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Friday, December 7, 2012

the testimony of ex-comfort woman,Yi Ok-sun 李玉善

李玉善 Lee Ok-sun, 84
イ・オクソン 李玉善 (Yi Ok-Seon 이옥선)
1924年釜山市に生まれる。2000年に中国から帰国し、ナヌムの家に来た。

http://nitiban.blog.ocn.ne.jp/jyugun_ianfu_No3.pdf


http://www.theperthexpress.com.au/contents/ontheroad/s140/index.php

Vol.172/2012/5
「当事者の声がきこえない(上)」


「ナヌムの家」を訪れる訪問客に、満面の笑みで応える李玉善(イ・オクソン)ハルモニ。

曇り、時々、しぐれ空。厚手のジャケットを手放せない冬の朝だった。
この日、韓国ソウルの日本大使館前は喧噪に満ちていた。そう、2011年12月14日の「水曜日」は特別な日であった。ハルモニ(韓国語で「おばあさん」の意)たちが1992年1月8日の水曜日から、日本政府に対して公式の謝罪と賠償を求めて日本大使館前で続けていた抗議の「水曜集会」が、1,000回目を迎えるからだ。
このハルモニたちは、いわゆる元日本軍強制従軍「慰安婦」である。本来韓国では、在外大使館の周辺100メートル以内の集会やデモは禁止されているはず。だが、この「水曜集会」だけは例外的に黙認されている。それだけ、この「慰安婦」の問題が、日韓関係において、微妙な問題であることを証明している。
歴史問題から見ると韓国は日本にとって近くて遠い国である。「アジア・太平洋戦争」を振り返ると、この「慰安婦」問題は、日韓の間に突き刺さった棘ともいえる。
「水曜集会」を主催しているのは、ハルモニを支援している女性・市民・労働・学生・宗教団体を中心にした「韓国挺身隊問題対策協議会(「挺対協」)」である。
「水曜集会」はこの20年間以上、メディアに注目されようがされまいが、ずっと続けられてきた。そして1,000回目を迎えた今回、やはり大きく注目されることになった。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/korokoro.html
■『李玉善の証言』



【東大の学園祭での紹介】
http://minsei-komaba.hp.infoseek.co.jp/kikaku_frame.html

1927年日本の植民地だった韓国の釜山で6人兄妹の長女として生まれる。10代前半で日本人と朝鮮人の男性2人に拉致され、中国で日本軍の「慰安婦」にされた。戦後は中国に置き去りにされた。1999年に帰国し、「ナヌムの家」(元日本軍『慰安婦』が共同生活をおくる福祉施設、ソウル市内にある)に入居。以来、聖書を読んだり、日本語の勉強をしながら、毎週水曜日、ソウルの日本大使館前で元「慰安婦」への賠償と謝罪を求める「水曜デモ」に参加している
【QAB琉球朝日放送での紹介】
http://www.qab.co.jp/01nw/05-10-14/index9.html

李玉善(イ・オクソン)さん。李さんは戦時中、旧日本軍にむりやり従軍慰安婦にさせられたひとりです。李さんは釜山生まれ。15歳のとき、お使いに出かけ、路上で、日本人と朝鮮人のふたり組の男に突然、両脇を抱えられて連れ去られ、中国で慰安婦として働かされました。




【東京新聞での紹介】
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/txt/20050729.html

軍慰安所の少女たちは皆、日本名で呼ばれていた。十四歳の李玉善(イ・オクソン)さん(78)は、この呼び名が嫌いだった。
(中略)
朝鮮半島東南の海辺の町、蔚山(ウルサン)。買い物に出かけた李さんが突然、見ず知らずの男たちに捕まり町から連れ去られたのは一九四二年のことだ。貨物列車で連れて行かれたのは、中国東北部、延吉の日本軍駐屯地に置かれた慰安所。管理人を名乗る男から着物と毛布を渡され、「これは借金だ。返すまで家には帰れない」と言われた。

【JANJANでの紹介】
http://www.janjan.jp/world/0401/040126574/1.php?action=tree&PHPSESSID=d4499a4bb06bba1c5043b1ac274ba74fl




李玉善さんは1927年釜山で6人兄妹の長女として生まれた。家が大変貧しくて学校に行きたくても行けなかった。14歳の時、お金が稼げるし、学校にも行かせてやると言われ、飲み屋の養女として売られたが、仕事がうまくできないと雇い主からよく殴られた。その後李さんはその店を解雇され、別の飲み屋に売られた。
ある日、店の人からお使いに出された時、日本人と朝鮮人の男性2人に拉致され、行き先も告げられず無理やりトラックに乗せられた。李さんが到着した場所は中国の延吉にある空軍部隊の飛行場だった。

【ナムヌの家】

http://excite.co.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fwww.nanum.org%2Fsub7%2Dmain1%5Fg8.htm&wb_lp=KOJA&wb_dis=2

(自分の親の)学校を送ってくれるという話は真っ赤な嘘だった. 養女でもなかった. 朝鮮人主人はあらゆる下動きはもちろんスルゾブデまでさせた. オックソンはお酒接待を拒否して二回も逃げてからブッザブヒョがなぐられたりした.
(中略)
朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って


このハルモニさんは売られたんですね。人身売買です。酷い話です。でも訴える相手は日本政府では無く、
貴女を売買した親や朝鮮人の主人じゃないでしょうか?売春宿は民間経営ですよ。



http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/40/



◆◆◆ 李玉善(イ・オクソン) ◆◆◆

※李玉仙と表記される場合もあり
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1927年10月(注)、韓国釜山の貧しい家に生まれる。14歳の時、飲み屋の養女として売られ、さらに、別の飲み屋に売られる。
1942年7月、店のお使いの最中に拉致され、中国東北部、延吉の飛行場で重労働させられると共に暴行・強姦される。約1年後、同市内の慰安所に入れられる。
解放後も故郷に戻れず、2000年6月、58年ぶりに韓国へ帰国した。

(注)戸籍上は1928年


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本人と朝鮮人の男二人に拉致されトラックで駅まで行き、汽車で延吉(満州)まで連れて行かれる。そこの日本軍の飛行場で働かされ、強姦される。約一年後、延吉市内の慰安所に入れられる。(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」より)


【考察】

1つ目の飲み屋では、早朝から夜中の1時2時まで働きづめで、しかも、客の接待を強要された為、2度ほど逃げ出し、最後には別の飲み屋に両親にも内緒で売られてしまったようです。2つ目の飲み屋での様子は証言にないため不明(※ただし、ナヌムの家のHPの機械翻訳では「芸者集」とある)ですが、そこから、慰安婦として売られたと言うのなら特異な話ではないはずです。
2件目の飲み屋が、「客の接待は拒むは、せっかく買ったのに使えないから売春宿にでも売っぱらっちまえ」と考えたとしても不思議ではありません。また、単に「客の接待」と表現していますが、それが、お酌をする接待ではなく、体での接待だとしたら、嫌で2度も逃げ出したというのも納得できます。(あくまで推測に過ぎませんが)

しかし、同女の証言では、慰安所に入れられるまでの話に「拉致」が入ります。
拉致されたのは、2件目の蔚山(ウルサン)の飲み屋で働いていた時で7月中旬の夕刻の話です。「店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然、二人の男に捕ま」り、「どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きづられるように連れ去られた」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.155)と証言しています。

7月中旬の夕刻ですから、まだ明るいでしょう。表通りで捕まり、同女は叫びながら引きづられています。こんな状況で誰も助けてくれずにそのまま拉致されたと言うのは不自然です。しかも、下記資料の通り、拉致したのが「日本人と朝鮮人の二人組」であったり、「朝鮮男2人」であったりします。

また、その後、手足を縛られ猿ぐつわをかまされトラックに乗せられて、蔚山駅で貨物車に乗せられます。
駅では、「私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあるように、この表現を信じれば、自分の足で歩いて貨物車に乗ったようです。それなら、駅で助けを求めるか逃げればいいと思いますが、そのような記述はなく、ただ、「どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした」(「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.156)とあります。

このように同女の拉致の状況は不可解な部分が多くあります。さらに、そのまま慰安所に入れられるのではなく、一旦、飛行場で働くと言う「挺身隊」の要素もあります。如何にも「従軍慰安婦」を意識して作った創作と言う感が拭えません。そもそも、飛行場で強制労働をさせることが目的なら、15、16歳の少女なんか連行せずに男性を狙うでしょう。


なお、拉致された年齢について微妙に違うのは、数え年と満年齢の違いによるものでしょう。


【信憑性】

証言に不可解な部分が多く信憑性があるとは思えません。(特に拉致と飛行場での重労働に関する証言)

決定的に同女の証言を否定するものも見つかりませんでしたが、2000年に58年ぶりに韓国に帰国したと言うことで、1991年に名乗りをあげて訴訟を起こした金学順(キム・ハクスン)さんや文玉珠(ムン・オクス)さん達と違って、公に証言を始める時点から、「強制連行の要素がなければ日本政府に謝罪や補償を要求できない」ということを知っていた可能性もあります。


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
2002.7 ナヌムの家歴史館ハンドブック ナヌムの家歴史館後援会 編 柏書房
1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きをさせられたが、その間、日本軍人たちから日常的に強姦された。その後、一緒にいた女性たち全員が、延吉市内にある慰安所に移され、3年ほど『慰安婦』生活を送った。
慰安所は狭く、10名あまりいた女性が入りきれず、1部屋に2‐3人が入った。はじめは部隊内の庭にゴザを敷いて使うこともあったが、突然軍人たちが部屋に入ってきて、他の同僚が見ている前で、獣のように女性を強姦した。そこにいるときは、サックも使わず、性病検査もなかった。(P.131)
(※2007.4.8追加)
2004.1.9 アジアプレスネットワーク
※リンク切れ ***** ****
16歳のとき日本軍の「慰安婦」として旧満州(今の中国東北部)に連行され、日本の敗戦後も彼の地に取り残されていた。
2004.4.1 JANJAN ***** ****
ある日、店の人からお使いに出された時、日本人と朝鮮人の男性2人に拉致され、行き先も告げられずに無理やりトラックに乗せられた。李さんが到着した場所は中国の延吉にある空軍部隊の飛行場だった。その飛行場の周囲は収容者の脱走を防ぐため高圧電流が流れる鉄条網で囲まれていた。李さんたち労働者は1日に小さな蒸しパン1つだけ与えられて働かされ、不満を訴えると兵隊に血まみれになるまで殴られた。
ある日、軍人がやってきて李さんに車に乗れと言った。李さんは家に戻れると思って喜んだが、連れて行かれたのは慰安所だった。
2005.7.29 東京新聞
※リンク切れ ***** ****
突然、見ず知らずの男たちに捕まり町から連れ去られたのは一九四二年のことだ。貨物列車で連れて行かれたのは、中国東北部、延吉の日本軍駐屯地に置かれた慰安所。管理人を名乗る男から着物と毛布を渡され、「これは借金だ。返すまで家には帰れない」と言われた。

(※管理人注:当該記事には飛行場での強制連行の話がありません。単に省略しただけか?)
2005.10.14 QAB琉球朝日放送
※リンク切れ ***** ****
15歳のとき、お使いに出かけ、路上で、日本人と朝鮮人のふたり組の男に突然、両脇を抱えられて連れ去られ
2006.3.2 朝日放送・関西「韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って」
※リンク切れ ***** ****
韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。
「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。
2006.6 証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 西野瑠美子・金富子責任編集 明石書店
私が十四歳になったある日、母親に呼ばれて行ってみると、釜山駅前のうどん屋がおまえを養女にしたいと言ってきました。そこへ行けば学校にも通えるし、ご飯も好きなだけ食べられる。この際、そこへ行ってみるのはどうだ、と言われました。学校へ通えると言われ、私はすぐさま決心してその食堂へ行くことにしました。ところが行ってみるとそこはお酒も売るような所で、学校へ通うどころか朝は夜明け前に起き、夜は夜中の一、二時まで働きづめでした。結局、養女にするというのは真っ赤なウソでした。しばらく下働きのようなことをしたあと、店の主人に客の接待をするように言われましたが、私は嫌だったので二度ほど逃げ出したもののすぐ捕まり、ひどく殴られました。
私が主人の言うことを聞かずに仕事をしようとしないので、数ヶ月後、今度は蔚山という所にある飲み屋に売られてしまいました。しかも私の両親には内緒で勝手に売り飛ばされたのです。そこでも下働きのような仕事をさせられました。
1942年7月のことでした。店の主人から買い物を頼まれ表の通りに出たところ、突然二人の男に捕まってしまいました。このとき私は15歳でした。一人は朝鮮人、もう一人は日本人でした。この二人の男が私の手を掴んで無理やりひっぱって連れて行こうとしたので、どこへ連れて行くんだ、帰してくれ、と抵抗しましたが、そのまま引きずられるように連れ去られたのです。連れ去られた先には天幕を張った大きなトラックが待っており、その男が私に乗れと命令しました。私は嫌だと言って激しく抵抗しました。するとその男たちはまるで積荷を扱うかのように私のことをポンッとトラックの荷台に投げ込んだのです。そこには私と同じ年頃の少女がほかに五名いました。みんなで泣きながら、帰してくれ、うちに帰りたい、と足をバタバタさせていると、うるさいと言って、私たちの手足を縛り、さるぐつわまでかまされました。
トラックが着いたのは蔚山駅でした。私たち全員、今度は汽車に乗り換えるように言われました。そこにはほかの所から集められたらしい女性たちもいたようです。今でこそ自分が中国に連れて行かれたということは分かりますが、当時はこれから連れて行かれるところが日本なのか、中国なのか、アメリカなのかまったく見当もつきませんでした。しかも私たちが乗せられたのは貨物車で窓もありませんでした。どこかで乗り換えるときがあれば脱出しようと思っていましたが、結局どこにも停まりませんでした。(P.154~156)

延吉で汽車から降ろされ、日本軍(中国東北部に駐屯した関東軍)の東飛行場(現在の延吉社会精神病院前)に連れて行かれました。ちょうど飛行場の拡張工事をしているときで、そこで草むしりや重労働をさせられました。~(中略)~ここでは一番若い子が十四歳、一番年上でも十七歳です。こんな少女たちを日本人たちは連れ出し、そこらの草むらに連れ込んで好き勝手に私たちを獣のように強かんするのです。~(中略)~この飛行場には約一年いたと思います。(P.157~158)

ある日、軍人たちた私たちの所へやって来て外に出るように言いました。これで家に帰れると思い心が浮き立つほどでしたが、実は解放されたのではなく、延吉市内の慰安所に連れて行かれたのです。(P.158)
2006.11.19 日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時期企画in大阪 ***** ****
15歳の時、道を歩いていて拉致され、トラックに放り込まれ、口を塞がれ手足を縛られ、中国の延吉にある日本軍飛行場に連れて行かれ、強制労働をさせられた上、乱暴された。電気の通った鉄条網の中に閉じ込められ、家に帰りたいと血が出るほど煉瓦をたたき続けた。そしたら、そんなに帰りたいなら連れて行ってやると言われ、連れて行かれた先が慰安所だった。
2007.1.25 SENKI「日本もイスラエルも被害者だと思っているが」 ***** ****
李玉仙さんは14歳の時、日本人と朝鮮人の2人の男性に路上で拉致され、中国、旧満州へ送られました。3年間の「慰安婦」生活で梅毒に感染し、水銀で治療されたため、子どもが産めない身体になりました。戦後帰国できず、現地で2人の連れ子がいる男性と結婚しました。帰国したのは、その夫が死亡した2000年のことです。
(※2007.4.8追加)
2007.2.10現在 ナヌムの家 HP
※リンク先は韓国語 ***** ****
これでヨルダソッの少女オックソンは食堂に養女に行った.

しかし学校を送ってくれるという話は真っ赤な嘘だった. 養女でもなかった. 朝鮮人主人はあらゆる下動きはもちろんスルゾブデまでさせた. オックソンはお酒接待を拒否して二回も逃げてからブッザブヒョがなぐられたりした.

そこでなんケ月以内されて主人は蔚山の居酒屋にオックソンを売ってしまった. グジブは芸者集だった. ここでもオックソンは夜 12時までシックモジルとあらゆる下動きをドマッアした. とても大変で夜に寝てゆばりを洩らしたこともあった.

ここ来たのも 1年がまだならなくて満洲でひかれて来た. 芸者集でおつかいを出てから白昼大道で拉致にあったのだ. あの時が 42年 7月, オックソンの年十六(満15歳)だった.

白昼台として強制拉致

蔚山で午後におつかいを出たが 40歳が過ぎたように見える太っている朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って ?行くと?そのした. ?嫌いです. 放してやりますか?したらウワックスラン力で ?ザンマルを除いて行くと?と口を阻んでトラックに積んだ.

テンギ髪の毛に朝鮮チマチョゴリを着たままトラックに積まれて蔚山駅に行ったら他の女達も何何ひかれて来ていた.

蔚山駅で汽車に乗って二日位かかって倒文に到着した. 女達はジムチァトング(貨物室)にのせられたが窓がなくてどこで行く分からなかった. ご飯も与えなかった.

汽車を乗り換えるようになれば逃げることもできると期待したが一度も乗り換える事なしに倒文に到着した.

一緒に来た女達は 15人ほどだった. そのうちには十四歳もあってオックソンとおない年もあった. 汽車から飛びおりて死のうという公論もしたが決行することができなかった.

倒文に到着してオックソンを含んだ 5人は駅の近くの留置場に監禁された. ここでまたひと晩を寝たが特にオックソンだけは独房に監禁した. その理由は今もわからない. あの時までもご飯は与えなかった.

(※管理人注:上記は機械翻訳)
2007.3.22 CRI Online「韓国社会 日本要人による慰安婦問題歪曲言論を批判」 (中国国際放送局) ***** ****
「従軍慰安婦」の被害者、79歳の李玉善(イー・オクソン)さんは(音響の2)「私はその時、蔚山(ウルサン)でお手伝いさんをしていた。ある日、町に出た際、2人の男性が突然目の前に現れた。彼らは私を捕まえて連れ去った。私は15歳だった。抵抗する力はなかった」と強制連行された経験を述べました。


http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2011/01/blog-post_5675.html





慰安婦:最後の願い【中央日報英字版】



イ・オクスンという人は、当初は兵隊に誘拐されたとは言っていなかった。彼女の証言の変遷については、こちらのサイトに詳しい(名前が紛らわしくて申し訳ないが、当サイトとは無関係)。彼女は最近オランダのラジオ局の取材を受けていたが、その証言はさらに過激になっていた。いずれ紹介できると思う(こればっか)。

とにかく、韓国の新聞は、英字版だとかなりハメを外すキライがある。

国史が選択科目になる云々という話は、先日もちらっと出て来たが、こういった細かい所でもハルモニを政治利用しているのを見ると、ちょっとどうかな、と思う。

84歳のイ・オクスン(李玉仙)は、手の上のハガキの山を読みながら裏返す。ハガキには「ハルモニ、サランヘヨ(お婆ちゃん、愛してる)。Happy New Year」と書かれている。

最後の三つだけ英語で、あとは韓国語だ。短いが心温まるメッセージは、李がアメリカやカナダの人々から受け取る沢山のメッセージの一つだ。

「この若い女性は歴史の先生なの。私の話を聞いてから、歴史をもっと理解し教えることが出来るようになったからと、毎年お礼にカードを送ってくれるんです」と特別な物語を持つ李は言う。彼女は、第二次大戦中、朝鮮半島を侵略した日本軍によって性奴隷として動員された「慰安婦」の数少ない生き残りの一人だ。現在、李は京畿道広州市にある元慰安婦の為のグループ・ホームで暮らす。

李がウルサン(蔚山)で日本の軍人たちに誘拐されたのは15の時だった。ちょっと用たしに出た所を捕まった。日本軍によってさらわれた他の少女たちと一緒に李は中国へ送られ、日本軍のバラックで慰安婦として三年間過ごした。李によると、休日になると50人もの兵隊がドアの外に並んだという。

兵士による激しい暴行のため、李の聴力と視力は激しく損なわれた。あまりに酷かったので、彼女は「台無しになって帰ってきた」。

1966年、李は自分の体験談を持って公に出る決意をした。

「私たちは『慰安婦の印を掲げる(かける)』と言ってるの」と李は言う。

李は米国、中国、日本、カナダやフィリピンといった沢山の国々を旅するようになる。慰安婦の真実を伝えるために。

「歴史を語って欲しいと言われて、他に選択肢はなかったの」女性センターの彼女の部屋の中で、外国の学生たちと撮った数えきれない自分の写真に囲まれて李は語る。

今となっては彼女の話ははかない思い出である。なぜなら李は病んでおり、生存する少ない慰安婦の殆ども同様だからだ。

「心臓も肝臓も悪いんです。死ぬ前に(日本から)謝罪を受けなければならないんです」狭心症も患う李は言う。彼女は昨年心臓の手術をし、時間が残されていないと気に病んでいると言う。

2010年の初めの時点で、韓国政府に登録された慰安婦は88人いた。しかし、たった一年でその人数は76人にまで減った。9人が昨年亡くなり、1月13日にさらに二人が亡くなった。

「まだまだ我が国には慰安婦問題について知らない人がたくさんいます。私は『慰安婦のサイン』を掲げて彼らに知らせているのです」。彼女の声は次第に小さくなった。

韓国の高校で国史の授業が選択科目になると聞いて、李は言葉を失った。

「私たち老いたお婆ちゃんは世を去る時なの。若い人たちは歴史を知るべき。私たちの純潔は15歳の時に奪われ、踏みにじられました。だけど(日本人は)、そんな事はしなかったと言ってるの」と李は言った。「私たちの娘たちは、歴史を知らなかったからといって同じ目に遭ってはならないのです」。

JoongAng Ilbo 2011.1.22

Last wish of former ‘comfort woman’

Lee Ok-sun, 84, turns over a pile of cards in her hands as she reads the words of one, which says: “Halmoni, Saranghaeyo [Grandmother, I love you]. Happy New Year.”

With the last three words in English and the rest scrawled in Korean, the short but heartfelt message is one of many Lee has received from people in the United States and Canada.

“This young woman is a history teacher. She sends me cards every year to thank me, saying she understands and teaches history better since she listened to my lecture,” said Lee, who has a special story to tell. She is one of the few remaining “comfort women” of Korea, who were drafted by the Japanese military as sex slaves during the Japanese invasion of the Korean Peninsula in World War II. Lee now lives in a group home for former comfort women in Gwangju, Gyeonggi.

Lee was just 15 when she was kidnapped by Japanese soldiers in Ulsan. She had just come outside to go on an errand when she was taken. Along with other young girls who were snatched by the Japanese military, Lee was sent to China and spent three years as a comfort woman in the Japanese barracks. According to Lee, on holidays as many as 50 soldiers would be lined up outside her door.

Because of the severe beatings from the soldiers, Lee’s hearing and vision were greatly impaired, so much so that she “came back mutilated.”

In 1996, Lee made the decision to go public with her story.

“We call it ‘hanging up the comfort woman sign,’” Lee said.

Lee began traveling through numerous countries — including the U.S., China, Japan, Canada and the Philippines — to tell the truth about the comfort women.

“I had no choice but to speak, when [they] were pleading for me to tell them about the history,” said Lee, surrounded by countless pictures of herself with foreign students in her room at the women’s center.

Now the lectures are fond memories because Lee is ailing, as nearly all of the last few comfort women are.

“My heart is bad. My kidneys are bad, too. I should receive an apology [from Japan] before I die,” said Lee, who also suffers from angina. She had heart surgery last year and says she is worried she is running out of time.

As of early 2010, there were 88 former comfort women registered by the Korean government.

But in just a year, their numbers have dwindled to 76. Nine women passed away last year and three others passed away on Jan. 13.

“There are still so many people in our country who don’t know about the comfort women issue. I put on the ‘comfort woman sign’ to let them know...” she trailed off.

Lee was at a loss for words when she was informed that history would become an elective course for Korean high school students this year.

“It is time for us old grandmothers to die. Young people should know the history and help. Our purity was taken away from us and trampled on at fifteen. But [the Japanese] are saying that they didn’t do it,” said Lee. “Our daughters shouldn’t have to go through the same thing because they don’t know the history.”





http://amnesty-jpn45g.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post.html

Amnesty Newsletter 2010年8月号よりFORCUS



日本軍「慰安婦」問題とは

アジア太平洋戦争の約15年間に、日本軍は占領したアジア各地に軍専用の「慰安所」を作りました。そこへ植民地の朝鮮や台湾の女性たち、また中国やフィリピン、マレーシア、インドネシアなど現地の女性たちが、詐欺、誘拐、連行、公娼制度などによって連れていかれ、「慰安婦」として閉じこめられ、性暴力被害を受けました。
性暴力の傷は、その記憶が冷凍保存されると言われます。被害者は、鮮血が突然吹き出す苦しみ(PTSD:心的外傷後ストレス障害)を抱えています。とくに戦時下の性暴力は、平時のそれの何倍もの傷を残すといわれます。兵士は、意識的かどうかはともかく、女の性を公然と性拷問するからです。被害者は自己のアイデンティティを奪われ、家族や共同体のなかでも罪の意識から沈黙を強いられ、ばらばらにされます。しかし、加害者は公然と集団に戻ることができます。

声をあげる被害者たち

そのような日本軍隆奴隷制の被害当時者として、韓国で鋼1順(キム・ハクスン)さんが初めて名乗り出られてから、すでに19年が経ちます。被害者が長い沈黙をやぶって証言する勇気とその辛い体験は、本誌の面談で李玉善さんが語られているとおり、個人一人ひとりのものなのです。そして韓国にかぎっても、そのように名乗り出られた234人のうち154人がすでに亡くなり、生存者も平均85才という高齢です。名乗り出ることができないまま亡くなった方も、アジア各地に数多くいます。

一刻も早い解決にむけて

日本の未解決の戦後補償のなかでも、「慰安婦J問題はもっとも深刻であり、被害者が生存する間に解決が必要です。しかし解決がこれほど遅れているのは、政府にも国民にも性暴力への認識が薄いからといえます。表1からわかるように、国連の諸機関は、日本政府に対して法的な勧告を続けています。アムネスティも報告書を出し、キャンペーンを続けています。日本が「国民基金」で解決済みとしたり、戦争のせいにしたりできないのは明らかです。「人道に対する罪」は戦前にも慣習法として存在しており、強市U労働を禁止するILO条約も日本は批准していました。性暴力への認識を変えれば、「慰安婦」制度は性的な労働の強制であり、組織的な性犯罪行為です。
国家による謝罪と補償が被害者の尊厳の回復に資することになります。この問題の解決を促す地方自治体による意見書も、2008年の宝塚市に続いて各地からあがっています。一刻も早い解決にむけて行動しましょう。

interview
日本軍性奴隷制の被害者、李玉善ハルモニインタビュー

2010年2月26日(金)ナヌムの家にて収録
通訳:村山一兵(ナヌムの家 日本軍「慰安婦」歴史館研究員)
インタビュアー:山下明子(AI日本・「慰安婦」問題チーム コーディネーター)  ※「ハルモニ」とは朝鮮語で「おばあさん」という意味

山下:ハルモニ、私たちはアムネスティ・インターナショナルという国際人権団体です。日本政府に対して、一刻も早く日本軍「慰安婦」問題を解決するよう、求めています。今日は、私たちのニュースレターのためにお話を聴かせてください。
李玉善:わざわざおいでいただき、意図も分かり嬉しい。
山下:最初に伝えたいことがありますか。
李玉善:年をとり、このごろ頭で整理ができない。だから日本に行く(3月に新潟での証言集会)のも、本当は気が進まない。病も今は少し落ち着いている。自分の歴史で特にもう新しいことはない。でも、ナヌムの家(次ページの写真参照)でも一人ひとりが異なる歴史なので、一人ひとりが語るしかない。

ハルモニの歴史
山下:そうですね。では、ハルモニの歴史を教えてください。
李玉善:15才で中国に連行された。1942年7月29日だ。この日だけは覚えている。文字が書けたら、(日記などで)書き付けていたろうから、どんなに良かったかと思う。
山下:学校に行けなかったのですか。
李玉善:釜山に生まれ、日本名はスズキ。オクソン。女なので名字だけの改名で済んだ。7才から学校にとても通いたかったのに、できなかった。13才まで家で弟の面倒をみて、それから他家に働きに行った。仕事は食堂のうどん屋での下働き。でも、叱られ殴られて辛かった。それから蔚山(ウルサン)の酒屋に売られて下働きをしたが、殴られ、悪口を言われた。ある日、使いに出され、その途中で拉致され、汽車で中国に連れていかれた。
山下:どうして中国だと分かったのですか。
李玉善:まずトムン(図個)という朝鮮と中国の境で降りて下晩寝たが、6人の女が一緒だった。そこから自分ともう一人が延吉(ヨンギル)に連れて行かれた。初めは飛行場(延吉東飛行場)で下働きをさせられたが、着の身着のままで、寒いし腹が減るし、不平を言ったら殴られた。それで、「家へ帰りたい」と訴えていたら、日本の軍人に「帰れる」と編され、喜んでついていったら慰安所だった。そこで初めて、自分がいるのは中国(満州)だと分かった。
山下:どんな「慰安所」でしたか。
李玉善:日本が管理している「慰安所」だった。日本の着物と帯を着せられた。「服を買ってやったのだ。借金を返せ、軍人の相手をしろ」と言われた。
山下:辛いでしょうがヽそこで強姦されたのですね。
李玉善:16才だった。最初の強姦のとき。
山下:何年、そこにいらっしゃったのですか。
李玉善:3年間そこにいた。「とみ子」と日本名で呼ばれた。名前の漢字など分からない。小さいボロボロの「慰安所」だったが後にレンガ造りになり女性も増えた。周りにも「慰安所」があったが、普通の人は入れない。兵隊と軍属だけ。日本人「慰安婦」も一人いたがt兵隊の相手はせず、慰安所の主人と肉などいいものを食べていた。残りは朝鮮人で、14才から17才くらい。私たちは差別されていた。いつも空腹で、豚草やヒエとかアワしか食べられなかった。それでもお腹が空くので美味しかった。
山下:外に出ることはできましたか。
李玉善:出ることはできたが、お金がないので結局出られなかった。お金など見たことも、もらったこともない。自分が(中国の)どこにいるのか分からなかったから、逃げることもできない。死のうと何度か思った。でも薬を買う金もなく、首をつろうにも、中国の家には木の梁がなくできなかった。
山下:軍人の様子はどうでしたか。
李玉善:ひどい人が多かった。私たちは殴られたり、刀で切られ、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなった。14才ぐらいの子が殺された。毒を飲んだ子も、入水自殺した子もいる。だから日本人が憎かった。でも、全部ではない。
山下:好きになった人がいるのですか。
李玉善:ヒロカワという、良い班長がいた。私が17、8才の頃、彼が日本に帰るとき、「一緒に行こう」と自分の時計をくれた。でも、時計は後で代理人に返した。彼は一人で日本に帰った。お互いの事情だから仕方がない。でも、本当に一緒に行きたかった。「慰安所」から抜け出したかった。日本で証言すると、日本人の悪口を言っていると誤解される。でも、日本人にも様々な人がいることは分かっている。

ナヌムの家。ソウル近郊にあるこのナヌムの家では、韓国の被害女性が共同生活している。現在、9名が暮らしており、日本軍「慰安婦」歴史館も併設されている。

解放、そして今に至るまで
山下:解放されたのは何時ですか。
李玉善:19才のときだが、解放されたと知らなかった。爆弾の音がして、私たちは、軍人に高い山に連れて行かれた。「待っていろ、食べ物を探してくる」と言われて、そこに捨てられた。何日も食べずに、犬のように逃げ回った後、延吉市内に降りてみると、そこにはもう軍人は誰もいなかった。お金もなく、ぼろばろの空き家に入って震えていた。それでまた山に入り、ヒエやじゃがいもなどを手に入れた。生きるために中国の老人や朝鮮人の障害者などと一緒になった人も多い。同じ「慰安所」にいた女性で、その後、唯―出会ったハ。オクチャ(日本名カツマル)も目が不自由な人と結婚していた。彼女は「慰安所」で出産したが、赤ん坊を持っていかれてしまった。
山下:玉善さん自身は、その後どうされたのですか。
李玉善:最初の夫は日本軍の小隊長だった朝鮮人で、19才の時に出会った。中国の革命の混乱の中、離ればなれになってしまった。10年ほど待ったが帰らないので、村人の薦めもあって29才のときキム・ギファンと再婚した。彼は7才年上の共産党員で、中国の軍隊や強制労働で苦労した、とても良い人だった。6才の時に北の平安道から中国に行った朝鮮人で、私が山で仁1れているのを助けてくれて、病院で手術した。
山下:その後、キム・ギファンさんが亡くなられたので、帰国されたのですね。お子さんはいらっしゃいますか。
李玉善:自分の子は産めなかった。「慰安所」の薬のせいだ。夫の前妻の子を、自分の子として育てた。夫が亡くなった後は息子夫婦と暮らしていた。孫もいる。
山下:2000年に帰国され、苦労はありませんでしたか。
李玉善:55年間、中国にいた。釜山の生家では死亡届けが出されていた。「慰安所」では日本語しか使えなかったので、日本語を覚えたが、文字を知らないので手紙を書けなかった。家族も亡くなり、国籍の回復に1年8カ月もかかった。ナヌムの家の助けによって回復できた。日本語も中国語ももうあまりできない。
山下:最後に私たちへのメッセージを頂けますか。
李玉善:私は被害者だけど、日本で話すときに申し訳ない気持ちになる。日本国がしたことだけど、聞いている人がしたわけではないから。でも、84才で昔の話をするのは大変になってきた。それでも自分が被害者だから、何度も何度も、口が痛くなるまで言うのだが、伝わらない。戦争は終わったが、今も戦争だと思う。私はまだ解放されていないから。たとえ謝罪と賠償を求めても、青春は帰らない。日本と韓国は近い。家族のようになれば、私は死ぬ前に息子と二緒に一つ屋根の下に住みたい。
山下:長時間、ありがとうございました。

2010年11月19日 (金) 従軍慰安婦チーム, 書籍・雑誌, 経済・政治・国際



http://yamushokey.com/modules/picoarchive/content0051.html






李玉善(イ・オクソン)の証言
●従軍慰安婦・李玉善(イ・オクソン)
彼女の証言を訳して掲載する。
彼女は日本にも来日して、各地で講演などしている。

ナヌムの家に掲載されている韓国語による証言。
Yahoo!の翻訳サイトで機械的に翻訳したモノを管理人が意訳・要約した。
また、原文も付記しておく。

李玉善お婆さん(釜山補修洞出身)は延吉でタクシーで1時間ほどであるヨンジョンの時八道陣という小さな田舍村に住んでいた。

このお婆さんは 96年高麗大学所長の助けで韓国に生存しているお兄さんと弟等親族を尋ねた。
この時お婆さんは韓国 TVに出演、慰安婦体験を一部打ち明けたりした。


現在韓国にいる家族たちは、私の慰安婦経歴を恥ずかしく思っているけれども、そんなことは関係ないと、過去の苦しい記憶を話し始めた。

学校へ行きたくて

お父さんは過酷な重労働に従事して,お酒がとても好きだったようだ。

いつも貧乏していた。お母さんが市場でモヤシを扱う仕事をしていて、仕事が終わると、モヤシの根の部分を拾って来て、塩を入れて料理してくれた。
お父さんが大酒飲みなのでお母さんはいつも苦労していた。
針仕事や野菜商売をして、さらに街頭で酒を売ったりした。

少女、 李玉善は七歳の頃から勉強がしたくて毎日学校に通わせてくれお母さんにせがんだ。その時から勉強がしたくて泣いたが、そんな悲しみは十五歳まで続いた。

玉善が十五,弟(妹)たちがそれぞれ 7歳,5歳,4歳だったある日だ。

お母さんが静かに 玉善を呼んだ。

釜山津駅オドメでうどんを売る食堂があるのだけど,主人に娘がいなくて、養女を欲しがっているが、行くか?

そっちへ行けば学校に通わせてくれるんですか?

そう,そこはご飯も自由に食べることができるし,学校にも通わせてくれると言ってくれてる。

それでは行きます。

これで少女、玉善は食堂に養女に行った。

しかし学校に通わせてくれるという話は真っ赤な嘘だった。養女でもなかった。朝鮮の主人はあらゆる下動きはもちろん酔客の接待までさせた。玉善はお酒の接待を拒否して二回も逃げて、非道く殴られたりした。

それから、数ヶ月の内に、そこの主人は他の居酒屋に玉善を売ってしまった。その店は、芸者の置屋だった。ここでも玉善は夜 12時まで、あらゆる下動きをした。とても大変で、夜に布団の中で枕を濡らしたこともあった。

ここ来てから、まだ1年もならないうちに、満洲まで連れてこられた。
というのは、芸者の置屋さんでおつかいに出された時、白昼大道で拉致にあったのだ。
その時、 42年 7月,玉善は年十六(満15歳)だった。

白昼に強制拉致

午後におつかいに出たが、40歳を過ぎたように見える太っている朝鮮男 2人が手首をぱっと引っ張って、有無を言わさず、力ずくで私をトラックに押し込んだ。

朝鮮チマチョゴリを着たままトラックに積まれて蔚山駅に行ったら、他にも女達が連れてこられていた。

蔚山駅で汽車に乗って二日位かかって倒文に到着した。女達は(貨物室)にのせられたが窓がなくてどこに行く分からなかった。ご飯も食べさせて貰えなかった。

汽車を乗り換えるのであれば、逃げることもできると期待したが、一度も乗り換える事なしに倒文に到着した。

一緒に来た女達は 15人ほどだった。そのうちには十四歳の娘も居て、玉善とおない年の者もいた。みなで汽車から飛びおりて死のうという話もしたが決行することができなかった。

倒文に到着して玉善を含んだ 5人は駅の近くの留置場に監禁された。ここでまたひと晩を寝たが特に玉善だけは独房に監禁した。その理由は今もわからない。あの時もご飯は与えて貰えなかった。

仲間の前で軍人に強姦

倒文から延吉までまた汽車に乗って初めて連れて行かれた所は延吉の同飛行場があった日本軍部隊(現在の延吉社会精神病院前)に、土で建てた幕舍だった。

慰安所看板はなかったし屋根は瓦が無かったことを記憶している。日本軍隊内務班で使った建物だったものを、軍人をしばらく他の所に移動させて女達が使うようにした。

こちらでは施設が窮屈で、10人余りの女達がそれぞれ一つの部屋に入ることができず、部屋一つに 2~3人の女達が入った。

初めには部隊の中庭の草を抜いたり、庭先など掃いたりさせたが、急に軍人たちが部屋に入って来て他の友逹たちが見ている前で、けだもののように女達を強姦した。

こちらにいる時は(コンドーム)も使わないで,性病検査もしないようだ。あの時妊娠した女が一人いたが、子供を生むと日本軍人が連れて行った。



部隊の中には朝鮮人と中国である男たちが勤労奉公部隊(?)としていたが、その数が数十人から数百人にのぼったようだ。玉善はあの時奉公部隊で小将をした朝鮮の男と仲良くなった。奉公部隊は女達がいる慰安所へ来ることができなかったが,夜おそく友逹たちは、その朝鮮の男と密会を持ったりした。


慰安所で初月経

少女、玉善はこちらで初初潮を経験した。

慰安所には飯をたく朝鮮女が別にいたし,朝鮮慰安婦たちは軍人を接待する仕事ばかりした。主人は日本人の夫婦だったが、慰安婦たちは二人を●◎、◆△と呼んだ。

慰安所には日本の女がいたが、この女も慰安婦だったがお金を儲けるために自ら要望して来たことで朝鮮の慰安婦より自由だった。お姉さんと呼ばれた彼女は、主人があまり無理強いすることもなく、客である軍人をそんなにたくさんは引き受けなかった。

43年春になると慰安所が現在の□◎の近所に移動した。

大きい出入口と廊下があるこの慰安所は、出入口内側に羽目板をかけておいて、色んな女達の名前をずっとかけて置いた。

一週間に一度ずつ何人かの軍医たちが来て性病検査をした。606号注射は本当にとても痛かった。

性病は無料で治療をしてくれたが他の病気は治療をしてくれなかった。玉善はおつかいに出てから朝鮮の警察官に頬をなぐられて鼓膜が裂け、耳でうみが出るなどひどい耳疾を病んだが治療をしてくれなくて、今も耳がよく聞こえない。


生理中にも強制性暴行

軍人たちは入口で切符を買ってから女部屋に入って来た。女達は軍人が一人ずついらっしゃる度に、切符を一枚ずつ貰った。

平日に少ない時は 1~2人、普通 10人余り、土~日曜日には 30~40人まで軍人(客)を受けた。

生理中にも軍人を受けなければならなかった。そんな時は主人が黄金色の綿みたいなモノを与えて、下半身の深くに押し入れて受けた。

軍卒と軍官の値段の差はなかった.しかし軍官たちは夜に寝て行ったりしたし,女にお金を余計にくれたりした。

女達が言うことを聞かないとか、お客さんを受けないと、主人が軍人(憲兵)を呼んで殴らせた。

一度はちんちくりん憲兵が革帯を解いて玉善をでたらめに殴るから、はじき飛ばされた記憶もある。特に玉善はよく主人に反抗をするせいで、何度も制裁を受けた。

着ることと食べることは相変らず悽惨な水準だった。

軍人たちがご飯を残せば食べて,残さなければ飢えた。着るモノも、日本軍が着て捨てた下着と足指が割れるようになっている古い靴下を、洗ってはいた。

十四歳の幼い少女が一人慰安所に来たが、この少女は一般軍卒たちを受けないで、部隊で一番高い階級の日本お爺さん(師団長)だけ応待した。師団長が呼べば経理が迎えに出た。この少女は逃げてからつかまって、来た後、また逃げた。部隊で捕まえようと大騷ぎをしたが結局つかまらなかった。

このために慰安婦に対する監視がもっとひどくなった。玉善と違う女が何人も逃げようと計画を立てたが、ばれて計画はつぶされた。

また慰安所が引っ越した所が今の辺病院南側だった。

慰安所で芽生えた愛

解放を控えて戦争が起ると、慰安所の日本人である管理人たちが慰安婦たちを連れて避難していった。

山奥に隠れていたら主人がどこかでお握りを求めて来た。

一時、慰安婦たちどうし 慰安所の管理人夫婦を殺してしまおうという話をしたりしたが、二人は逃げていった。

置き去りにされた慰安婦たちは、原野で朝鮮族農民に会って、延吉にたどり着いた。

こちらで何日間も、もの乞いをして辛うじて食いつないだ。この時は特にソ連軍が女達に悪いことをたくさんした。ソ連軍人たちにつかまれば輪姦にあった後鉄砲に叩かれて死ぬとか、火に・・・・・場合が多かった。

この時、被害者たちも主に朝鮮女性たちが多かった。

もの乞いで数日を耐えていた時、中延吉同飛行場慰安所で会って約束を交わした朝鮮の男と道で偶然に会った。

彼は玉善が初慰安所にある時、勤労奉公のために連れてこられ、部隊内で隠密に約束を交わしたのだった。

当時彼の家は今、玉善婆さんが住むヨンジョンの時八道陣にあった。彼に突然抱きついて、露骨的に求愛をした。そのまま彼の家へ行き、結婚をした。

初恋と生き別れ

しかしご主人は結婚式をあげてから四日後に軍に入隊してしまった。数ヶ月の後に、少しの間帰って来たが、また去って永遠に会えなくなった。後に、主人は北朝鮮に行ったという噂を聞いた。

それから 10年間舅姑の面倒を見ていたが、ある日舅が彼女を呼んで座らした。

長い間、主人もいなくて、舅姑ともに世話するのは苦労が多かった。義父母は、私が良い男を見ておいたから、と結婚をすすめてくれた。

それで再婚した人が今のご主人金奇幻(78)だ。ご主人も五歳の頃お父さんと一緒に満洲に移住。日本軍によって勤労奉公隊に連れて行かれ帰って来た。74歳まで元気だったが 3年前から中風を病んで今は挙動が不便な状態だ。

李玉善お婆さんは勉強に対する意欲が旺盛で、慰安所にある時も和字を学ぶほどだったし,国語も誰より上手だった。

解放の後、八道陣に住みながら工作活動も熱心にして、共産党の活動もしたし,演劇俳優までした。

あんまり利口で周りの人たちが何処かの大学を出たかと問う場合もあるのに,そうする度にお婆さんは ・・・・・・大学農業と出た、と答えると言った。

妊娠ができなくて子がいなかったが、親ない子供を一人拾って来て育てた。息子はちょっと足りないが真面目で,孫が 2人いて皆利口だと自慢した。


水銀で梅毒治療

お婆さんは穏やかに証言を続けた。子がいない理由を聞いて見ると、倭人たちが水銀を当ててそうなった、とその時言った。

慰安所に居る時、梅毒にかかったことがあった。下半身がただれてお客を取れなくなると、軍隊病院でサルバル(606号)注射を打ったが、二三ヶ月が経っても改善しなかった。

すると管理人が軍医から求めて来たシルバー水銀をやや小い・・・・に注いでおいて、・・・・・に上げて乗せて、気化する水銀をお婆さんの下半身に当てた。

お婆さんは顔を覆って下半身を現わしたまま、水銀が乗る・・・・に下半身を突き出したのだ。

このことで梅毒は綺麗に完治したが、お婆さんは永遠に妊娠することができない不妊女性になってしまった。

不慣れな取材陣とご主人が横に座っているにもかかわらずお婆さんは女性の恥ずかしい話まで皆打ち明けた。日本の蛮行を思えば今もあまりにも悔しいと、話を終えたお婆さんはバス停まで出て、取材陣を見送った。

取材陣が乗らなければならないバスが到着するとギョングナムゾングデヨン朴所定事務局長がお婆さんを抱えこんで 、お婆さん,長く生きて下さいねとささやいた。・・・・まで力強い表情で日本を糾弾したお婆さんの目もとが急に、・・・・・透明な涙がぽろぽろ流れた。



付記↓
韓国語の原文(Netscapeでは表示できるがExplorerでは表示できないようだ。ブラウザの使用環境によって異なるようだ)
답사기(김주완)--만주의 조선인?위안부??
-백주대로에서 강제납치된 이옥선(李玉善)-<上>


열여섯 소녀때 위안소서 첫 월경
-동무들 보는 앞에서 일본군인에게 강제겁탈
-내무반 개조한 위안소에서 조선인 징용자와 정분
-?한국가면 수요집회 앞장서겠다?역사의식 뚜렷 일본놈과 싸우겠다.


이옥선할머니(71?부산 보수동 출신)는 연길에서 택시로 한시간 거리인 용정시 팔도진이라는 조그만 시골마을에 살고 있었다. 용정시는 가곡?선구자?에 나오는 일송정으로 유명한 곳이다.

이 할머니는 96년말 연길 고려대학 박상제처장의 도움으로 한국에 생존해있는 오빠와 남동생등 형제들을 찾았다. 이때 할머니는 한국 TV에 출연, 위안부 체험을 일부 털어놓기도 했다.

할머니는 ?일본사람이 원망스럽지 않느냐?는 질문에 ?나는 일본사람이라 하지 않고 ?일본놈?이라고 부른다?면서 ?한국에 갔을때 일본놈 대사관앞에서 한다는 수요집회에 참석하지 못한게 제일 아쉽다?고 말했다.

?대면만 시켜주면 데모하는데 앞장서겠다?는 말도 덧붙였다.

현재 한국에 있는 가족들이 위안부 경력을 부끄럽게 여기지만 자신은 거기에 개의치 않는다며 과거의 고통스런 기억들을 쏟아놓기 시작했다.

학교에 가고싶어

아버지는 막노동을 했고, 술을 아주 좋아했던 것 같다.

집은 찢어지게 가난했다. 어머니가 시장에서 콩나물 고르는 일을 해주고 남은 콩나물 뿌리부분을 주워와 소금을 넣고 삶아먹던 기억이 난다. 아버지가 술꾼이다 보니 어머니가 정말 고생을 많이 했다. 삯바느질에서부터 채소장사를 거쳐 나중엔 길거리에서 해장술을 팔았다.

소녀 이옥선은 일곱살때부터 공부가 하고 싶어 매일 학교에 보내달라고 어머니를 졸랐다. 그때부터 공부가 하고 싶어 운게 열다섯살까지 울었다.

옥선이가 열다섯, 동생들이 각각 7살, 5살, 4살이었던 어느날이었다.

어머니가 조용히 옥선을 불렀다.

?부산진역 어드메에서 우동을 파는 식당이 있는데, 그집에 딸이 없어 양딸을 얻는다는데 가겠느냐?

?거기 가면 학교 보내주나요??

?그래, 거긴 밥도 마음껏 먹을 수 있고, 학교도 보내 준단다?

?그럼 나 갈께요?

이래서 열다섯의 소녀 옥선은 식당에 양딸로 갔다.

그러나 학교를 보내준다는 말은 새빨간 거짓말이었다. 양딸도 아니었다. 조선인 주인은 온갖 허드렛일은 물론 술접대까지 시켰다. 옥선은 술 접대를 거부하고 두번이나 도망을 갔다가 붙잡혀가 얻어맞기도 했다.

거기서 몇달안돼 주인은 울산의 술집에 옥선을 팔아넘겼다. 그집은 기생집이었다. 여기서도 옥선은 밤 12시까지 식모질과 온갖 허드렛일을 도맡아했다. 너무 힘들어 밤에 자다가 오줌을 지린 일도 있었다.

여기 온지도 1년이 채 못돼 만주로 끌려왔다. 기생집에서 심부름을 나왔다가 백주대로에서 납치를 당한 것이다. 그때가 42년 7월, 옥선의 나이 열여섯(만15세)이었다.

백주대로서 강제납치

울산에서 오후에 심부름을 나왔는데 40살이 넘어보이는 뚱뚱한 조선남자 2명이 손목을 확 나꿔채며 ?가자?고 했다. ?싫어요. 놔주세요?했더니 우왁스런 힘으로 ?잔말말고 가자?며 입을 막고 트럭에 실었다.

댕기머리에 조선 치마저고리를 입은채 트럭에 실려 울산역으로 가니 다른 여자들도 몇 몇 끌려와 있었다.

울산역에서 기차를 타고 이틀정도 걸려 도문에 도착했다. 여자들은 짐차통(화물칸)에 실려왔는데 창문이 없어 어디로 가는지도 몰랐다. 밥도 주지 않았다.

기차를 갈아타게 되면 도망할 수도 있으리라 기대했으나 한번도 갈아타는 일 없이 도문에 도착했다.

함께 온 여자들은 15명가량이었다. 그중엔 열네살도 있고 옥선이와 동갑도 있었다. 기차에서 뛰어내려 죽자는 공론도 했으나 결행할 수 없었다.

도문에 도착하여 옥선을 포함한 5명은 역 근처의 유치장에 감금됐다. 여기서 또 하룻밤을 잤는데 유독 옥선만은 독방에 감금했다. 그 이유는 지금도 알 수 없다. 그때까지도 밥은 주지 않았다.

동료앞에서 군인에 겁탈

도문에서 연길까지 다시 기차를 타고 처음 끌려간 곳은 연길의 동비행장이 있던 일본군 부대(현재의 연길 사회정신병원앞)안에 흙으로 지은 막사였다.

위안소 간판은 없었고 지붕은 기와를 얹었던 것으로 기억된다. 일본군대 내무반으로 쓰던 건물이었는데 군인을 당분간 다른 곳으로 이동시키고 여자들이 쓰도록 했다.

이곳에서는 막사가 비좁아 10여명의 여자들이 각각 하나의 방에 들어가지 못하고 방 하나에 2~3명의 여자들이 들었다.

처음엔 부대안 마당에 풀도 뽑고 마당도 쓰는 일을 시켰는데, 갑자기 군인들이 방에 들어와 다른 동무들이 보는 앞에서 짐승처럼 여자들을 겁탈했다.

이곳에 있을땐 사쿠(콘돔)도 안쓰고, 성병검사도 안했던 것 같다. 그때 임신한 여자가 하나 있었는데 아이를 낳자 일본군인이 데려갔다.

좀 있다가 인근에 위안소 건물을 신축해 이사를 했는데 이곳에선 한방에 한명씩 여자들이 들어갔다. .

부대안에는 조선인과 중국인 남자들이 근로봉공대란 이름으로 있었는데 그 숫자가 수십명에서 수백명에 이르렀던 것 같다. 이옥선은 그때 봉공대에서 소대장을 하던 조선인 남자와 눈이 맞아 정분을 맺었다. 봉공대는 여자들이 있는 위안소에 올 수 없었는데, 밤늦게 동무들의 묵인하에 그 조선인 남자와 밀회를 갖기도 했다.

위안소에서 첫 월경

소녀 옥선은 이곳에서 첫 월경을 겪었다. 처음엔 군인들을 받은게 잘못돼 그런줄 알고 잔뜩 겁을 먹었으나 동무와 언니들의 말을 듣고 초경인줄 알아았다.

위안소에는 밥짓는 조선여자가 따로 있었고, 조선 위안부들은 군인을 상대하는 일만 했다. 주인은 일본인 부부였는데, 위안부들은 이들을 ?오바상??오까상?이라 불렀다.

또다른 일본여자가 있었는데 이 여자 역시 위안부였으나 돈을 벌기 위해 자청해 온 것으로 조선인 위안부보다 자유로웠다. ?네상?이라고 불리운 그녀는 주인이 별로 강압하지 않아 군인들을 그다지 많이 받지 않았다.

43년 봄이 되자 위안소가 현재의 서시장 부근으로 옮겨갔다.

큰 출입구와 복도가 있는 이 위안소는 출입구 안쪽에 널판지를 걸어놓고 ?도미코??아카다?등 여자들의 이름을 죽 걸어놓았다. 방문앞에는 따로 여자의 이름을 써놓지 않았으나 성병에 걸리면 출입구의 나무패를 뒤집어 놓았다.

일주일에 한번씩 여러명의 군의관들이 와서 성병검사를 했다. 606호 주사는 정말이지 너무 아팠다.

성병은 무료로 치료를 해줬으나 다른 병은 치료를 해주지 않았다. 이옥선은 심부름을 나갔다가 조선인 경찰관에게 귀뺨을 얻어맞아 고막이 터지고 귀에서 고름이 나는등 심한 귓병을 앓았으나 치료를 해주지 않아 지금도 귀가 잘 들리지 않는다.<계속>


답사기(김주완)--만주의 조선인?위안부??
-백주대로에서 강제납치된 이옥선(李玉善)-<下>

매독치료 위해 수은 쐬어 영구불임
-위안소서 연분맺은 조선 징용자와 해방후 결혼
-결혼후 나흘만에 군입대 수절하다 10년만에 재혼
-생리중에도 솜 쑤셔넣고 짐승처럼 군인 상대

생리중에도 강제 성폭행

군인들은 입구에서 표를 사가지고 여자 방에 들어왔다. 여자들은 군인이 한명씩 다녀 갈때마다 표를 한장씩 뗏다.

평일에 적을땐 1~2명, 보통 10여명, 토-일요일엔 30~40명까지 군인을 받았다.

생리중에도 군인을 받아야 했다. 그럴땐 주인이 누런 솜 같은 걸 줘서 하체 깊숙히 밀어넣고 받았다.

군졸과 군관의 값의 차이는 없었다. 그러나 군관들는 밤에 자고 가기도 했고, 여자에게 돈을 더 얹어주기도 했다.

여자들이 말을 안듣거나 손님을 안받으면 주인이 군인(헌병)을 불러 때리게 했다.

한번은 땅딸보 헌병이 혁대를 풀러 이옥선을 마구 때리는 바람에 데굴데굴 굴렀던 기억도 있다. 특히 이옥선은 자주 주인에게 반항을 하는 바람에 많이 맞았다.

입는 것과 먹는 것은 여전히 처참한 수준이었다.

군인들이 밥을 남기면 먹고, 남기지 않으면 굶었다. 너무 배가 고파 능쟁이풀(돼지풀)을 뜯어다 삶아먹기도 했고, 일본군이 입다 버린 속내의와 발가락이 갈라지게 만든 헌 양말을 주워다 씻어서 신었다.

열네살짜리 어린 소녀가 하나 위안소로 왔는데 이 소녀는 일반 군졸들을 받지 않고 부대에서 제일높은 일본영감(사단장)만 접대했다. 사단장이 부르면 경리가 데리러 왔다. 이 소녀는 달아났다가 붙잡혀 온후 다시 도망했다. 부대에서 잡으려고 난리를 쳤으나 끝내 붙잡히지 않았다.

이 때문에 위안부에 대한 감시가 더욱 심해졌다. 이옥선과 다른 여자 몇몇도 도망하려던 계획을 세웠는데 이 때문에 무산되고 말았다.

또한번 위안소가 옮겨 갔는데 지금의 연변병원 남쪽이었다. 대문까지 달려있는 이곳 위안소에서 계속 위안부 노릇을 하던중 광복을 맞았다.

위안소에서 싹튼 사랑

해방을 앞두고 전쟁이 벌어지자 위안소의 일본인 관리인들이 위안부들을 데리고 피난을 다녔다.

산속 나무밑에 숨어있으면 주인이 어디선가 주먹밥을 구해왔다.

한때 위안부들끼리 ?오바상?아바이를 죽여버리자는 공모를 하기도 했으나, 주인이 지금의 연길공원 뒷산으로 20리쯤 들어간 곳에 있던 헌 초막에 위안부들을 데려다 놓고 ?잠시 기다리라?고 한후 도망을 가버렸다.

광복된줄도 모르고 며칠을 있던 위안부들은 초막에서 조선족 농민을 만나 연길로 다시 들어왔다.

이곳에서 며칠간 비렁뱅이로 구걸을 하며 간신히 연명했다. 이땐 특히 소련군이 여자들에게 못된 짓을 많이 했다. 소련군인들에게 붙잡히면 윤간을 당한후 총에 맞아 죽거나 불에 타죽는 경우가 많았다.

이때 당한 피해자들도 주로 조선여성들이 많았다.

구걸로 수일을 버티던중 연길 동비행장 위안소에서 만나 정분을 맺은 조선인 남자를 길에서 우연히 만났다.

그는 옥선이가 첫 위안소에 있을때 근로봉공대로 끌려와 부대내에서 은밀히 정분을 맺어온 사이였다.

당시 그의 집은 지금 이옥선할머니가 사는 용정시 팔도진에 있었다. 그를 와락 껴안고 ?나를 구해달라?며 노골적으로 구애를 했다. 그길로 그의 집에 와서 결혼을 했다.

첫사랑과 생이별

그러나 남편은 결혼식을 한지 나흘만에 군에 입대를 하고 말았다. 몇달후에 잠시 돌아왔으나 다시 떠나 영원히 산이별을 하고 말았다. 남편은 나중에 북조선으로 갔다는 소문을 들었다.

그로부터 10년간 시부모를 모시고 농사일을 했은데 어느날 시아버지가 그녀를 불러 앉혔다.

?그동안 남편도 없이 시부모 공양한다고 고생 많았다. 내가 좋은 남자를 봐두었으니 재가를 하거라?고 말했다.

그래서 재혼한 사람이 지금의 남편 김기환(78)이다. 남편도 다섯살때 아버지와 함께 만주로 이주, 일본군에 의해 근로봉공대에 끌려갔다가 돌아왔다. 74세까지 밭갈이도 할 정도로 건강했으나 3년전부터 중풍을 앓아 지금은 거동이 불편한 상태다.

이옥선할머니는 공부에 대한 욕심이 많아 위안소에 있을때도 일본글자를 배울 정도였으며, 우리말도 누구보다 유창했다.

해방후 팔도진에 살면서 공작활동도 열심히 하여 부녀주임과 청년단위 조장을 했으며, 연극배우까지 했다.

워낙 똑똑하여 주위사람들이 무슨대학 나왔느냐고 묻는 경우도 있는데, 그럴때 마다 할머니는 ?호미대학 농업과 나왔다?고 거침없이 대답한다고 말했다.

임신을 하지못해 자식이 없었으나 부모없는 아이를 하나 주워와 키웠다. 아들은 좀 모자라지만 성실하고, 손자가 2명 있는데 모두 똑똑하다고 자랑했다.

할머니는 방안에 ?즐거운 우리말 공부?라는 글자판을 걸어놓고 틈틈이 손자들에게 한국어를 가르친다고 한다.

수은으로 매독치료

할머니의 증언은 거침이 없었다. 자식이 없는 이유를 물어보자 ?왜놈들이 수은을 쐬어서 그렇다?고 말했다.

위안소에 있을때 매독이 걸린적이 있었다. 하체가 헐어서 손님을 못받게 되자 군대병원에서 사르바르(606호)주사를 맞았으나 두어달이 지나도 낫지 않았다.

그러자 관리인이 군의관에게서 구해온 은색 수은을 조그만 종지에 부어놓고 불위에 얹어 태우며 기화되는 수은을 할머니의 하체에 쐬었다.

할머니는 얼굴을 가리고 하체를 드러낸체 수은이 타는 종지에 하체를 내밀었던 것이다.

이 경악스런 일로 매독은 씻은 듯이 나았지만 할머니는 영원히 아이를 가질 수 없는 불임여성이 되고 말았다.

낯선 취재진과 남편이 옆에 앉아 있음에도 불구하고 할머니는 여성의 부끄러운 이야기까지 모두 털어놓았다. 일본의 만행을 생각하면 지금도 치가 떨린다며 이야기를 마친 할머니는 버스정류장까지 따라 나와 취재진을 배웅했다.

취재진이 타야 할 버스가 도착하자 경남정대연 박소정 사무국장이 할머니를 껴안으며 ?할머니, 오래 사셔야 해요?라고 속삭였다. 금방까지 당찬 표정으로 일본을 규탄하던 할머니의 눈가가 갑자기 시뻘 개지 더니 투명한 눈물이 주르르 흘러내렸다.




韓国語が理解できる方は韓国語のサイトで読んで下さい。
元慰安婦の証言は、しばしば修正されるので、ココに記録しておく。
サイトをコピーしたのは2007.4月だが、2003年くらいで更新は止まっているもよう。

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