立っています。しかし、日本から被害を受けた個人が補償を要求する権利まで各国の政府がうばうことができないという考え方もあります。事実、これにもとづいて、強制連行された人たちや南京事件の犠牲者たちなどが、日本政府による謝罪と補償を求めて、次々に裁判をおこしています。」 
つまり日韓条約では日本が賠償を避けて経済協力にしたために、強制連行の被害者が謝罪と補償を求めていることが記されている。
ちなみに言うと 日本書籍新社版はでは、「従軍慰安婦」も含めて強制連行の問題も「まぼろしの大東亜共栄圏」と題する欄に次のように記されている。
「日本国内の労働力不足をおぎなうため、朝鮮や中国の占領地からは、多くの人々が内地に強制的につれていかれました。強制連行された朝鮮人の数は約70万人、中国人の数は4万人とされています。また、軍の要請によって、日本軍兵士のために朝鮮などアジアの各地から若い女性が集められて、戦場に送られました。」
そもそも「経済協力」という形式は、日本が韓国を植民地として支配した加害責任を認めて償うことを回避するためのものだった。第5次日韓会談(1960年10月25日~1961年5月16日)の開始前に作成された「対韓経済技術協力に関する予算措置について」と題する外務省の内部文書には、賠償を拒否して経済協力に固執する所以を次のように記してあった。
「財産請求権問題は一種の棚上げにする方が適当である。その一方で日韓会談妥結の為に韓国に何らかの経済協力をする必要がある。我が国にとっても、過去の償いということではなしに韓国の将来の経済に寄与するという趣旨ならば、かかる経済援助を行なう意義ありと認められる。」(新延明「条約締結に至る過程」『季刊 青丘』第16号、1993年5月、41頁。下線は引用者がつけた。) 
韓国では1966年2月19日に公布、施行された「請求権資金の運用および管理に関する法律」には、日韓の間で締結された「請求権・経済協力協定」に基づいて日本から受け入れた経済協力金から民間人の対日請求権の補償がなされることが規定された。しかし、1971年1月19日に公布された「対日民間請求権申告に関する法律」によって補償金を受ける有資格者とされたのは、日本に強制動員された軍人・軍属・労働者のうち、1945年8月15日以前に死亡した者のみに限定された。しかも1人当たりの補償金額は、1974年12月21日に公布・施行された「対日民間請求権補償に関する法律」によって僅か30万ウォン(約19万円)と規定された。
この結果、次の者が補償から除外された。すなわち、1945年8月15日以前に死亡した者であっても「死亡通知書」や「戦死通知書」などの証拠を持たない遺族、強制動員されて負傷または病気になった者、またその結果1945年8月15日以後に死亡した者、賃金、諸手当未払いの者などである。在日韓国人は補償から除外された。元「従軍慰安婦」は、男性が女性のみに純潔や貞操を要求し、性暴力の被害を受けた女性を白眼視する性のダブル・スタンダードの社会の圧力を受けているために、日韓条約締結の時期には名乗りを上げられなかったので、彼女たちの被害は取り上げられなかった。金学順が勇気をふるって元「従軍慰安婦」としてはじめて名乗りを上げたのが、それよりずっと遅れた1991年8月14日のことだった。
藤岡信勝氏は日本軍の「従軍慰安婦」の強制連行がなかった証拠の一つして「民間のみならず韓国政府も戦後これを問題にしなかった。一九六五年の日韓基本条約締結のときも、男子の徴用工については問題とされたが、慰安婦の強制連行などまったく問題とされなかった」という大師堂経慰氏の説に賛成した(前掲『「自虐史観」の病理』20頁)。しかしこれは元「従軍慰安婦」たちが性のダブル・スタンダードの社会的圧力を受けて、なかなか名乗りを上げられない性的差別の苛酷さに全く無理解な見解であり、それは性差別に無頓着な「新しい歴史教育をつくる会」の歴史観の重大な欠陥を示すものに他ならない。
韓国人強制動員被害者が日本の裁判所に次々と訴えるようになったのは,1991年から2003年にかけてのことである。被強制連行労働者・軍人・軍属・「従軍慰安婦」だった韓国人(在日韓国人を含む)の今日までの裁判の結果は表7のようである。これによれば、韓国人が戦後補償を訴えた総件数は27件にも達する。しかしその殆どが敗訴に終り、僅かに2件和解、1件一部容認となっている。
このような結果になったのは、韓国政府にも責任があるが、日本政府が韓国人戦争被害者に対して謝罪と補償の意志を欠いていたことにも重大な戦後責任がある。しかし『新しい歴史教科書』の筆者には、朝鮮に対する戦前の加害責任に対しても、加害を償うべき戦後責任に対しても関心がない。残念である。
表7 強制動員された韓国人労働者・軍人・軍属・
従軍慰安婦の戦後補償裁判の結果
2010年4月29日現在
裁判の結果 件 数
最高裁で棄却 23
高裁で棄却 1
最高裁で和解 1
高裁で和解 1
最高裁で一部容認 1
合      計 27
【注】新谷ちか子、有光健作成「戦争・戦後補償裁判一覧表」(2001.1.8現在)を基礎にして作成。

(5)東京裁判についての「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学校歴史教科書の内容分析

白表紙本の検討
「新しい歴史教育を考える会」のアジア・太平洋戦争に対する見方は平成12年(2000年)の検定用白表紙本に最もはっきり表れているので、まずこの白表紙本を検討する。
白表紙本は戦争について次のように断言する。
「戦争は悲劇である。しかし、戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正という話ではない。国と国とが国益のぶつかりあいの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである。」
このような見解の背後には、この教科書の著者たちのGHQの言論政策や東京裁判に対する不満がある。
GHQの言論政策については次のように書かれている。
「GHQは徹底した言論の検閲を開始した。それは日本の戦時中よりもきびしいもので、ラジオ、新聞、雑誌すべてにわたって事前検閲が実施され、日本の戦争の正当性を主張することは禁じられた。また、広島と長崎に落とされた原爆の悲惨さについては、戦後7年間公表を禁止され、日本国民に知らされることがなかった。“大東亜戦争”という用語は使用を禁じられ、“太平洋戦争”に改めさせられた。その上でも戦勝国だけに自由や人道があったとする宣伝が行われた。」
「新しい歴史教育を考える会」は、この白表本でも、検定に合格した諸教科書でも「大東亜戦争」という呼称を使った。白表紙本では「日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後、アメリカ側はこれを太平洋戦争と呼ばせた)。日本の戦争目的は、自存自衛とアジアの欧米からの解放し、そして“大東亜共栄圏”を建設することであると宣言した」と記した。同会は、この名称に、日本のいう戦争目的の正当性があると考えるので、この名称に固執するのである。しかし、朝鮮や台湾を植民地として支配し、また満州に日本の傀儡国家を作って事実上植民地として支配しながら、アジアの欧米からの解放といっても、意味をなさない。
東京裁判については中学校歴史教科書としてはきわめて長文で次のように書かれている。
「   極東国際軍事裁判 
裁判の是非 占領軍は、1946年(昭和21)年から翌年にかけ、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開始し、日本の戦争中の指導的な軍人・政治家を裁判にかけた。
裁判官は全員、戦勝国から選ばれ、中立国や敗戦国の者は一人もいなかった。証拠調べも日本の弁護側の者は次々と却下され、検察側のものは真偽が疑わしくとも採用された、しかもこの裁判には偽証罪(裁判所で証人が故意にうその証言をした場合に罰する規定)もなかった。この裁判は、国際法上の正当性のないとの説も有力である。
日本側の弁護人をつとめたアメリカ人弁護士ブレイクニーは“戦争による殺人が犯罪になるのなら、なぜ原爆を投下した者にそれを裁く権利があるのか”と裁判の不当性を主張したが、その途端、同時通訳を打ち切られ、この発言は日本語版の速記録にはのらなかった。
このようにして、勝訴が敗者を一方的に裁いた結果、東条英機元首相ら7名が絞首刑となった。
東京裁判の裁判官で唯一、国際法の専門家だったインドのラダ・ビノード・パール判事は、この裁判は法律的外貌をまとっているが、本質的には報復のためのものであると非難し、被告全員の無罪を主張する判決を書いた。しかしGHQは、パール判決の公表も、東京裁判に対するいっさいの批判も禁じた。
南京事件 この東京裁判法廷は、日本軍が1937(昭和12)年の南京攻略戦において、中国民衆20万人以上も殺害したと認定した。
しかし当時の資料によると、そのときの南京の人口は20万人で、しかも日本軍の攻略の1か月後には、25万人に増えている。
そのほかにもこの事件の疑問点は多く、今も論争が続いている。戦争中だから、何がしの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プロク゜ラム 東京裁判と並行して、GHQは戦争に関する罪悪感を徹底して日本人の心にうえつけるための宣伝計画、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム 
(戦争犯罪の宣伝計画)を実行した。新聞、雑誌、ラジオ、映画とあらゆるメディアを使い日本の戦争が不当 
なもので、日本人は残虐なことをした、と強調したのである。それは東京裁判で提出された真偽の疑わしい話が多かった。」
東京裁判では、アメリカが行った広島・長崎への原爆投下や東京を始めとする日本の諸都市に対する無差別爆撃は取り上げられず、勝者の裁判であったことを否認する研究者はいない。しかしアジア・太平洋戦争は中国に対する侵略戦争の進展の結果、日本はアメリカと対立して開戦に至ったのであるから、東京裁判が勝者の裁判だからといって、中国に対する戦争責任、またアジア・太平洋戦争の遂行のために朝鮮、台湾の植民地住民に対して人権を無視した戦時動員を行った植民地支配責任を否認することはできない。だが、この教科書は東京裁判が勝者の裁判であるということのみを強調して、日本のアジアに対する戦争責任や植民地支配責任をきちんと問うことをしない。
南京虐殺の人数に関しては論争があるところであり、大虐殺であっただけにその虐殺数を確定することは困難であろう。しかし南京虐殺は諸外国に知れわたり、陸軍当局も以後神経を使わざるを得なかったのである。すでに述べたように、陸軍は1938年10月に漢口占領に際していち早く慰安所を設置した。それは南京虐殺のようなことが起こり、列国から非難されることを避けようとしたからである。元漢口兵站司令部の軍医大尉だった長沢健一はその時の軍の苦慮を次のように記した。
「昭和十三年十月、漢口攻略が切迫すると、中支那派遣軍首脳は、南京事件再発防止に苦悩した。前年十二月の南京陥落時、城内になだれこんだ日本軍将兵が敵籠城軍、市民に対して虐殺・暴行・略奪などの非違行為を行なっていたからである。このニュースは当時南京に駐在した英国マンチェスターガーディアン紙の特派員チェンバレンほか各国新聞社特派員によって打電され全世界の非難を浴び、帝国陸軍の威信は地に堕ちていた。」(長沢健一『漢口慰安所』図書出版社、1983年、39頁)
そこでは派遣軍首脳は10月24日に「武漢三鎮進入命令」を下令するとともに「武漢三鎮進入要領」中に参謀総長の指示・注意事項も加えられ、第一線部隊と共に憲兵を入場させ、外国権益を尊重し、残留市民を避難区に集めて、ここには軍隊を入れないことなどを細かく注意した(長沢健一、前掲書、40頁)
派遣軍首脳は大虐殺を繰り返さないように傘下兵士に対して次のような注意を布告した。
「各種不法行為、特に略奪、放火、強姦等の絶無を期するを要す。皇軍の武漢侵入に方(あた)りては、其一挙一動に世界人士の耳目集注すべし。正に皇威を宣揚し皇軍の真姿を理解せしむべき絶好の時機なり。然れども一方一人の過誤失態は全軍の名に於て喧伝せらるべきを以って其進止は特に一段の戒慎を加うべし。若しそれ前途の非違を敢えてするものあらば、皇軍の名誉の為寸毫の仮借なく臨むに厳罰を以てすべし」(長沢健一、前掲書、43頁) 
そして漢口兵站司令部設置のために27日に到着早々に木村惣三郎少佐に対して第11軍村中先遣参謀は単独宿舎と慰安所の設立の準備を指示したのも非違行為対策の一環だった。この点に関して長沢健一は次のように説明する。
「前記した武漢三鎮進入要領のうちの軍参謀長注意事項につづいて“既往の経験に徴するに、各種非行は軍隊の緊張せる進入直後の時期よりも寧ろ若干日を経過したる後に於て発生の機会多かるべきを以て時日の経過と共に監督を緩めざるを要す”と述べているように、激しい戦闘が終わってしばらくたつと、精神的に解放された兵士らは、程度の差はあれ性的飢餓を感じるであろう。現地婦女子は無防備であり無抵抗である。そこに発生する暴行事件に対する防波堤として、慰安所の設置も急がれた。」(長沢健一、前掲書、43頁)
これからみても、南京での日本軍兵士の暴行や強姦がすさまじかったことが想像できる。東京裁判が勝者の裁判に違いないが、こうした日本軍の侵略の実態を無視することはできない。それなのに東京裁判が勝者の裁判であることを理由にして日本の中国侵略戦争や、戦争の円滑化のために女性を「従軍慰安婦」にした戦争責任を無視しようとするところに「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の問題点がある。 

検定合格教科書の検討
以下、検定に合格した『新しい歴史教科書』中の東京裁判の描き方を検討してみる。

②平成13(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』
極東国際軍事裁判平和に対する罪 占領軍は日本の陸海軍を解体し、1946(昭和21)年5月から3年半にわたって極東国際軍事裁判所を開廷し、戦争中の指導的な軍人や政治家を「平和に対する罪」を犯した戦争犯罪人(戦犯)であるとしいて裁判にかけた(略して東京裁判)。彼らはすべてが有罪と宣告され、東条英機以下7人が絞首刑に処せられた。 この裁判は、日本が九か国条約や不戦条約に違反したということを根拠にしたが、これらの条約には、それに違反した国家の指導者を、このような形で裁判にかけることができるという定めはなかった。 また、「平和に対する罪」は、自衛戦争ではない戦争を開始することを罰するものであったが、こうした罪で国家の指導者を罰することも、それまでの国際法の歴史ではなかった。さらに、裁判官はすべて戦勝国から選ばれ、裁判の審理でも、検察側のあげる証拠の多くがそのまま採用されるのに対し、弁護側の申請する証拠調べは却下されることが多かった。東京裁判で唯一国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は、この裁判は国際法上の根拠を欠くとして、被告の無罪を主張した。しかし、GHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、その他、いっさいの裁判への批判は許さなかった。 今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もあるが、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見もある。 この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争中に南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態について資料上の疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。戦争への罪悪感 GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通して、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響した。  
③平成17(2005)年3月合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版
東京裁判について考える●国際法から見た東京裁判● 東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦犯として裁かれた戦争中の指導者全員に有罪が宣告され、東条英機首相以下7人が絞首刑になった。この裁判で、被告は「平和に対する罪」をおかしたとされた。これは自衛戦争でない戦争を開始することを罪とするものだったが、こうした罪で国家の指導者を罰することは、それまでの国際法の歴史にはなかった。東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、この裁判は国際法上の根拠を欠いているとして、被告全員の無罪を主張した。しかし、GHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、その他、いっさいの裁判への批判は許さなかった。東京裁判については、国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日ではその批評かが定まっていない。●戦争への罪悪感●GHQは、占領直後から、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対する厳しい検閲を行った。また、日本の戦争がいかに不当なものであったかを、マスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響をあたえた。
④平成21(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』
◆歴史の両側◆ 東京裁判 ■国際法から見た東京裁判  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦争犯罪人として裁かれた戦争中の指導者全員に有罪が宣告され、東条英機首相以下7人が絞首刑になった。この裁判で、被告は「平和に対する罪」をおかしたとされた。これは、自衛戦争でない戦争を開始することを罪とするものだったが、こうした罪で国家の指導者を罰することは、それまでの国際法の歴史にはなかった。その行為を禁ずる法律がなかった時点でのできごとを、あとからつくった法律で裁くことはできない、というのも、それまでの世界の法律学の一致した理解であった。東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、この裁判は国際法上の根拠を欠いているとして、被告全員の無罪を主張した。しかし、GHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、その他、いっさいの批判は許さなかった。東京裁判については、国際法上の正当性を疑う見解と、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日ではその批評が定まっていない。■将兵への戦争犯罪裁判 国家指導者たちとは別に連合国側は日本の内外で「連合国側の将兵や民間人を違法に処刑したり虐待した」という容疑で数千名におよぶ日本軍将兵を裁判にかけ、971名を銃殺や絞首刑にした。その中には不十分な証拠や事実審理で判決を受けた例もあるといわれ、さらに遺族が日本の社会で差別に苦しめられたこともあった。■GHQの思想政策GHQは、占領直後から、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対する厳しい検閲を行った。また、戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国は正義であると、マスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響をあたえた。
検定に合格した『新しい歴史教科書』には「戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正ということはない」といって、日本の対アジア侵略戦争を棚上げした白表紙本の露骨な表現は弱められた。この露骨な表現は、おそらく検定で削除を求められたのであろう。しかし②平成13(2001)年4月検定合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』でも、③平成17(2005)年3月合格、扶桑社版『新しい歴史教科書』改訂版でも、GHQは「占領直後から、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、日本の戦争がいかに不当なものであったかを、マスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響をあたえた。」と記された。そして、④平成21(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』ではGHQは、「戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国は正義であると、マスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響をあたえた。」と、表現は強められ、白表紙本で『戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正という話ではない」と白表紙で述べた見解を暗示した。
④平成21(2009)年4月検定合格、自由社版『新編 新しい歴史教科書』では、新しく「将兵への戦争犯罪裁判」という項目を設けられた。これは通常いうところの「BC級戦犯裁判」、すなわち東条たちの

表7 BC級戦犯容疑で起訴された人数
起 訴 理 由 被起訴人数
俘虜の殺人、虐待、虐待致死抑留者の殺人、虐待、虐待致死非戦闘員の殺人、虐待、虐待致死、不当逮捕拘禁俘虜への救恤品横領作戦に直截関係する軍事作業強制死体遺棄、冒涜、埋葬妨害など人肉食売春強制、婦女誘拐強姦不法軍法会議処刑休戦協定違反財物略取、破壊、償却、償却、物資強制徴発労務強制、労工強制徴用、強制徴兵民衆圧迫、民衆追放など思想麻痺、毒化、奴隷化アヘン売買賭博場開設毒ガス使用無防備地区爆撃主権潜奪、内政破壊、経済霍乱など侵略戦争助長 34132144389715929229361431313450441429203111328
起訴された総人数 5700
【出典】林博史『BC級戦犯』(岩波新書、2005年)、64頁、表2-2
起訴事実別件数による。原典は法務大臣官房法制調査部『戦犯裁判概史要』1973年。
1人の人が複数の容疑で起訴されている。
A級戦犯(主要戦犯)と違って、通例の戦争犯罪人の裁判を指している。この教科書には、この裁判の「その中には不十分な証拠や事実審理で判決を受けた例もあるといわれ…」と記されている。こうした面があったことは私も否定しない。しかしそれだけを言ったのみで、どのような容疑で起訴されたかを見なければ、この裁判の歴史的意味は判らない。表7によれば、この裁判で起訴された人数を見ると、俘虜の殺人・虐待・虐待致死や非戦闘員の殺人・虐待・虐待致死・不当逮捕拘禁の容疑で起訴された例が圧倒的に多い。自国の兵士に対してすら投降を禁じて「玉砕」を強いた日本軍は、ましてや他国人の捕虜や非戦闘員に対し非人道的な処遇をしてしまったのである。誤判があったとはいえ、このような点を見落としてはなるまい。

Ⅲ む す び

「新しい歴史教育をつくる会」が言う自虐史観とは何か
1997年1月30日の「新しい歴史教育をつくる会」の設立総会の際に発表された「“新しい歴史教科書をつくる会”趣意書」には次のようことが書かれている。
「戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くあつかわれています。冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。世界にこのような歴史教育を行っている国はありません。」(前掲『「自虐史観」の病理』304頁)
「新しい歴史教育をつくる会」の中心人物である藤岡信勝氏は1996年6月に検定に合格した7社の中学校歴史教科書に「従軍慰安婦」の記述が登場した原因について次のような見解を表明した。
「私はこれは三つの敵意が合成して書かれた歴史であると考えている。
一つ目は、旧社会主義国・ソ連の日本に向けられた敵意であり、コミンテル史観といわれるものだ。これは、“明治維新は半封建的な、歪んだ改革であり、その結果天皇制という専制支配ができた、この天皇制を潰さなければいけない”という、特定の政治目的のために作られた歴史観である。
もう一つは、「日本は大東亜戦争の時期に一貫して侵略の計画を巡らし、世界征服の野望を実現するために戦争を始めた、これを懲らしめたのが正義の味方・連合国である」とするアメリカはじめ西欧列強の日本に対する敵意。この見方は東京裁判で固定化されたのでこれを東京裁判史観と呼んでいる。これら二つの敵意の旗振り役が日本人自身であることが最も問題だ。
そして、最後が、中国と朝鮮の日本に対する敵意だ。」(「歴史教科書問題のこれまでとこれから-私はなぜ立ち上がったか」、前掲『「自虐史観」の病理』297~298頁)
国際交流が進んだ現代に外国の思想が日本人の歴史観に影響があるのは当然で、私もこれを否定しようとは思わない。しかし日本人が外国の思想や歴史観を受け入れるには、日本人の内側に内在的要因があるからである。そのことを無視してはならない。

アジア・太平洋戦争の時期にも日本民衆に生じていた反戦・平和志向
実を言えば、アジア・太平洋戦争の時期でさえも、戦争に動員して肉親を戦死させた国家や天皇に対する戦没者遺族の怨嗟の声や、日本の侵略戦争の犠牲になった中国人の悲しみ対する日本人戦没者遺族の共感が生じていたのである。その実例を以下挙げよう。
靖国神社の招魂式の際に「人殺し」「我が子を帰せ」と叫んだ戦没者遺族
アジア・太平洋戦争の時期の靖国神社臨時大祭の招魂式の際に、参列した遺族から嗚咽とともに「人殺し」「我が子を帰せ」などという悲痛な叫びもあり、実況放送をするアナウンサーはその声がマイクに入らぬように苦心したという(村上重良『靖国神社』岩波ブックレット、1986年、29頁)。靖国神社は戦没者を天皇や国家に生命を捧げた英霊として顕彰し、それによって天皇や国家に対する民衆の忠誠心を確保しようとするものだが、肉親を戦争に動員して戦死に追いこんだ天皇や国家を糾弾する遺族もいたのである。
日の丸は戦死した2人の息子の血で赤いと歌った母親
アジア・太平洋戦争で2人の息子を失った山形県の木村迪夫の祖母は、次のような歌をつくって歌った。
「にほんのひのまる
なだであかい
かえらぬ
おらがむすこの ちであかい

ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうをみるにつけ
うづのわかしゅうはいまごろは
さいのかわらでこいしつみ」
木村の回想によると、「祖母は七十四歳でこの世を終えるまで、二人の息子を戦争で失った悲しみを、うたに託してうたっていた。文盲だった祖母は、頭の中で詞を書き、御詠歌の節にあわせて歌っていた。蚕の世話をしながら、リュウマチスで曲がらぬ左脚をかばいながら、重い蚕座を上げ下げし、うたに力を代え、はげみに代えていった。」(木村迪夫「歴史のやみに眼をこらして」、山形県遺族会編・刊『遥かなる足あと―四十年たった戦没者家族の手記―』1983年、431~432頁)
「天皇の所へ行って、子供を返せ!と言ってくる」と泣いた戦没者の母 
群馬県藤岡市の鎌田丈夫は、1944年5月17日に入隊し、翌年5月17日にフィリピンのルソン島で戦死した。彼の母は「自分の手で亡くした子はいない! 天皇の所へいって子供を返せ!と言ってくる」と泣いて、家族を困らせた(鎌田文子「兄を偲んで」。藤岡市遺族の会六十周年記念事業委員会『永遠の平和を―藤岡市遺族の会六十周年記念』藤岡市遺族の会、2006年、10~11頁)
天皇のための戦死という意味づけを拒否した戦没者の母
天皇のための名誉の戦死という意味づけを真っ向から拒否した戦没者の母もいた。これは静岡県に育った渡辺清が彼の母から聞いた話である。
日中戦争が始まった翌年の1938年のことである。彼の家の隣の女性が総領息子が戦没して悲嘆にくれる母親を慰めて「……なあ○○さん、おまはんも心辛いいずらど、これも天皇陛下のためと思って気をしっかり持ってくんなよ」と言うと、その母親は顔を真っ赤にして次のように言った。
「ふん、天皇陛下だって、わしゃもうそんなごたくききたくねえ、毛虫をみてもおっかながるような気のやさしい○○をむりやりに戦地に引っぱり出して、三年間も弾の下で数々おっかない目にあわした挙句、殺しちまったじゃにゃきあ、なにが天皇陛下だい。それとも、天皇陛下の子は一人でも戦地に行っているっていうのかい、五人もいたって誰もいっちゃいにゃあずら、そんだったら自分がまっ先に出て行きゃいいだに、そうすりや、人の子が死ぬっていうことが、どんなに辛らりゃことかわかるから……それをどうだい、自分は後ろかーでのうのうとしてえて、人の子ばっかり行け、行けってひっぱり出して……、わしゃもうこうなったら天皇陛下もくそもありゃしにゃ……」(渡辺清『私の天皇観』辺境社、1981年、60頁)
「亡き子を返せ 此の手に」と歌った戦没者の母
小谷和子の次男小谷博は1944年12月19日に乗船していた航空母艦が台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受けて沈没したために戦死した。長男小谷啓介は1945年5月16日にビルマで戦死した。和子は2人の息子の死を悲しんで次のような短歌をしたためた。
「これに増す 悲しきことの何かあらん
亡き子を返せ 此の手に」
(古川佳子「これに増す 悲しきことの何かあらん」、田中伸尚編著『これに増す悲しきことの何かあらん―靖国神社合祀拒否・大阪判決の射程―』七つ森書館、2009年、139頁)
「亡き子を返せ」と要求した相手は天皇か、国家であろう。
「子供をと奪られて何が名誉だ」と言った兵士の母
徳島県の溜口麻一の母は、多くの母親と同じく彼の満蒙開拓義勇軍への応募に反対した。その理由は、当時、兵隊に出した家は名誉だとたたえられ、1人兵士に出すと日の丸が1本門口に立ち、彼の家には後に3本日の丸が翻った。しかし彼の母は「何が名誉だ。何がほまれだ。自分の腹を痛めた子どもを奪られないからわからないのだ。自分の子どもを奪られてみろ」と、彼に何度も言った(陳野守正『先生、わすれないで!-「満州」に送られた子どもたち―』梨の木舎、1988年、15頁)。
だが、1人の息子が戦死した時、この母にしても、名誉の家だから悲しみを外に出せず、家の中で泣いた(陳野前掲書、15頁)。
戦没者遺族は彼女のみならず、みな人前で肉親の戦死を悲しんで泣くことを禁じられた。それは国家が戦死は天皇のための名誉の死であるという理由で遺族に泣くことを禁じたから、遺族は人前では泣けなかったのである。1941年に刊行された靖国神社事務所『靖国神社のお話』には、「皆様の良人であり父である方を、又兄たり弟たる方を、国家の爲に失われたとて、それを普通の死として悲しんではなりませぬ」と記されている(梁裕河著、佐藤久訳『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島-』平凡社、2006年、132頁より重引)。
南京事件で虐殺された中国人の遺族の悲しみに想いを寄せた日本人戦没者の妻
夫の戦死に対する悲しみを通じて、南京事件で虐殺された中国人の遺族の悲しみを想像しえた日本人戦没者の妻もいた。その妻の長男である宮城県の野崎渡の回想によると、次のようである。わかりやすくするために、原文とは違った順序で引用する。
「私の父、野崎庄助(陸軍少尉―引用者注)は一九三八(昭和十三)年五月八日、華中、徐州南方一三km、安徽省の蒙城という所で戦死した。翌年秋交代帰還した従兵の方(名前を思い出せないので仮にAさんと呼ぶ)の話によれば、午後の五時頃、右第一線の小隊長として“突撃進め”の号令をかけて立上がりは走り出した刹那、城壁に拠る中国兵が発射した狙撃弾が父の腹部に右から左に貫通した。どんなに痛かったことだろうか。夜一〇時頃麦畑の中で息を引き取ったという。」(野崎渡「父の戦死・母の死・南京事件」、宮城県平和遺族会編・刊『戦火の中の青春―戦没者遺族の手記』ひかり書房、1990年、7頁)
「母はこのAさんから父の戦死と共に、次のような驚くべき事実をきかされたのである。一泊してAさんが帰ったあと母は私にそれを聞かせてくれた。
“南京ではあまりに沢山の捕虜を捕まえ、始末に困った末、軍の命令で揚子江につながるクリークの傍らで小銃や機関銃で全部殺してしまった。中には日本刀で首を打ち落したり、銃剣を付けた剣付銃で度胸試しに刺突させたりもした。中国兵もただ殺されておらず、勇気も腕力もある者がこれをひったくり、若い見習士官が逆に殺されたりした。その中国兵はその直後、よってたかってなぶり殺された。それ等の中国兵の屍体は一たん水底に沈むが腐敗がすすむにつれてガスがたまり、浮き上がって来る。その屍体で水面が覆われ、見えなくなる程だった。”
というのである。そして母は、それにつけ加えて、“いくら戦争だといっても、ひどいことをするもんだね”と、誰にともなくつぶやいたのを思い出す。」(野崎渡前掲論稿、11頁) 
「(父の―引用者注)戦地からの第一信には“南京占領に参加、捕虜一七六七名を得大勝利云々”の文字が見える」(野崎渡前掲論稿、11頁) 
「その母が世ある日私を仏壇の前に呼び寄せて坐らせた。前記の父の従兵Aさんの来訪から半年過ぎた五月の父の命日あたりだったと思う。当時、私はようやく中学二年。母よりも体も大きくなっていた。その私に母は次のように語りかけた。
“渡さん、あんたどう思うか、今からお母さんの話す事をよく聞いて頂戴”と言って話し出したのが“捕虜皆殺し”のことである。まず母は“あんたお父さんは死んで地獄にいっているか?極楽にいっているか、どっちだと思う?”と言う。私はいぶかしく思いながらも言下に“それは当然極楽でしょう。だってお父さんは御国のために戦って立派に戦死したんだもの”と答えた。その私を母はまじまじ見つめながら“そう思うかい。お母さんは違う。殺された中国人にも、私たちと同じく奥さんや子どもいれば、親兄弟もいる筈だ。その遺族は何と思っているだろうか?。おそらくお父さんを失った私達と同じように、嘆き悲しんでいるに違いない。お釈迦様は人を殺すことは一番悪いことだと教えている。お母さんもそう思う。だからお父さんは地獄にいかなければならない、地獄で苦しむことで、お父さんは罪が許されるのだとお母さんは思うんだよ。”と言ったのである。」(野崎渡前掲論稿、12頁)
戦時中であっても、自己の悲しみを通じて南京事件で虐殺された中国兵士捕虜の遺族の悲しみに想いを寄せた日本人戦没者遺族の妻もいたのである。今日も南京大虐殺を否定しようと躍起になっている日本人の神経は異常ではないだろうか。

戦後にアジア民衆の戦争犠牲者に想いを寄せるようになった日本人戦没者遺族たちの思想的成長
戦時中でも中国人戦死者の遺族の悲しみに想いを寄せた日本人戦没者遺族がいたのだから、戦後ともなれば中国人戦死者の遺族の悲しみに想いを寄せた日本人戦没者遺族はもっと増えた。
中国で戦病死した夫に代わって中国へ謝罪の旅に出かけた小栗竹子
小栗竹子はそうした日本人戦没者の遺族の1人だった。彼女の夫は1944年に中国で戦病死した。彼女は1963年8月15日に日比谷公会堂で開催された政府主催の全国戦没者追悼式に参加した。しかし彼女はこの追悼式の際の天皇の「お言葉」や、首相の「式辞」、さらには遺族代表の「追悼の辞」すべてに違和感を抱いた。それらは「あなたがたの尊い犠牲の上に今日の隆盛がある」と戦没者を顕彰したからである。彼女は「戦没者の犠牲と今日の隆盛とを、そう短絡的に結びつけてもらいたくないのです。なにも戦没者が死んだから今日の日本の隆盛があったわけではありません」という(小栗竹子『愛別離苦―靖国の妻の歩み』径書房、1995年、331頁)。
「戦死者の犠牲の上に今日の日本の平和と隆盛がある」と戦没者を顕彰するこの全国船没者追悼式の決まり文句は、戦争が敗戦に終わり、かつ侵略戦争だったことが判明するにつれて肉親の戦死が無意味な死ではなかったかという遺族の疑惑や無念の気持ちを宥めるために戦没者を顕彰して、遺族をはじめとする民衆から国家に対する忠誠心を引き出すためにつくりだされたものだった。しかし彼女は歴史の現実をしかと見つめていたから、この決まり文句に惑わされなかった。すなわち、「私は遺族の一人として、あの戦争が如何に愚劣で、それに払わされた私たちの犠牲の如何に大きく無駄なものであったかを、肝に銘じて忘れません」と言い(小栗竹子、前掲書、332頁)、戦没者は「侵略行為をさせられた上に、無意味な死を強要された」ものと認識した。(小栗竹子、前掲書、340頁)。この考えは息子が勧めた遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史』(岩波新書、1955年)を読んで得た認識が大きく作用した結果だった(小栗竹子、前掲書、332頁)。
しかし夫の死が強要された無意味な死と認識するのはつらいことである。彼女自身も「私が長い間、靖国神社とあなたを結びつけて考えてきたのは、最愛のあなたの死を、たとえ世俗的なものにせよ、何とか意義を認めないではいられなかった、私の無念さの故だったのでしょう」と反省した(小栗竹子、前掲書、341頁)。彼女も夫の戦没による悲しみを戦没者を天皇と国家のために生命を捧げた名誉の戦死者として顕彰する靖国神社の参拝で癒していた時期もあったのである。夫の死が強要された無意味な死と認識するのはつらいことである。しかし彼女は歴史の現実を直視して、そのつらさを越えていった。小竹は、「自分の心をごまかそうとは思わなくなりました。これからはありのままのあなたを、ありのままの戦争というものを、はっきり見極めていこうと思っているからです」と言い切った(小栗竹子、前掲書、341頁)。
彼女は1985年に夫がいた中国安徽省下塘州に謝罪の旅に出た。それは夫にかわって中国人に愛別離苦の業苦を負わせたことの謝罪のためだった。
軍靴にて君踏みし跡をおいつま老妻のわれ訪ねつ 赦し請うべく (小栗竹子、前掲書、346頁)
彼女は次のように認識したのである。
「彼の死は戦争によって強いられた、全く無意味な死だったのです。そして私の“愛別離苦”は決して私一個人のものではありません。しかも日本の国の中だけのものではありません。その侵略によって、他国の多くの人びとに無意味な死を強制し、その遺家族に、生涯“愛別離苦” の業苦を負わせてきた、あの戦争とは一体なんだったのでしょう。私はこれから生涯問い続けたいと思います」(小栗竹子、前掲書、345頁)。 
日本人遺族が受けた2つの衝撃を告白した平和遺族会全国連絡会の結成宣言
歴史の現実を直視して、そのつらさを越え、アジアの戦争犠牲者に想いを寄せたのは、彼女だけではなかった。
1986年7月7日に平和遺族会全国連絡会の結成に当って発表された同会の結成宣言は、遺族がそれまでに直面した2つの衝撃を告白した。
第1の衝撃は肉親の戦死だった。
「私たちは、愛する肉親をアジア・太平洋戦争地域の戦場で失い、その悲しみを秘めて戦後を生きてきました。愛する肉親は再びなつかしい故郷に帰ってくることはなかったのです。帰って来ても、弱り果てた肉体は死を迎えることになりました。」
第2の衝撃は、戦争がアジアに対する侵略戦争であり、肉親の死が無意味な死であることを知ったことから受けた衝撃だった。
「私たちの肉親を奪ったあの戦争は、アジアの国々の平和をおびやかし、民衆の生活を破壊し、二〇〇〇万を上回る生命を奪った侵略戦争だったのです。私たちは、息子、夫、兄弟、父の死を“意義ある死”として、自己自身を慰めることもできなかったのです。」
それは第2の衝撃のつらさを乗り越えて進む決意を表明したものである。
石川ふさえ
石川ふさえも小竹と同様な人である。彼女の夫は海軍に召集されて、1944年10月1日に小笠原諸島方面で戦死した。それから五十年たって彼女は次のように言う。
「今年で主人が戦死して五十年になります。この五十年は何だったのでしょうか。二十年は病気と戦い、身を粉にして働き続け、現在も苦労はつきません。私に幸福はないのかと思うのは、私一人ではないと思います。アジアの方々はどんなでしょうと思うと目頭が熱くなります。日本人がアジアの方々にしたことを申し訳なく恥じいらずにいられません。」(平和遺族会全国連絡会『戦争を語りつたえるために』梨の木舎、1993年、98~99頁)
失明軍人を通じて中国の戦場での日本人兵士の残虐行為を知った大内さぶ三ろう良の戦争認識
大内三良の3人の兄弟は皆敗戦を迎えた後に戦死したことが判明した。母もそれからまもなく亡くなった。大内は視覚障害者である。したがって「障害のある子を残して、どんな思いで死んでいったのか。あまりにあわれで、今でも思い出すと泣けてきてしまう」と言う(平和遺族会全国連絡会、前掲書、234頁) 
しかし彼は自己の家族の不幸のみを嘆くことはせずに、その他の日本人戦没者遺族からさらに日本の侵略を受けたアジアの犠牲者にも目を配って次のように言う。
「しかし、こうした不幸な運命に見舞われたのは、わが家ばかりではない。三百万といわれる戦争犠牲者、どれだけの人が我家と同然の不幸に出会ったことだろう。一人息子を戦争に奪われ、気がふれた母親が遺骨を両手にかかえて雨の中をはだしでわが子の名を呼びながら、さまよっていたという。戦争とはそんなものだ。加害国日本にしてしかりとせば、土足で踏みこんできた侵略者に暴虐の限りをつくされた中国、アジア諸国では、われわれ日本人の何層倍もの人たちが、こうした苦しみや悲しみを味わったことであろう。」(平和遺族会全国連絡会、前掲書、235頁) 
彼は日中戦争から太平洋戦争にかけての時期に盲学校の生徒だった。そこには戦争で失明した兵士の職業訓練のための「失明軍人教育所」が設けられた。大内は失明兵士から中国の戦場での話を聞いた。「中国大陸の広大さや住民との交流の話をする人。戦争の悲惨な行為を手柄のように話す人、そして慰安婦と遊んだことをわい談めかして話す人など、さまざまであった」(平和遺族会全国連絡会、前掲書、235頁)。
大内はこれらの話を聞いて「不思議に思ったことは、残酷な戦争行為に参加しながら、だれ一人としてそれを罪悪として認識していなかったことである」と言う(平和遺族会全国連絡会、前掲書、235頁)。
私も1943年、埼玉県入間郡所沢町立所沢商業学校2年生の時、軍事教練の教員であった予備役陸軍少尉が「我が軍は支那事変で毒ガスを使っておる。だが奴等には毒ガスを使ってかまわないのだ」と言った。当時、皇国少年だった私も、これを聞いてドキッとした。だからこのことは今も忘れていない。「奴等には毒ガスを使ってかまわない」という日本人兵士の中国人蔑視が、日常茶飯事のように行われた中国人農民からの食糧略奪、中国人女性に対する強姦、果ては南京虐殺を生み出したのであろう。大内はこのことを胸に刻んだので、自分の家族の悲しみを媒介にして、日中戦争下の中国人民衆の苦しみや悲しみを想像できたのである。

ま と め
以上述べてきたように、アジア・太平洋戦争中であっても、戦争のための兵力動員には心から賛成せず、ひそかにこれを怨嗟する戦没者遺族の女性たちがいたのである。しかも南京事件を知った戦没者の妻は、自己の悲しみを媒介にして日本軍に虐殺された中国兵捕虜の遺族の悲しみに想いを寄せた。
しかしそれらの民衆の思いは厳しい言論統制のために当時は地表に現われなかった。『新しい歴史教科書』では白表紙本でも、またその後の検定合格教科書でも、アジア太平洋戦争の時期に「このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った」と記されている。徹底した皇民化教育が行われた当時のことであるから、多くの国民はそうであって、上記のような思想的営みをした民衆は少数派であった。しかしこれを見落としてはならない。なぜならば、困難な条件の下で行われたそうした地下の民衆の思想的営みは、やがて地上に現われて花開くのである。すなわち、戦後に自由がまがりなりも得られ、アジアに対する侵略と植民地支配の実態が明らかになってくると、侵略を受けたアジアの民衆の苦しみや悲しみに想いを寄せる日本民衆の姿が地表に現われて増えてきた。肉親の戦死が侵略戦争に動員された結果の無意味な死だったという認識から生じた苦悩を越えて、反戦・反植民地支配とアジア民衆と連帯の志向が戦没者遺族からも生まれた。
昨年8月、関東大震災時に朝鮮人虐殺が行われた荒川河川敷に近い東京都墨田区八広の河畔に朝鮮人犠牲者追悼碑が、日本人が運営責任を担った団体によって建立された。この追悼碑の碑文には、朝鮮人を虐殺したのは「日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆」であることが明記された。ごく最近までの私の調査によれば、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件以後から八広の追悼碑建立までの間に日本人が建立した墓碑・追悼碑は9、日本人と在日朝鮮人が合同で建立して碑文は日本人が書いた追悼碑は3ある。これらの碑文には1つとして朝鮮人を殺害したのは日本人であることを明記したものは一つもなかったのである(この点については、今日になってはやや古い調査となってしまったが、2003年段階までの調査結果は前掲拙著に具体的に記載されている)。建立に参加した日本人は虐殺された朝鮮人を追悼しても、朝鮮人虐殺に日本人民衆までも加担した事実はつらくて書けなかったのであろう。しかし、日本人民衆が加害行為をした事実の認定を避けようとする自己自身との闘いの末に、事件以後86年目の昨年に朝鮮人虐殺者が「日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆」であることを明記した追悼碑が日本人によって建立されたのである。
だが、「新しい歴史教科書をつくる会」は、民衆もまた加担した戦前の日本の侵略や植民地支配の事実をつらくとも見つめ、そこに生じた自己自身の内面的葛藤の末に日本民衆の中に自生的に生まれた反戦・反植民地支配志向をコミンテルンや西欧列強、朝鮮・中国など、日本の外部の歴史観に左右された自虐の結果と罵倒し、日本の侵略と植民地支配の実態に眼を向けないのである。控訴人がこれを厳しく批判したのは、正常な神経を持つ人間としてごく当然なことである。控訴人の批判は言葉がきびしかったので、東京都教育委員会は余計反発したのかもしれない。しかし『新しい歴史教科書』や古賀都議会議員の発言に対する控訴人の批判に誤りがないことは、『新しい歴史教科書』に対する上述の私の分析で明らかになったはずである。すなわち、『新しい歴史教科書』では日本の侵略や植民地支配の実態の説明はきわめて不十分であり、性的差別を受ける女性や民族差別を受けるマイノリティに眼が向けられていない。しかし原判決は、その内容も吟味しないで設けた「公正、中立」という基準により、かつ『新しい歴史教科書』の内容も検討せず、『新しい歴史教科書』に対する控訴人の批判を客観性がない「誹謗」と認定してしまった。これでは原判決の判定こそ客観性がないといわざるを得ない。
原判決は、『新しい歴史教科書』に対する控訴人の批判が「客観性なく決めつけて、稚拙な表現で揶揄するもの」と判定したが、しかし控訴人は「ノム・ヒョン大統領への手紙」を資料として生徒たちに配布する以前に、『新しい歴史教科書』も含む日本のすべての歴史教科書に程度の差はあれ、日本の侵略や植民地支配の実態の記載が乏しい通弊があることを生徒にきちんと理解させていたのである。その証拠を挙げれば、2005年3月に行われた紙上討論「アジア・太平洋戦争を考える」に参加した旧2年A組のある生徒は「歴史の教科書には、中国・韓国の人たちに日本がしたことが軽く触れる程度にしか書かれていないことを、先生が教えてくれなければ、自分で書店に行って本や資料を買わない限り、侵略の内容が分からないことに驚きます」と記している(増田都子『たたかう!社会科教師』社会批評社、2008年、58頁)。控訴人の『新しい歴史教科書』に対する批判は「ノム・ヒョン大統領への手紙」で突然現われたものではない。原判決はこのことも理解していない。
歴史観の問題は対等な立場で議論すべきことである。にもかかわらず、被控訴人東京都教育委員会はその権限を濫用して控訴人に戒告処分から進んで分限免職処分を加えた。これは明らかに思想統制による思想・良心の侵害行為であり、思想・良心の侵害を禁ずる憲法第19条に違反する。しかし原判決は被控訴人の行為を容認してしまった。
以上指摘したようにも、原判決はその立論の根拠とする諸点を不用意にも検討・吟味せず判定を下した。本意見書は、控訴審は原判決が不用意にも検討・吟味しなかった立論の根拠を改めて丁寧に検討・吟味されることを要請してむすびとする。































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