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Sunday, August 18, 2013

The World; Torture Is Often a Temptation And Almost Never Works By JAMES GLANZ NY times

http://www.nytimes.com/2004/05/09/weekinreview/09glan.html


The World; Torture Is Often a Temptation And Almost Never Works
By JAMES GLANZ
Published: May 09, 2004
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IT was two months before Sept. 11, 2001, in an Arab country that will remain unnamed, and the Iraqi subject of the interrogation was not talking. So the translator, a 6-foot-5, iron-jawed local man with scars from the wars he had been in, turned to the interrogator.

''Do you want me to soften him up?'' the translator asked.

No one in the room had any doubt about the import of those words, said Marc Garlasco, an intelligence officer who was present. But instead of continuing with the perfect B-movie script and allowing the stonewalling Iraqi to be beaten up or humiliated, the interrogator blew up.

''Are you nuts?'' he shouted.

After calling a break, he asked the translator if he had ever revealed secrets under torture when he had been captured. Never, the translator said. ''Listen,'' the interrogator lectured him. ''Torture doesn't work.''

Torture can make people talk -- but experienced interrogators know that they usually can't tell if what the subject says under torture or humiliation is true, because the subject will say what he or she thinks will end the torture. Novice interrogators are seldom aware of how compromised information gained under duress is likely to be.


It now seems apparent that after 9/11, scenes like the one in the Arab interrogation room became more rare. Even before the abuses at Abu Ghraib prison in Iraq, at least according to human rights organizations, questionable interrogation practices verging on torture were taking place at bases in Afghanistan and the American detention center at Guantánamo Bay in Cuba.

Whatever the truth of the other allegations, the abuse of prisoners at Abu Ghraib shouts out for an explanation: how could ordinary American soldiers and civilian contractors inflict such degradation on other human beings?

One answer, say psychologists, former intelligence officers and military analysts, may lie in the nature of torture itself: Torture and humiliation is a landscape without boundaries, a terrible slope that even the most practiced interrogators can slide down once they allow themselves to apply the slightest physical or psychological pressure.

Yehezkel Lein, head of the research department at B'Tselem, an Israeli human rights organization, said that after Israel began curbing the use of physical pressure in the late 1980's, it initially limited its use only to so-called ticking time bombs -- prisoners with knowledge of an imminent attack. But he said that B'Tselem research showed that even under those guidelines, roughly 80 percent of detained Palestinians ended up being subjected to physical techniques like severe sleep deprivation, sitting in painful positions for hours and worse.

''It was impossible to draw a clear line,'' Mr. Lein said. He cited the practice of grabbing a prisoner's shirt and shaking him. He said the shaking sometimes became so violent that several prisoners died.

''You can try to put it onto a continuum,'' said Dr. Rona M. Fields, a psychologist and senior researcher at the Center for Advanced Defense Studies at George Washington University's engineering school.

But, she added, ''as soon as the person is intimidated, it's torture.''

Dr. Fields gave another example of how torture in the wrong hands can quickly spiral out of control and waste lives. After the coup that brought Gen. Augusto Pinochet to power in Chile, military interrogators who used ''grotesque and terrible'' torture often killed their subjects before learning anything of value, Dr. Fields said, forcing the country to turn to the better-trained police. Employing methods she said they had learned from C.I.A. and Defense Department manuals, the police were better able to keep their subjects alive until they revealed information, which they sometimes did.



http://www.geocities.jp/nakanolib/etc/colony/srm45-13.htm


Caning is a form of corporal punishmen
大宝・養老両律令においては単に笞(ち)と称され、笞罪(ちざい)



朝鮮笞刑令(明治45年制令第13号)

第一条 三月以下ノ懲役又ハ拘留ニ処スヘキ者ハ其ノ情状ニ依リ笞刑ニ処スルコトヲ得

第二条 百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処スヘキ者左ノ各号ノ一ニ該ルトキハ其ノ情状ニ依リ笞刑ニ処スルコトヲ得
一 朝鮮内ニ一定ノ住居ヲ有セサルトキ
二 無資産ナリト認メタルトキ

第三条 百円以下ノ罰金又ハ科料ノ言渡ヲ受ケタル者其ノ言渡確定後五日内ニ之ヲ完納セサルトキハ検事又ハ即決官署ノ長ハ其ノ情状ニ依リ笞刑ニ換フルコトヲ得但シ笞刑執行中未タ執行セサル笞数ニ相当スル罰金又ハ科料ヲ納メタルトキハ笞刑ヲ免ス

第四条 本令ニ依リ笞刑ニ処シ又ハ罰金若ハ科料ヲ笞刑ニ換フル場合ニ於テハ一日又ハ一円ヲ笞一ニ折算ス其ノ一円ニ満タサルモノハ之ヲ笞一ニ計算ス但シ笞ハ五ヲ下ルコトヲ得ス

第五条 笞刑ハ十六歳以上六十歳以下ノ男子ニ非サレハ之ヲ科スルコトヲ得ス

第六条 笞刑ハ笞ヲ以テ之ヲ臀ヲ打チ之ヲ執行ス

第七条 笞刑ハ笞三十以下ニ在リテハ之ヲ一回ニ執行シ三十迄ヲ増ス毎ニ一回ヲ加フ
2 笞刑ノ執行ハ一日一回ヲ超ユルコトヲ得ス

第八条 笞刑ノ言渡ヲ受ケタル被告人朝鮮内ニ一定ノ住居ヲ有セス又ハ逃走ノ虞アルトキハ検事又ハ即決官署ノ長ハヲ監獄又ハ即決官署ニ留置スルコトヲ得

第九条 笞刑ノ言渡確定シタル者ハ其ノ執行ヲ終ル迄之ヲ監獄又ハ即決官署ニ留置ス第三条ノ規定ニ依リ換刑ノ処分ヲ受ケタル者亦同シ

第十条 検事又ハ即決官署ノ長ハ受刑者ノ心神又ハ身体ノ障礙ニ因リ笞刑ヲ執行スルニ適当ナラスト認ムルトキハ三月以内執行ヲ猶予スルコトヲ得猶予三月ヲ超エ猶笞刑ヲ執行スルニ適当ナラスト認ムルトキハ其ノ執行ヲ免ス
2 前項ノ規定ニ依リ執行ヲ猶予セラレタル者ニ付テハ前条ノ規定ニ依ラサルコトヲ得

第十一条 笞刑ハ監獄又ハ即決官署ニ於テ秘密ニ之ヲ執行ス

第十二条 笞刑ノ時効ハ各本刑ニ付定メタル例ニ依ル

第十三条 本令ハ朝鮮人ニ限リ之ヲ適用ス

附 則

本令ハ明治四十五年四月一日ヨリ之ヲ施行ス



制作者註

この制令は、明治45年3月18日に公布され、4月1日より施行された。
朝鮮笞刑令廃止制令により、本令は大正9年4月1日をもって廃止された。
関連法令
朝鮮笞刑令施行規則(明治45年朝鮮総督府令第32号)

http://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&page=350&word=%A5%ED%A5%B7%A5%A2%A5%C1%A5%E7%A5%B3&cond=&view=10



Hulton Archive/Getty Images
In 1905, Japanese troops beat a Korean man to get a confession.

Hulton Archive
http://www.hultonarchive.com/




米軍の捕虜虐待

「朝鮮日報(電子版)」から貼り付け

(貼り付け開始)

米紙「米軍の捕虜虐待は日帝の韓国人拷問と同格」

ニューヨーク・タイムズ紙がイラクで収監中の捕虜を拷問した米軍の行動を、植民地時代、日帝軍人が行った韓国人に対する拷問と比較した。

同紙は被疑者を尋問する際の拷問の効果を扱った9日付けの記事で、独立運動家と思われる韓国人を殴りつける日本の軍人と、裸で一塊になっているイラク捕虜を見ている米軍兵士の写真を並んで掲載した。

同紙は「100年前と今日」という見出しの2枚の写真について、同紙は、「1905年、日本の軍人らが自白させるため韓国人を殴りつけている」という説明と、「イラク駐留の米国人は捕虜を虐待したという避難を受けている」と説明した。

チョソン・ドットコム

But THIS PHOTO is KOREAN type of physical torture! As the follows:





写真は朝鮮併合以前の1905年に撮影されたもので、
当時の日本側人士による見学風景だと思われる
併合後は、朝鮮総督府により残酷だとみなされ禁止された朝鮮式刑罰だ。



http://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&page=350&word=%A5%ED%A5%B7%A5%A2%A5%C1%A5&cond=&view=10

【韓国】米紙「米軍の捕虜虐待は日帝の韓国人拷問と同格」[05/10]

109 :もう出来ていたのか・・。 :04/05/10 13:59 ID:nYfDFJUQ

>>89

Torture Is Often a Temptation and Almost Never Works
By JAMES GLANZ Published: May 9, 2004
http://www.nytimes.com/2004/05/09/weekinreview/09glan.html
写真(本文中では一言も日本に触れていない)
http://www.nytimes.com/imagepages/2004/05/09/weekinreview/09glan_CA0ready.html


1905年 = 大韓帝国時代
笞刑令 = 軽犯罪でかつ、罰金が払えない時のみ適用 日本にはない方式
http://www.geocities.jp/nakanolib/etc/colony/srm45-13.htm

in 1905 = Korean Empire era
the caning sentence = applies only when the sinner had a misdemeanor and not be able to pay the fine.
the method that has not been exsited exist in Japan



124 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :04/05/10 15:00 ID:UkO6fA5+
NAVER最初の反応
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=531997&work=list&st=&sw=&cp=1

真実はこのとおり
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=532004&work=list&st=&sw=&cp=1

http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=817195&work=list&st=&sw=&cp=1

写真は朝鮮併合以前の1905年に撮影されたもので、
当時の日本側人士による見学風景だと思われる
併合後は、朝鮮総督府により残酷だとみなされ禁止された朝鮮式刑罰だ。

http://news10.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1084143211

(貼り付け終了)


笞罪(ちざい)、笞刑(ちけい)とは、体刑の一つで、笞(むち)を打つことによるもの。鞭打ち刑。wiki

http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/1509653/

朝鮮人にだけ適用した野蛮的「苔刑令」の恐怖>優遇だが?
2010/03/19 10:28

2010/3/18 中央日報
日本人ではなく朝鮮人にだけ適用した野蛮的「苔刑令」の恐怖


「第1条:3カ月以下の懲役または拘留に処する者は、苔刑に処することができる。第4条:罰金や科料を苔刑に変えた場合には、1日の拘留または1ウォン分を鞭一叩きとして打つ。1ウォン未満は1叩きで計算する。ただし、苔刑は5叩き未満であってはならない。第11条:苔刑は監獄または即決官署で秘密裏に執行する。第13条:本令は朝鮮人に限って適用する」



1912年3月18日、朝鮮総督府は「朝鮮苔刑令」を制定、公布した。日本はこれに先立ち「犯罪即決令」を公布して3カ月以下の懲役や苔刑は正式な裁判を通さずに憲兵大将や警察署長が任意に処分することにした。これらの法律は総督府の公的である処罰手段だったのみならず、日本警察の私的な報復手段でもあった。野蛮的暴力が「文明的法治」の名の下、横行した。合わせて制定された「警察犯処罰規則」は「一定の住居や生業なしにあちこちを徘徊する者」「むやみに人の前を阻んだり付きまとったりする者」「官署の督促を受けても煙突の改造、修繕あるいは掃除を疎かにした者」など、警察に目をつけられた者は韓国人なら皆、苔刑を加えることにした。



総督府はその年末、執行者の私感が作用する余地を減らすために再び「苔刑執行心得」を制定した。「第1条:苔刑は受刑者を刑板の上に伏せさせ、両腕を左右に開いて刑板にくくり両足も縛ってから、尻の部分を露出させて鞭で打つ。第11条:刑場に水を準備して随時に受刑者に水を浴びせることにする。第12条:受刑者が悲鳴を上げる恐れがある時には水に濡らした布地で口をふさぐ」多少緩和された野蛮性がこの程度だったので、その前の苔刑がどのようなものだったかは十二分に見当がつく。

人類が初めて法を作った際、「罰」は「罪」に対する報復であるだけだった。被害者が私的にかたきを討てない場合に限り、国家が介入するのが普通だったから、「刑罰」とは「国家が被害者とその親族の代わりに復讐すること」だった。ハンムラビ法典も「八条法禁」も「目には目を、歯には歯を」という観念を盛りこんでいた。犯罪が個人の非定常性または逸脱の結果という考えが定着したのは近代以後だった。合わせて刑罰も「報復」ではなく「矯正」の意を持つようになった。しかし数千年になった観念が一気に変わるということはない。今も「罪と罰」に対しては互いに違う考えが力を競っているので監獄が「教導所」になって、その後「刑務所」になったりしたことや、死刑制度の存廃をめぐる論難が続くのはすべてこのためだ。

チョン・ウヨン・ソウル大学病院・病院歴史文化センター研究教授
http://japanese.joins.com/article/332/127332.html?sectcode=400&servcode=400

引用ここまで




とりあえず・・・・お前は何を言っているんだ?

日本にも江戸時代には「叩き」という刑罰がありました。この記事でも、”刑罰も「報復」ではなく「矯正」の意を持つようになった”・・・と書いているように、近代以前の社会では犯罪者に教育刑など施す余裕はありませんから、二度と犯罪を犯す気がなくなるくらいの処罰を加えていたわけですね。
イスラム圏では今でもそうですし、世界最大の死刑執行国・中国でもそうでしょう。なぜ日本の進歩派が中国を好きなのか理解に苦しみますが(笑)。

明治維新後の日本は西欧風の法を取り入れますから「叩き」とか「遠島」とかの刑罰は姿を消しますし、拷問も禁止になります。しかし李朝末期の朝鮮を旅行した西洋人の紀行文などを読んでみても、当時の朝鮮には中世さながらの残虐な刑罰が残っていたわけですね。
記事にある写真は李朝で行われていた笞刑ですな。

ちなみに中央日報の間違いなどいまさら指摘するのもナンですが、笞(むち)と苔(こけ)は似てるけど全く別の漢字だからね。「むち」と入力して変換すれば間違えっこないのに、どうやって原稿を書いているんだろう?

植民地を経営した国はどこもそうですが、本国とは社会レベルが全く違うものですから、本国の法体系をそのまま取り入れるわけにはいきませんでした。台湾でも後藤新平なんかは、ヒラメの眼を鯛に移植することは出来ない、と言って「生物学的原則」に則り、現地の慣習を尊重しながら状況に合わせた施政を行いました。
朝鮮の場合は台湾と違って併合ですから、最初から日本の制度をかなり取り入れたんですが、やはり社会レベルの差から全く同じにするわけにも・・・・
何しろ今でも偽証罪とか誣告罪とかには絶望的な差があるんだから・・・・・強姦もね(笑)。

現代でも、たとえば学校においては、韓国では教師の権威が強いですから平気で体罰を与えますし、世間もそれを支持します。



これは07年の光州で行われた女性教師による女子中学生への笞刑です(笑)。笞刑の他にも韓国にはユニークな刑罰が残っていまして、09年には、”友達の前で制服のスカートを脱いで教室を回らされ、屈辱を感じた”・・・というようなものもあったそうで・・・光州の女子高だったそうですが、光州事件のあったところですね。
野蛮な土地柄なんでしょうか?画像がないのが残念ですが(笑)。

ですから日帝が残した笞刑などというものは、およそ近代に慣れていない朝鮮人のために激変緩和として残したものですし、そもそも朝鮮伝統の制度です。
”多少緩和された野蛮性がこの程度だったので、その前の苔刑がどのようなものだったかは十二分に見当がつく”・・・見当も何も・・・・お前ら自身が数百年に渡って続けてきた伝統なんだから・・・・ああ、伝統を残さないのが朝鮮の伝統でしたな(笑)。

”警察に目をつけられた者は韓国人なら皆、苔刑を加えることにした”・・・朝鮮文化の伝統に則って扱ってやったんだから文句を言うなよ。



http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2009/08/post_c27a.html

朝鮮差別政策-笞刑令と職員任用制限
「日本は侵略国家であったのか」と題した田母神俊雄論文の冒頭に「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。」とある。では、韓国併合前後から敗戦に至るまでの、日本のさまざまな朝鮮政策をどのように説明するのだろうか。例えば、下記の朝鮮人にのみ適用されたという笞刑令やあからさまな官吏採用差別、また、賃金差別は侵略の結果でなくて何であったというのだろうか。「外交文書で語る日韓併合」金膺龍(合同出版)からの笞刑令抜粋である。
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2 朝鮮笞刑令と職員任用制限

笞刑は李王朝時代まで最も残酷な刑罰と拷問である。罪人を腹這いにさせ両肘をのばし、脚と膝の関節を縄で縛り、臀部ををあらわにし、刑の執行人が細い鞭で叩くのである。最初の一打ちで、皮膚が裂ける強烈なもので、昔、両班どもが下人や奴婢を気儘に打ち、苦しみ叫ぶのを見て楽しんだという。
朝鮮総督府寺内正毅はこの笞刑令を出して朝鮮人にだけ適用した。この笞刑令に寺内の野蛮で、獰猛で、残酷な人間性がうかがわれる。

制令第13号朝鮮笞刑令 1912年3月発令
第1条 3ヶ月以下の懲役又は拘留に処すべき者は、其の情状により笞刑に処すことを得
第2条 2百円以下の罰金又は科料に処すべき者、左の各号の一に該当する
ときは其の情状により笞刑に処すことを得
1、朝鮮内に一定の住所を有せざるとき
2、無資産なりと認めたるとき
第3条 百円以下の罰金又は科料の言い渡しを受けたる者、其の言い渡し確定後5日以内に之を完納せざるときは、検事又は即決官署の長は、其
の情状に依り笞刑に換うることを得第4条 本令に依り笞刑に処し、又は罰金若しくは科料を笞刑に換うる場合に於いては、1日又は一円を笞一に換算す。その1円に満たざるものは之を笞一に計算す。但し笞5を下ることを得ず
第5条 笞刑は16才以上60才以下の男子に非ざれば之を科することを得ず
第6条 笞刑は笞を以て臀を打ち、之を執行す
第7条 笞刑は笞30以下にありては之を1回に執行し、30までを増す毎に1回加ふ笞刑の執行は、1日1回を超ゆることを得ず
第8条 笞刑の言い渡しを受けたる被告人、朝鮮内に一定の住所を有せず、又は逃走の虞れあるときは検事又は即決官署はこれを留置することを得
第9条 笞刑の言い渡し確定したる者はその執行の終るまで、之を監獄又は即決官署に留置す第3条の規定に依り換刑の処分を受けたるもの亦同じ
第10条 笞刑は監獄又は即決官署に於いて秘密に之を執行す
第11条 本令は朝鮮人に限り之を適用す(前掲『入門朝鮮の歴史』)

警務部長は大掃除の監督権までもち、検査に来たとき塵一つでもあったものなら、巡査はサーベルの鞘で家人を打擲した。大掃除(朝鮮では清潔という)とは怖い1日であった。
また、憲兵隊と警察署が裁判所であった。これまで全国に113ヶ所あった区裁判所を廃止して、その職務を警察署と憲兵隊分遣所に移管した。


3 朝鮮人不採用の職員任用制限(但し不文律)

1、できるかぎり朝鮮人を官吏に登用しないこと。
2、やむを得ない事情により朝鮮人を任用する場合は、科学技能をもつものは必
ず排除すること。また職務上の権限をもたせないこと。
3、朝鮮人は重要な地位に任用しないこと
4、朝鮮人高等官の俸給は1百円に止め、判任官の履歴者が俸給30円になれば
必ず退職せしめること。
5、裁判所、検事に朝鮮人を任用しないこと。

268名いた判事検事のうち、朝鮮人判事は10名だけで、検事は1人もいなかった。監獄の典獄(所長)と看守は全部日本人であった。
次の表は、当時朝鮮人と日本人雇員給与(月俸)である。(前掲 『韓国併合資料3』)。
朝鮮人看守       10円~15円
日本人看守       15円から50円(ほかに住居手当10円加算)
朝鮮人判任官      13円~30円
日本人判任官(最下級) 50円
朝鮮人(憲兵巡査補助員) 9円~13円
日本人巡査(最低)   30円

憲兵巡査補助員には、なり手がなくて乞食とならず者をかり集めたといわれている。私が幼年の頃、巡査(補助員)を見ると「乞食が来た」と言っていた大人の話を聞いた記憶が残っている。
ちなみに1935年頃の平均賃金は、日本人男子1円83銭。朝鮮人男子90銭。日本人女子1円6銭。朝鮮人女子49銭で、朝鮮人は日本人の半分であった。これに日本人には役付き手当が支給された。(『太平洋戦争史2』歴史学研究会、青木書店)

官庁用達から締め出し

官公需品取扱業は、朝鮮人には許可されなかった。鉄道駅前での旅館業と食品の販売業も日本人が独占した。軍隊の馬草の納入業者さえできなかった。併合詔書で明治天皇が、「民衆ハ直接朕ガ綏撫ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ増進スベク」といったのは何であったのか。
・・・(以下略)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 
投稿日 2009/08/21 国際・政治 | リンク用URL



http://himadesu.seesaa.net/article/13733553.html

006年02月25日
日本の朝鮮支配の実像 ・・・残忍な刑罰、作付転換の強制
昨年問答有用に投稿したものに少々手を加えて焼き直し。
別の所にも書いたが、日本が支配していた時代の朝鮮には、「笞刑」があった。要するにむち打ちの刑である。
朝鮮笞刑令(1912年3月制令第13号)
第一条 三月以下の懲役又は拘留に処すへき者は其の情状に依り笞刑に処することを得
第二条 百円以下の罰金又は科料に処すへき者左の各号の一に該するときは其の情状に依り笞刑に処することを得
一 朝鮮内に一定の住所を有せさるとき
二 無資産なりと認めたるとき
第六条 笞刑は笞を以て臀を打ち之を執行す
第七条 笞刑は笞三十回以下に在りては之を一回に執行し三十迄を増す毎に一回を加ふ
笞刑の執行は一日一回を超ゆることを得す
(中略)
第十三条 本令は朝鮮人に限り之を適用す
(朴慶植/著 青木書店「日本帝国主義の朝鮮支配 下巻」P-265より)
・・・このように1日30回以下と定められていたにも拘らず、実際はそれ以上の回数が行われることもあり、先端に鉛をつけた笞の激痛で気絶させてしてしまうこともあった。
「執行心得」によると、受刑者の両腕両足を板に縛りつけ、泣き叫ぶ声を抑えるために水を濡らした布で口を塞ぐことが指示されていたという。また「死者に対してはその本籍の面長に通告することになっていた」という(同書上巻P-47より)。この残忍な行為についてはmemoさんも投稿している。

また、植民地朝鮮では綿の栽培が進められていた。穀類よりも商品価値が高い作物を奨励するのは植民地経営として当然のことだったと言える。そして貧しい農民に強制するために笞による暴力が利用されたようである。
「全南珍島は古来難治の地方でありましてとても陸地棉栽培など承知しませんので(中略)郡庁に郡守を尋ねて御願い致し栽培者を物色して呼出し必ず播種するよう厳重に申渡して貰ったのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、始めは軽く打たせておりましたが、依然として承諾しないので、段々と強く打たせ二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上がった頃になりますと、愈々兜を脱いで播種することを承諾しました」(久間健一「朝鮮農政の課題」所収、「朝鮮農会報」(農地回顧座談会号)九ノ十一・・・前掲書P-47~48より)
当時の日本政府にとって輸出品となり得る綿の増産が重要だった。朝鮮総督府は農村の現状など構わずに、この作物の栽培を強制していったのである。
「朝鮮で棉の奨励を始めたのは明治三十九年(1906年)頃であるが、この新来の作物を農民に栽培させることは容易ではなかった。之がため当時は憲兵や巡査まで動員して、強制的に栽培せしめたのであった。のみならず棉を栽培しない農家にして、麦や大豆を作っているものは、強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一切ではなかった」
「僕が全北に居る時橘君が農務課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い。農家に対して、お前の家は来年棉を作るかいくら作るかと云ふので、その作り次第で金を貸してやったのです。そうしてその年いって見ると棉は一つも作って居ない。皆麦を作って居るからその麦を踏み倒して終った。随分強行軍をやったものです」(久間健一「朝鮮農政の課題」・・・前掲書P-86~87より)
「利益の確実なるときは敢えて導からさるも、之に向かうは人情の自然として、米作の改良の如きは其の一例とす。然るに、毫も利害得失を了解せしむることなく強要せらるるものあり。陸地棉の如きは三年継続して不作なりしに、尚耕作及反別五割を増加せしめらる。斯くの如きは人民の不利益を計るものあり」
「又煙草・棉の共同販売は、其の価格は時価より著しく廉価なるが如きあり」
「少量の繭の共同販売の如きは、販売価格を以て取扱所に往復の経費を償ふに足らさるに拘らす、各個に販売するを得す」
「人参・煙草の耕作は諸種の規則に制限せられ、之に反し政府の都合にて利益とならざる陸地棉・桑畑を強制栽培せしめたるは不条理なり」(朝鮮憲兵隊司令部編「朝鮮騒擾事件状況」)

当然の如く、棉の流通で甘い汁を吸う御用商人も存在した。
「棉花販売施設の規定せられし動機は、稍々貯穀奨励に似たる者あり。
其法たる先ず棉作者三萬数千人を以て棉作組合を組織し、組合員をして決して棉花を仲買人に売る能はざらしめ、然る後棉花販売所を設け、一手にて棉花を買収せしむ。
而して買収人として木浦に於ける朝鮮棉業、天平棉業、木浦棉業の三棉繰会社及び榮山に二人、南平に一人を指定せり。
而かして買収価格は米穀棉の大阪に於ける相場を標準とし、運賃を差引たるものと定めたり。総督府が斯の如き制度を定めたるは、一は棉花栽培者の仲買に苦しめらるるを防ぐ為にして、二は棉花の品質を統一して、市場に於ける聲價を増さんが爲なり。
然るに斯くの如き親切なる施設なるに係らず、農民は之を喜ばずして、却つて棉業者をして獨占的利益を獲ましむるに至れり。
既に買収獨占権を得たる棉業者は棉花の品質を評価するに当り、一等を二等とし、二等を三等に値切る等の専横を逞うし、又棉作者が折角两三日程の遠来より、棉花を販売所に運び来りて、之を売却せんとするに、販売所は役人風を振廻して、時間後れたりなど言ひて之を受附けず、貧困なる栽培者は、既に棉花を運ぶべく两三日を費し、更に販売所に収むべく一二日を費す等の事あり、折角の恩典は仇となりて、彼等は爾来決して棉花を栽培せずと嘆息するに至れり。
勿論棉花販売施設によりて、品質の統一せられし効果は争ふべからず、大正二年に於て朝鮮棉の評判非常に揚り、内地には関東方面にまで売出しせは、該施設の効なりと雖も、折角多年奨励の結果好成績を示せし棉花栽培の利益が農民を利せずして、買収人たる二三の棉繰業者を利するに至るは、是れ総督府の公平なる政治と謂ふ可らず。
而して会社令なるものの存在は、猶一層朝鮮に於ける棉業者の獨占的利益を擁護するものにして、益々吾人をして農民の為に憤慨せしめんずんばあらず」(中野正剛「我が観たる満鮮」)

このように外貨獲得のために暴力的な手段によって農民自身の利益とはならない作付転換が強制され、一方で官と癒着した業者が暴利を貪る・・・という、典型的な植民地経営が行われていた。
しかし朝鮮人を搾取し続けていたにも拘らず、この植民地からは投資に見合った利益を上げることはなかなか困難で、やっと軌道に乗ってきた頃(参考)に自殺的な侵略戦争を起して水泡と帰した、とさ。





http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/goumon.html


拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアッピールしている。
又ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難しているている。その一部を左記に示す。 

地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。

しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。

朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。

「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」

つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。

1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。

この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1

監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2

朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3

次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。

シャルル・ダレ 「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」

マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」

日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4


朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。*5

脚注

*1 『法政 二〇〇〇年六月号』「法政大学の歴史三一 韓国統監府に於ける法政大学出身の法務補 佐官」巻末
*2 『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一六九-一七一頁
*3 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一五〇-一五一頁
『斉藤実伝』
*4 日韓二〇〇〇年の真実

*5 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一三二-一四二頁

http://blog-imgs-19.fc2.com/w/i/s/wishpafupafu/233.jpg


デキ心でも死罪?厳しかった「盗人」への罰!



江戸時代の刑罰は、いまの法律に照らし合わせてみると、ずいぶん厳しいものが多い。たとえば、窃盗にかんする刑罰もそのひとつだ。もし盗んだお金が10両以上ならば、死罪となったほどである。江戸時代の10両は、現在の100万円程度。100万円盗んだだけで死刑とは、いまでは考えられないだろう。
この制度は、一回で10両盗んだ場合に限定しているわけではない。何度か盗みを働くうちに、盗んだ合計金額が10両を超えれば、すぐに死刑が適用された。品物を盗んだ場合も、品物を値段に換算して判断した。また、強盗のような凶悪な犯罪だけではなく、出来心でついそこにあったお金をくすねてしまったという場合にも適用された。つまり、商家の奉公人が、そこに無造作に置いてあったお金を、つい懐に入れてしまったとしても、これが10両以上なら、有無をいわさず死刑となったのである。
では、10両を超えない少額の盗みの場合はどうだったのだろうか。盗んだ額が10両未満の場合は、罪人であるとひと目でわかる入れ墨をされ、敲(たたき)刑に処された。50回または100回も叩かれるので、死罪ではないとはいえ、けっして軽い刑とはいえなかった。このように、盗人にたいする刑罰がひじょうに厳しかったため、心根の優しい主人は、奉公人が出来心でお金をくすねてしまったようなときは、盗みの事実を役人に届けるのをちゅうちょするようにもなる。
ところが、そんなことをしたら、今度は自分の身が危なかった。盗みの被害にあったにもかかわらず、被害を報告しなかったことが発覚した場合、共犯とみなされて、被害者にも加害者と同じ刑罰が下されることがあったのである。そのため、たとえ奉公人が出来心で盗んだとしても、見逃してやることはなかなかむずかしかった。なかには、たとえ10両以上盗まれていても、使用人の命をなんとか助けてやりたいと、被害金額をあえて少なめに申告してやる主人はいたという。


http://edoken2.exblog.jp/i4/



今日は 3月29日 えっ!! 違うよ~ と 思った人は、右のカレンダーの「旧」暦を見てね

明治5(1872)刺青禁止令 発令される!!



江戸時代には懲罰の意味から、犯罪者の額や顔など一見してわかる場所に、 [ 悪 ] 、[ 犬 ] などの [ 文字の入れ墨 ] を施した地方の奉行所もありました。

八代将軍徳川吉宗 ( 1684~1751 年 ) が統治した亨保 5 年 ( 1720 年 ) に、それまでの耳そぎ、鼻そぎの刑、顔への入れ墨刑に代えて、腕にする入れ墨の刑を窃盗罪などに対する刑罰として単独で、あるいは敲 ( たたき 、注参照 ) や、所ばらい( 追放 ) の付加刑としてき正式に採用しましたが、武士には適用せずにもっぱら町人階級に最も多く用いられました。(江戸博覧強記P169 江戸文化歴史検定 1級参考書)

Roshi Ensei lifting a heavy beam
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個・浪子燕青」

入れ墨は再犯 防止の目的もあり、窃盗罪などの初犯では一般に前述した敲 ( たた )きの刑を科し、再犯者には 男女を問わず左腕に入れ墨を入れました

その方法は木綿針 10 本位を束にした道具で皮膚を突き、針跡に指で墨を塗り、水で墨を洗った後に紙で結んで 3 日間そのままにして置きました。3 度目の犯罪を犯した者、あるいは 10 両以上の高額窃盗犯に対しては死罪にしました。

明和 3年 ( 1766 年 ) 頃は、龍、般若の面、不動、獄門 ( 生首 ) などの図柄、浮世絵、水滸伝 ( すいこでん ) から ヒントを得た図柄、人物を腕や背中に彫った侠客や、勇み肌の火消し人足が多く現れるようになりました。

遠山金四郎景元は一説には「遠山桜」ではなく「女の生首」か「般若の面」を彫っていたとか 

彫り物 ( 入れ墨 ) が盛んになるにつれて、徳川幕府は江戸における彫り物を、文化 8 年 ( 1811 年 ) と天保 13 年 ( 1842 年 )の 2 度 「 彫り物御停止令 」 により禁止しました

その理由とは風俗を乱す上に、無傷の者がわざわざ総身に彫り物するのは恥ずべきことであり、心得違いであるとするものでした。しかし4~5年後には禁令はゆるみ、処罰される者もありませんでした

よく「親からもらった体に傷をつけるじゃ~ないよ」というものですね ピアスでも言ってましたね

ところが明治維新になると明治 5 年(1872 年 )4 月に東京府下に事実上の 「入墨禁止条例 」 が公布されましたが、これにより裸体または肌ぬぎで往来を歩くこと、往来から見えるところに裸体のままでいることなどが禁じられました。

違式註違(いしきかいい)条例には、裸体、入れ墨、混浴の禁止といった、日本人が外国人によって野蛮人と思われるのではないかというようなものを禁止しました

「俗ニホリモノ ( 彫り物 ) ト唱ヘ、身体ヘ刺繍 ( ししゅう ) 致シ候儀不相成候事」

と発令されましたが、文明国家になるために体裁を整えることに懸命な政府や東京府が、日本在住や訪日の欧米人に対する影響を考慮してとられた措置でした。

ちなみに明治5年3月29日はまだ旧暦を使用しています

明治5年11月9日 (旧暦)に新暦への移行が布告され、
旧暦明治5年12月2日の翌日が新暦の明治6年1月1日です。

2010.9月神 戸市が、「入れ墨露出禁止」の方針を打ち出したのは
2012.3.7橋下市長は「入れ墨職員は首、それが駄目なら入れ墨を消させろ」と述べたそうです

http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_63&uid=260626&fid=260626&thread=1000000&idx=1&page=5&number=152807




152807 ( ^~^)牛と日本人との歴史 Neo 2011/11/04 2,293 0


瘤牛と言われる、白牛
江戸時代 徳川吉宗はインドから白牛を取り寄せて酪農を推進しました。

白牛酪(バター)や牛乳を生産していました。
古代 弥生時代には醍醐というこれは(チーズの一種)もありました。

徳川幕府が推進したのは主に強壮剤や解熱剤の用途でもあるのです。



当時の製法で作られた白牛酪(バター)


牛裂き(うしさき、うしざき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて行われた死刑の方法である。

奈良時代、宮内省典薬寮(てんやくりょう)に「乳牛院(にゅうぎゅういん)」が設置された(平安時代に設置ともいう)。乳牛を飼育し、牛乳を献上、蘇(そ)・酪(らく)・醍醐(だいご)といった乳製品製造を指導した役所である。
長官は「乳長上(ちちのちょうじょう)」と呼ばれ、当初は和薬氏の世襲であった。
なお、直営牧場は摂津の味原(あじう。大阪市東淀川区・大阪府摂津市)にあったという。



平安時代になると、画期的なスロー乗用車「牛車(ぎっしゃ・うしぐるま)」が考案された。
貴族たちはマイ牛車に趣向を凝らし、見せびらかすように乗り回したため、葵(あおい)祭など大きな祭の時には「渋滞」も起こったという。

室町時代になると、関西各地などで「牛市」が開かれるなど、ウシの売買が盛んになった。
「ウシはもうかる」
うわさが広まると、利権にあやかろうとする人々が集まってくる。
後に摂津天王寺(てんのうじ。大阪市天王寺区)で毎年牛市が行われるようになると、天王寺孫右衛門(てんのうじまごえもん)なる総元締(そうもとじめ)が登場、彼の許可がなければウシの売買を行えなくなってしまうのである。 



石橋家文書(いしばしけもんじょ)は、石橋家に伝来した牛市に関連する文書群であり、宝暦4年(1754)の牛市由緒、天正12年(1584)の小出秀政禁制をはじめ、明治3年(1870)頃までの判物、願書、証文などからなる。現在は石橋家より大阪市に寄贈されている。


江戸時代、牛肉や牛乳は一部武士の間で飲食されていた。
江戸幕府八代将軍・徳川吉宗は乳牛の飼育を試み、幕末の大老・井伊直弼は近江彦根(ひこね。滋賀県彦根市)名物牛肉味噌(みそ)を将軍に献上、常陸水戸(茨城県水戸市)藩主・徳川斉昭は、牛肉も牛乳も好物だったと伝えられている。



効能書 牛胆丸・反本丸 江戸時代
彦根藩の井伊家から徳川将軍家などに牛肉の味噌漬を薬用として贈ることが有名だった。牛肉を使用し薬料を配合し丸薬にしたものが作られるようになりました。


現代の近江牛 味噌漬け 



( ^~^)仏教だから牛を喰わなかったというは方便で、たくさん牛は日本人は食料としていました。

http://yama06.at.webry.info/201307/article_52.html

【解けますか?】江戸:江戸の裁判・刑罰
<< 作成日時 : 2013/07/27 22:01 >>
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問題[1146]
町奉行所は江戸の庶民に対して裁判を行ない、犯罪の種類に応じた刑罰を執行しました。
では、江戸の裁判・刑罰についての記述で、間違っているのはどれでしょう?
①金10両以上の盗みは、初犯でも死罪であった
②遠島以上の刑罰の確定には、老中の決済を必要とした
③小塚原刑場では獄死者・刑死者の埋葬も行われた
④笞打や石抱はよく行なわれたが、釣責めはまれだった。



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問題[1145]の正解と解説
正解 ②
解説 町奉行所内には多くの与力・同心たちがいたが、彼らは専門の掛について仕事をしていた。
定橋掛・猿屋町会所見廻りは、『町鑑』にみることができる。
時がたつにしたがって掛の数も増えていく傾向がある。
外国人の警備にあたる外国掛も、幕末になって新設されたものである。
しかし御墓所見廻りは見当たらない。





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