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Thursday, July 12, 2012

Women ran through Showa era

東郷青児展 女性礼讃




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Women ran through Showa era
Masashi Asaoka

昭和を駆けた女性たち
朝岡昌史



はじめに

このコラムを書くにあたっては、主観が先走りしないようにし、事実をあるがままに書くということに心がけました。そのあかしとして人名、地名などは総て実名を使用させて頂きました。
それであればこそ戦中戦後のできごとについて、特定のイデオロギーで日本を一方的に断罪するトーンとはかなりのズレがあるのは当然です。
なお笠村田鶴さま、シスター渡辺の御両名から多くの資料の御提供とアドバイスを賜わったことを、ここに深くお礼申しあげます。


母と子の出発(後編の一)


神さまの計画は時として人間を振りまわす。
人も羨む大財閥の令嬢が、生家の倒産で一転社会のどん底へ。そこでやっと手にした新婚生活の幸せも、夫君の遭難死で無残に打ち砕かれる。その直後の出産。疲れ果てた田鶴夫人は重い産褥熱にかかり、母子ともども生死の境をさまようことになった。
40度以上の熱が続き、彼女の意識は朦朧として、どれだけの時間が経過したのかも分からない一時は15分おきの強心剤の注射や点滴、父君から二回にわたる輸血も受けた。こうした医師や看護婦たちの連日の努力によって漸く危機を脱することができたのだった。
子供は子供で母乳がもらえず急に粉乳に替わったため、これまた危険状態に陥った。入院中三回もお湯と冷水に浸けるショック療法を受けたことを後になって聞かされた。一日全部が粉乳では駄目と言われ、友の会の友人が毎日病院まで母乳を飲ませに来てくれた。

その頃、広東周辺に駐留していた日本軍が開戦と同時に香港作戦に動員され、治安が手薄になった市内は緊迫した空気に包まれていた。若し婦女子が強制引き揚げになった場合は、と問われて「どうせ動けぬ病人のこと、夫の最後の地で命を終えるのは本望です。このままにおらせて下さい」と夫人は即座に答えた。その頃病床で思うことは聖書のみ言葉だった。「神さまは真実な方です。あなたの力以上の試練にはお会わせにならない。あなたが試練に耐え、それに打ち克つ方法をともに備えて下さるであろう」明るい病室で静かに息づいていると、この聖句が実感として身に迫るのだった。

1月9日、一箇月の入院生活を終え、嬰児を抱いて父君の待つ官舎に帰った。齢27才だった。父君は、その児に美鈴(みすず)と名付けた。美鈴は日が経つにつれて粉乳に慣れ、家の風呂に入れても良いようになった。
昭和17年4月、夫人は帰国の途につく。しかし生後4箇月の人工栄養児を連れ長途の船旅となると大変だった。赤ちゃんになくてはならぬおむつ、哺乳びん等の7ツ道具に、着替えなどを入れると相当量の荷物になったが、当時は赤帽(運搬人夫)がいたのでこれだけの旅行が出来たのだろう。
船は11日目に神戸に着いた。一年振りに再会した両親、兄弟そして友の会の会員が傷心の田鶴さんを暖かく迎えてくれた。彼女は生まれた児も自分も死線を越えてここまで来たからには、新しい生命を神から戴いたものと強く受け留めた。そして戴いたものを神さまに返すのは難しいだろうが、こんな小さな自分でも必要とする人に捧げる生活をしょう、と決心したのである。


北京・古き良き時代(後編の二)


その年の6月、父君が北京の会社に就職が決まり、日本を旅立った。田鶴さんは鶴見の留守宅で母堂の看護と娘の養育に専念する。美鈴ちゃんは一年目の誕生日には掴まり歩きが出来るまでに成長し表情も知恵もいや増して可愛いさかりである。こうして夫俊輔氏の遭難からあわただしい一年が過ぎて行った。
昭和18年になるとミッドウェイ海戦、ガダルカナル島撤退などで戦局は日本の敗勢に傾き、内地では学童疎開が始まっていた。
こんな時、田鶴さんは妹の悦さんと入れ替わりに幼い娘を連れて再び父君のいる北京へ渡る。関釜連絡船で海峡を越え、釜山から特急「アジア号」に乗る。朝鮮半島の禿げ山を眺め、満州平野の広い広い高梁(こうりゃん)畑の中を二日二晩走り抜いて、深夜北京駅に到着した。
北京の空は抜けるように高く、青く美しい。夜になると満天に星が輝き、見上げる空には天の川が長く流れていた。父君の住居は故宮の東にあった。広東に比べれば北京は空気が乾燥していて住み易かった。街は昔の面影をそのまま残し、住人もおおらかで治安も良かった。汪精衛の傀儡政権が置かれていた、今から50余年前のことである。
市民生活を見るかぎり、戦争の影響は殆ど感じれず、抗日運動にも逢わなかった。物資も食料も豊かで、人々は昔のままに落ち着いた生活を送っていた。
家には三人の使用人が働いていた。日本語が全然判らない人たちだったから、田鶴さんは必死に北京語を覚えた。父君は現地人の生活に馴染む主義で、食事も彼らの作る家庭料理で満足していた。彼女にとつては中国の四季それぞれの、風俗・習慣・食物など見るもの、聞くものの全て好奇心の対象になった。
この時、北京では50人程の友の会会員によって「北京生活学校」が創立されていた。拡大する戦火の中で、貧しい階層の中国人の幸せを願う羽仁夫妻の願いと、日本国内の会員の祈りと資金が結集して創られた学校である。広い敷地の校内では、中国人の娘と日本の独身女性会員が寝食を共にして、相互に言語・工芸・料理などを学び両国の融和を計ろうと努めていた。食事は生徒が作るものを皆で食べていたが極めて質素だった。たまには日本食が懐かしかろうと、田鶴さんは五目寿司やおはぎ等を家で作って届けていた。
時は流れ人は変わる。しかし古い北京を懐かしむ日本人は田鶴さんの他にも大勢いるに違いない。
北京生活も一年経ち昭和19年になった。鶴見で静養していた母堂の容態が悪化し、彼女は看護のため帰国する。いつの間にか日本の社会はさま変わりしていた。八百屋、魚屋は店を閉め、品物が入荷した時だけ隣組毎に配給される建前になっていた。
サイパン玉砕後、アメリカの長距離爆撃機B-29による空襲が始まった。一家総がかりで防空壕を堀った。田舎に親戚のある人は家族疎開や荷物疎開に追われていた。しかし病人を抱えた渡辺家は動くことができない。


東京大空襲の惨劇(後編の三)


終戦の前年、昭和19年11月からB-29の空襲が本格的になった。毎晩のように不気味なサイレンが鳴り、寝る時も服のままゴロ寝する状態だった。母堂は「私のことはいいから皆は壕に入って」という、その気持がたまらなかった。
翌年1月、母堂逝去。57才だった。両親は仲の良い夫婦だったから故人はどんなにか、心細く夫が側にいて欲しいと願ったことだろう。しかし北京にいる父君はこの戦局で帰る術もない。
伯父がお寺の手配をしてくれた。住職は脚絆巻き、防空頭巾でやって来てリュックの中から袈裟を出して枕経を上げた。お棺が鉋(かんな)のかからない、リンゴ箱のような棺だったのには驚いた。何もかも欠乏の時代だった。
思えば毎晩の空襲で、寝たきりの母堂の安全はおぼつかず、家族の心配の種だったから、死別の悲しみより無事に最後を看取ることの出来た安堵の方が先に立っていた。戦争とはそんな非情なものである。
弟の学徒出陣が決まったので、最後に美味しいものを食べさせようと、田鶴さんは千葉に買い出しに行き、帰りに品川で艦載機の襲撃に遇ってしまった。電車から飛び降りて近くの壕へ転げ込む。グラマンが超低空で襲いかかって来た。バリバリと機銃掃射され、弾が近くの地面に跳ね返ってビュンビュン飛びまわる。全く生きた心地もなかった。

3月9日の夜半から始まった墨田・江東大空襲の時は、頭上を通過するB-29の数の多さに驚き 一晩中炎々と燃える東の空を眺めて夜を明かした。この夜B-29は東西5Km南北6Kmの外周に焼夷弾を落として人びとの退路を断ったうえ、その中に2,000トンもの焼夷弾をバラ撒いたのである。この結果一晩で焼死者10万人、 負傷者11万4千人、焼失家屋27万戸を出す大惨事となった。
これはアメリカが意識的に非戦員である民間人を殺戮するための空襲であった。彼等は同じ目的で日本の64の主要都市を無差別爆撃によって次々に焼き払った。その極めつきが広島、長崎の原爆である。
この戦争における日本の戦争犯罪を糾弾する自称ヒューマニストたちは、アメリカの戦争犯罪になぜ目をつぶるのか。それだけではない。日本人の残虐や淫猥さをことさらに強調し、無差別爆撃の惨劇は東京市民が侵略戦争に加担した当然の結果だと言い放ち、戦争犠牲者の心情を踏みにじって顧みない。そして亡き祖父や父の世代を断罪することによって、自分こそが正義で善良な平和の使者であることを気取るのである。今ではキリスト教までが、同胞の痛みを自分の痛みとして感じる心を失っている。

たまたま田鶴さんの従兄弟が本所のガス会社の工場長をしていて、戦火から無事に逃げられたかどうか心配していたところ、二日目に疲れ果てた姿で鶴見に現れたので皆は歓声を挙げて迎えた。一週間もすると、彼が工場の焼け跡を見に行くと言うので、田鶴さんも後学のためにと連れだって出掛けることになった。
電車は新橋でストップ。あとは歩くしかない。上野を過ぎる頃から、あたりに立ちこめる異様な臭気は人を焼く臭いである。一面の焼け跡には方々で身内の者が死者を焼く煙が立ち昇っていた。聞けば二、三日前までそのあたりには焼死体が重なり合っていたと言う。トラックが来るのを見れば山と積んだ黒焦げ死体だ。両腕を高く差し上げている形の人が多い。中にはこれが人間かと思うような炭化した塊もあった。その日は消防団が川の中から水ぶくれの死体を鳶口で引き上げていた。1週間経ってこのありさまだから当日のことを考えると身の毛がよだつ。
墨田公園に来ると長く深い穴が幾絛も掘ってあり、トラックが次々にやって来て満載した死体をその中に投げ込んでいた。埋め戻した穴の上には水を入れた茶碗が供えられていて、ひとしお哀れだった。
4月14日の夜、ついに川崎の番が来た。B-29の大編隊が超低空で頭上に迫って来る。ヒュウヒュウと風音がして炎の尾を引いた焼夷弾が雨のように降ってきた。その恐怖は言語に言い尽くせない。忽ち目の前が火の海となり、鼻をつくガソリンの異臭があたりを包みこんだ。
一晩で京浜工業地帯は全滅した。幸い渡辺家は山の手にあって焼失は免れたものの、生活の基盤を失った一家は家をたたみ、再び北京の父君の許に移る事を決める。人はこの無謀を訝るが、情報の全く無い時代の恐しさである。


引き揚げ婦女子の悲劇(後編の四)


痩身の田鶴さんのどこに、こんな度胸が隠されていたのだろう。幼児と婦人三人を引き連れての大移動が始まった。北京行きの切符の入手は困難をきわめた。やっと乗った各駅停車は立錐の余地もない。門司からは真っ黒に塗られた連絡船で。アメリカの潜水艦に怯えながら燈火を消し漆黒の朝鮮海峡をジグザグ航法で渡る。早朝釜山にたどり着き、やがて鴨緑江を越えれば満州。駅のホームで鶏の丸焼きや饅頭を売っているのを見たら、どっと疲れが出た。北京まで10日間の苦難の旅だった。

何をする間なく8月15日を迎えた。戦争に負けたとは言え、北京の日本軍が武装解除されるでもなく、しばらくは市民の生活に何の変化も起こらなかった。しかし10月、米軍と国府軍が進駐して来た頃から治安が次第に悪化して日本人への暴行、強盗が目立ち始める。
終戦の翌年から日本人の引き揚げが開始された。今まで忠実に仕えてくれた三人の中国人との涙の別れは辛かった。
昭和20年2月、厳冬の北京を後にする。吹きさらしの無蓋車に乗って天津に着き、駅に隣接するアンペラ小屋に収容されて集団生活が始まった。土間にござを敷きローソクを立てての夕食、電気がないので暗くなれば就寝。家族6人が頭と足を互い違いにして寝るありさまは敗戦国民の哀れさだった。天井の隙間からは月や星が眺められて寒さに震えた。夜間は女性の外出は厳禁で小屋の中にバケツを二つ備えて用を足した。給水は1日3時間、食器洗いがやっとで水不足には辛い思いをさせられた 1箇月後塘沽に移動、米軍のLST(戦車揚陸艦)で山口県仙崎港に着く。ここでDDTの白い粉を頭から浴びせられた。

それでも渡辺家が早い時期に帰国できたのは幸運だった。満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは悲惨だった。ソ連兵や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は数多く残されている。ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで性欲を処理するのが慣行であった。
ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際しここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで約5,000人に及んだと推定される。


even still Watanabe family was lucky,be able to return home early in time.
People who had withdrawn from Manchuria outback, especially those who overlapped their withdraw and invasion of Soviet troops was disastrous. 
Soviet soldiers and local Chinese had added the best looting or assaulting to nonresistance Japanese civilians. 
the parties were scattered, many lives were lost in the hunger and disease. 
among them, the devastation of the Japanese women was something unimaginable.
the Soviet soldiers assaulted to Japanese woman without any care in particular.


Most cases were rapes,assaults or gangbangs pointed with muzzle, the many records on the reality had been left. 
In Europe as well as Manchuria, it was their custom that Soviet troops had handled their libido in the rape that targeted local residents.

finally entered Korea from the road of Manchuria, humiliations by local Korean men were repeated here again upon to the south peninsula. 
estimated from the number of illegal pregnancies by doctors, the victims were ranged up to about 5,000 middle-aged from women to girls.



日本国内では、「戦争と性」が語られるとき被害者は善良なアジア人、加害者は必ず悪辣な日本人と言う呪縛の構図が出来上がっている。しかしその逆も数多く有ったのだと言う事実に対しては、うっかり口にできない重苦しい空気が澱んでいる。事実の認識が歪められている社会では「戦争」の現実を見る眼も曇らざるを得ないだろうし、性欲を処理する仕方に於て日本人も外国人も変わりが無かったと言う、至極当り前な事実でさえ見えなくなってしまうのだ。有るがままに歴史を見る眼が日本の政治家やマスコミに少しでもあったなら、慰安婦問題、戦後補償、謝罪等の論議はもっとバランスのとれた、国民の良識で納得できる方向に展開していたことだろう。


In Japan, debating about "sex and war", the victims are surely good Asian, the perpetrators vicious are Japanese, the composition has always set.
For the fact that there was a number case of vice versa, inadvertently not be able to say in heavy stagnant air.
in the social recognition of the facts have been distorted, we would have no choice but cloudy eyes even looking at the reality of the "war".
in there,we can not notice that even extremely others and Japanese is same at the way to handle the sexually problem, such a commonplace thing.


救済活動に挺身した人たち(後編の五)


昭和21年頃の博多は大陸からの140万人といわれる引揚者でごった返していた。その中で日本の婦人たちが外地で受けたレイプの実態が次第に明らかになってきた。妊娠し、或は性病を感染させられて故郷に帰るに帰られず、精神障害を起こしたり、中には上陸を目前にして海に身を投ずる女性も出る有様だった。この悲劇を前にしながら行政は何の手も打てない。何しろ国内の主要都市はいまだ戦災の傷跡が生々しく、国民は飢え、闇市に人が群がっていた時代の話である。
この時、苦悩する女性達を救わんと起ち上がった、勇気ある医師、看護婦、ボランティアの一団があった。彼等は外務省から資金援助を取付け、在外同胞救療部として本部を博多に、出張所を佐世保、舞鶴等に設けた。博多では郊外の二日市温泉の保養所を借り受けて、凌辱された婦人たちの心身の傷を癒す仕事に挺身したのである。ここに入所した1,000人を越す女性たちが、一時は死を思いつめる程の苦悩から心も身体も解放されて帰郷できた、その喜びは筆舌に尽くし難いものがあっただろう。

その頃、九州臼杵の父君の実家に身を寄せていた田鶴さんの許へ一通の電報が届いた。婦人之友社の山室善子さんから「相談がある、福岡に来てほしい」とのことだった。そこには全国の友の会の有志が参集していた。総リーダーの羽仁もと子さんが引揚者の窮状に接し、自分たちで何か出来ることはないか、その結果博多と佐世保を友の会の働き場所として選んだのだった。
神によって生かされてきた自分の半生を隣人のために捧げようと健気な覚悟を秘めてきた彼女だったが胸中は複雑だった。父君の庇護の下でやっと母娘の平和な生活が送れると喜んでいた矢先のことである。迷った。が、ついに覚悟を決めて単身博多に旅立ったのである。
博多港に上陸した引揚者の中には戦争孤児が大勢いた。その中の引き取り手のない子や病気の子を収容するために、駅前の名刹聖福寺の境内に大きな二階建の診療所が建てられた。そこへ三人の医師の他、看護婦、そして田鶴さんたちボランティア十数人が馳せ参じたのである。こうして救護活動は二日市保養所と聖福寮を二本の軸として展開されてゆく。
この緊急の救護施設で苦闘した人たちの心意気を思いおこそう。彼等は敗戦に打ちのめされた犠牲者を救う為には、率先して自分たちも犠牲にならねばならない。それが人間として価値ある生き方だという事を身を持って証した人たちである。家庭を持つ人も多かった。彼等は報酬も名誉も考えず、私情を捨てて同胞の救済に心血を注いだのである。
あれから50年、「戦後教育」によって日本人の心から奉仕や犠牲を尊しとする理念が消えて久しい。人は個人の利益と権利だけを声高に追求する。手を汚さない、汗もかきたくない。大声で平和と人権を叫べばやがて人間は幸せになれる、などと三才児並みの夢を追う能天気な大人が増えてしまった。
昭和21年8月、第一陣の子供たち48人がどっと入ってきた。まさかこれ程ひどいとは想像もしていなかった。栄養失調の子の痩せ方は尋常ではない。歩行困難な子、慢性下痢の子、皮膚病の特にかい癬がひどく、眼病で目が真っ赤にはれていたり、一人として病気を持たぬ子はいなかった。親と一緒に逃げて来たものの途中で親と死別した子が多く、母の遺骨を抱いている子はそれを手放そうとしなかった。北満や朝鮮から来た女児は頭を丸刈にしていて、男の子と見分けがつかなかった。
聖福寮はその日から不眠不休の非常体制に突入する。その頃は洗濯機や炊飯器など電化製品は何もない。全てが肉体労働だった。食料は進駐軍の食堂から出るパンの耳をもらい受けたり、時にはララ物資による衣類や食料が支給されて何とか食いつなぐことが出来た。
梅毒に感染した母親から生まれた子はひどい皮膚をしていて、入所三日後に亡くなった。お月見の晩、田鶴さんの腕の中で泣きあかして息を引き取った二才の男の子は結核性脳膜炎だった。船中で生まれた混血の赤ちゃんも入ってきた。
里親に貰われたり、公の施設に引き取られたりして出所する子、それと入れ替りに入ってくる子、休む間もなく続けられる職員たちの無私の奉仕は、戦後社会の暗黒の中に輝いた燈火であった。

聖福寮での田鶴さんの働きは、文字通り彼女の血と汗を代償としてなされたものだった。栄養不足と過労で結核が進行し、手術と長期療養が避けられない現実となった。後ろ髪を引かれる思いで博多の仲間と別れ東京吉祥寺で間借り生活をしていた父君を頼って上京する。幸い友人の紹介で東大病院の佐分利先生に執刀して頂くことになった。
「戦後」が色濃く残っている時代だった。病室は畳敷、患者は部屋に七輪を持ち込んで自炊していた。手術は肺の空洞にピンポン玉くらいの玉を入れる、当時盛んに行われていた合成樹脂充填術と言うものだった。
長かった三年間の療養生活から解放され久しぶりに吉祥寺の家に帰った。35才になっていた。この年のクリスマスに、日本キリスト教団吉祥寺教会で竹森牧師から洗礼を授けられた。


二度目の手術を乗り越えて(後編の六)


念願の社会復帰は、小田急成城駅前の木下病院の栄養士としてスタートした。長い闘病生活を体験した彼女には、患者がどんなに給食を待ち望んでいるかが良く判っていた。友の会で学んだ「食は愛なり」で真心のこもった食事を患者さんに提供しょうと精一杯努力した。一年間働くうちに病床も増え、スタッフも増員された。
しかし意気込みとは裏腹に、田鶴さんの体調は思わしくなかった。いつしか呼吸困難になり、ベッドに上半身を起こしたまま休むようになってしまった。全身状態はもう待てない所まで悪化していた。主治医の佐分利先生は「玉出し」を決意された。
忘れもしない9月26日の朝、基礎麻酔が打たれた。それなのにいよいよストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれる段になったら、頭が冴えてきて気は焦るばかりである。看護婦の手早い動作で手術台に乗せられる。血圧計を付けられ、輸液の針が手足に何本も刺され、左を真上にして台に横向きに縛られた。
局部麻酔で手術は行われた。背中を何か流れる感触があった。始まったな、と思った。そう思ったら意識は余計に研ぎ澄まされて、周りの会話が一つひとつ良く聞こえた。何と恐ろしい、先生が肋骨を切っているのだろう、身体が浮き上がって持ち上がる。「台から落ちそう」と呟く。看護婦が「ドュルック70」と言った。道理で手先の冷たさが異常だ。こうして人は死ぬのかしらと思う。「ノボカイン」「ノボカイン」麻酔が打たれているらしい。
玉出しが始まった。「ひとつ」「ふたつ」・・・・やっと「じゅういち」と言う声を聞いた時「それで全部です」と彼女は精一杯に答えた。
二度の大手術を乗り越えて再び社会に復帰した田鶴さんは、44才から53才までの10年間、キリスト教関係者にはつとに知られている新宿百人町のキリスト教矯風会館婦人寮の寮母として活躍する。それは彼女の人生でもっとも充実した10年になった。寮長の久布白落実女史、市川房枝女史らが廃娼運動に尽力されていた。都内では全学連が新宿騒乱事件を起こして荒れ狂っていた時代である。
高校三年生になった美鈴さんは日曜日ごとに経堂教会の礼拝に行っていた。日頃から田鶴さんの胸には、ひとつの祈りがあった。自分は親として何もしてやれない。ただ今日まで自分を支え、生きる力の源となってきた同じ神さまへの信仰を娘にも持って欲しいと切に願っていた。それが自分から「私は受洗する決心をした」と言い出した時は全く天にも昇る心地だった。
田鶴さんは過ぎし日々を回想しながら口ぐせのように語る。
「神さまはやっぱり私の中に生きていらっしゃるのだなと、つくづく思います。と申しますのは私が崩れ落ちそうになった時や、何度も死の危険にさらされた時に必ず助けにきて下さった。随分苦しい時もありましたが、自分は神さまに守られているのだと思い、いつも何故か楽しんでやっている、そういう生活環境の中に私を置いてもらえたと言うことは本当に感謝なのです。私は神さまに生かされているのですから何もかもお委せして、これからも自分の精一杯のことをやってゆくつもりです」

田鶴さんの物語はここで終わる。しかし華やかな主役の蔭には必ず熟練の脇役がいて主役を引き立てるのが常である。若い頃、肋膜炎を患って何かといえば臥せがちだった田鶴さんを蔭にひなたに支えたのは妹の悦さんだった。美鈴さんを小学校二年から中学一年まで母親に代わって育て上げ、母堂の看護と父君のアシスタントを立派に勤め上げた。この寡黙な日々の中で悦さんは人間的に脱皮し成長してゆく。箱根の白百合学園に在勤中、神言会の神父さまとの出会いによっで修道生活への決意を固められたのである。
お二人のキリスト教との接点を遡ると、田鶴さんのご主人笠村俊輔氏が渡辺家に持ち込んだ羽仁もと子さんの著作集に行き着く。戦争前まで、女性の人権は男性の従属物としか考えられていなかった。長ずれば結婚して夫と姑に仕え、ひたすら家事と育児に勤しむという閉鎖社会の中で生きるのが当然とされていた。これに対して羽仁もと子さんは結婚、料理、裁縫など家事全般にキリスト教的価値観を与え、それを自らの実践によって世に問うたのである。当時としては極めて斬新な思想だった。お二人が「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」に共感されたのも想像に難くない。

平成6年の秋も深まった11月、田鶴さん、美鈴さん、悦さんの三人は香港を経由して、広東空港に降り立った。昭和16年12月のあの日、上海号の墜落、第二次大戦勃発、出産、入院、帰国と、俊輔氏の殉難を悼むいとまさえないままに、田鶴さんの慌ただしい半世紀が経過していた。そして今日、永い間三人それぞれの胸に懸かっていた慰霊の旅が実現したのである。
一行は現地のガイドを伴い、車を借り切って広東の市街を抜け、戦後日本人が来たのは初めてという僻村をいくつも通り過ぎ東へ東へと走る。旧日本陸軍の残した地図を頼りに半日ほど行くと恵陽県獅朝洞に着いた。山麓に寺院があり、そこでガイドが道を尋ねた。すると偶然、住職が子供の頃に日本の飛行機が墜ちた場所を憶えていたのである。車は寺院の裏を巻くように登ってゆく。やがてパッと眺望が開けて丘陵地帯の尾根に出た。そこでは広大な墓地を造成中で樹木は伐採され甚だ眺望が良い。車を降り、教えられた巨岩「亜妹石」(あめいし)を探して歩くこと数分。と、あれだ!道路からやや見上げる位置に山腹から六畳敷ほどの舌状の巨岩が突き出していた。せめて上海号が墜ちた山を見たいと願ってここまで来た三人だったが、なんと俊輔氏が亡くなった遭難現場に、いま立っていようとは!これこそ神さまの計らいと三人は感激にふるえ岩の下に香花を供えて合掌した。
その時、かすかに飛行機の爆音が聞こえた。空耳だったか? すると今度はハッキリと真上から爆音が聞こえた。よもやと三人が振り仰いだが機影はどこにも無い。雲ひとつない青空である。
そのとき、傍らのガイドが呟いた。「ああ、ご主人の霊が応えましたね・・・・」
澄みきった明るい秋の空だった。

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