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Thursday, December 19, 2013

Suicide attack in Tengchong myanmar 騰衝での玉砕 in 1944


騰衝県
Tengchong County

拉孟・騰越の戦い


太平洋戦争当時のビルマ(現在のミャンマー)の地理
拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟・騰越地区で行われた、日本軍と中国・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。日本の部隊は援蒋ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蒋ルート遮断後も空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な兵力を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、数に劣る日本軍は圧倒された。日本軍は補給路を断たれ孤立し、撤退命令も出ず、また救援部隊も送られなかったため、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。


騰沖戰役
维基百科,自由的百科全书
騰沖戰役
滇西緬北戰役的一部分

滇西緬北戰役地圖
日期: 1944年5月11日 - 1944年9月14日
地点: 雲南騰沖
結果 中國第二十集團軍擊敗日軍獲勝
參戰方
中華民國 大日本帝国
指揮官和领导者
霍揆彰
方天
闕漢騫 藏重康美大佐
兵力
49,600人
第20集團軍
第53軍
第116師
第13​​0師
第54軍
第198師
第36師
預備第2師
美國陸軍航空14隊一部分
2800人
第56师团一部
18師團歩兵114聯隊一部
伤亡与损失
陣亡9,168人,傷10,200餘人
陣亡2,700餘人
騰沖戰役(日语:騰越の戦い)為抗日戰爭滇西緬北戰役的戰役之一,地點是在中國雲南騰沖,起始時間為1944年5月。9月13日結束。守軍是日軍歩兵148聯隊藏重康美以下約2800人。攻擊部隊為中國遠征軍霍揆彰率領的第二十集團軍。在兵力的絕對優勢與盟軍空軍支援下,經過重大犧牲後才殲滅孤立無援的日軍,是成功的攻堅戰。騰沖是抗日戰爭以來國軍收復的第一個有日軍駐守的縣城。


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敵は幾万ありとても・・・拉孟の戦い

金光恵次郎大佐



「拉孟の戦い」というのは、昭和19(1944)年6月から9月まで、120日間にわたって行われた、日本陸軍と支那国民党精鋭軍、および米軍との混成軍との間で繰り広げられた戦いです。

敵の数は、約5万人です。
迎え撃つ日本軍の守備隊の兵力は、わずか1280名です。しかもそのうちの300名は傷病兵です。
そのわずかな人数で、彼らは120日間もの長い間、勇敢に戦い全員が玉砕しています。

玉砕戦というのは、そのほとんどが逃げ場のない島での戦いです。
ところが拉孟(らもう)は、山中のジャングルの中です。
逃げようと思えば、いくらでも逃げおおせる。
世界の戦史の中でも、めずらしいほど長期間にわたる戦いで玉砕し、散華された我が日本軍のこの戦いは、日本人なら「常識」として語り継がなければならない戦いでもあろうかと思います。


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拉孟(ラモウ)
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拉孟(ラモウ)というのは、ビルマと支那の国境付近にある小さな村です。
中国名を「松山」といいますが、昭和17(1942)年当時は廃村だったそうです。

位置は、怒川という川の西側です。海抜2000メートルの山上です。
東は怒川の大峡谷です。向かいには、鉢巻山という高山があります。
北と南は怒川の二つの支流です。そこには深い渓谷があり、西側にビルマから支那へ抜ける道があります。

気候は日本とすこし似ています。四季の変化に富んでいて、とくに秋は美しかったそうです。

拉孟は、英米連合軍が支那の蒋介石への援助物資を送り込むためのルート上にありました。
昭和17(1942)年5月、日本は援蒋ルートの阻止のため、ここに第56師団を送り込んで、拉孟(ラモウ)を占領します。

そして歩兵第113連隊が、ここに堅固な陣地を築きました。
どうしても拉孟を奪い返したい米支連合軍は、昭和18(1943)年の中期以降、雲南遠征軍を徹底的に鍛え上げるとともに、空から拉孟陣地を攻撃するようになります。
拉孟にいた守備隊は、ここに約100日分の武器弾薬食料を集積して長期戦に備える。

一方、日本軍のいるところ、必ずできたのが民間人による売店や慰安所です。
拉孟の陣地にも、それができていきます。


昭和19(1944)年3月、いよいよ支那国民党の精鋭軍である雲南遠征軍がやってきます。
守備隊を指揮していた松山連隊長は、2コ大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破っています。
そして平戞(へいかつ、拉孟より40キロ南)へ出撃し、6月5日には、全軍を騰越に集結させています。
つまりこの時点で、拉孟(ラモウ)には、わずか1280名の守備隊しか残っていなかったのです。

ところが、是が非でも拉孟を奪いたい米軍は、ジョセフ・スティルウェル米陸軍大将に命じて、蒋介石揮下にある精鋭部隊を鍛え上げ、20万の兵力を持つ雲南遠征軍(指揮衛立煌将軍)を組成します。
この雲南遠征軍は、最新鋭の米軍装備を持つ、蒋介石の直下の最強軍です。

そして雲南遠征軍は、日本の拉孟守備隊との戦いのため、なんと4万8千人の大部隊を、拉孟に派遣し、これを包囲したのです。
対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名だったのです。


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金光隊長
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このとき、拉孟守備隊は、野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎少佐が指揮していました。
しかもその中の300名は、各地の転戦から敵の包囲網をかろうじて突破して陣地に帰還した傷病兵です。ほかに15名の女性たち(売春婦)がいました。

傷病兵や女性たちを頭数にいれても、彼我の兵員数の差は30倍です。
拉孟は、健常者の兵員数だけみれば45倍もの兵力差がある壮絶な戦いとなったのです。

加えて絶対的な火力差です。補給力も違う。航空兵力の有無まで考えあわせたら、その戦力比は、天地ほどの開きがありました。

圧倒的な兵力の差です。しかし拉孟(らもう)に立て篭もっていた日本の兵士たちは、福岡の連隊です。彼らは日本陸軍最強を自認し、自らを「龍兵団」と呼んでいた。
敵が幾万ありとても、戦えば俺たちが必ず勝つ。「龍兵団」は、ものすごく高い若い日本兵たちの集まりです。

指揮を任せられた金光隊長は、現場叩き上げの少佐で、このとき49歳です。
決して若くない。
貧農の息子で、小学校しか出ていません。
けれど彼は、徴兵された後に猛勉強をして、陸軍士官学校を卒業しています。
学者肌の温厚で誠実な人柄です。決して剛毅果断な性格ではない。こわもての風貌でもない。部下を怒鳴ったり、叱ったりすることもない。
無口で弁舌も不得意、地味な男です。

部下の若い精鋭の龍兵団の兵士たちは、龍兵団の屋台骨を支えるたくましい、元気いっぱいの若き兵士たちです。
その部下たちに、戦いが始まる前、金光隊長は、肉体の限界を超えるような重労働を課しました。
敵襲に備えての、防御陣地の構築です。
敵のいかなる砲撃にも耐えうる陣地を作らねばならない。
古来、穴掘りというのは、もっともきつくて苦しい労働です。
しかも場所は険しい山岳中です。
加えてトラックもブルドーザーもない。すべて人力での作業です。

若い兵たちから、当然のように不満の声があがった。
しかし金光隊長は、何も言わず、五十歳近い身で、のこぎりを引き、つるはしやシャベルをふるい、丸太やもっこを担ぎ、土嚢やドラム缶を積み、一心に働いたそうです。
そして金光隊長が仕事を終えるのは、いつも最後の一兵が仕事を終え兵舎に入るのを見届けてからだった。

やるべきことは、やらねばならないのです。
そして彼は、隊長として、それをみんなにやらさなければならない。
けれど彼は、口下手で叱咤激励できるような柄ではありません。
だから何事においても、常に率先垂範・有言実行に徹しようとしたのです。
上官風を吹かせるようなことも金輪際しなかった。
公私ともに陰日向なく、誰に対しても公平であろうとした。

金光隊長は、口舌ではなく背中で兵士たちに語って聞かせたのです。
最初のころ、重労働に不平不満を漏らしていた兵士たちも、そんな金光隊長の背中見て、以後一切、不満の声は上がらなくなったそうです。
さすがは日本男児たちです。
いつしか守備隊の中には、金光隊長のもとでなら頑張れる、やれる、やってやろう!という気迫までもがみなぎったといいます。


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はじまった総攻撃
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昭和19(1944)年4月ごろから、頻繁に小競り合いが起こりだします。
6月2日の午後、敵、雲南遠征軍は、第一回の総攻撃を仕掛けてきました。

凄まじい砲爆撃が、一斉に開始された。
間断なく撃ち込まれる巨弾は、大地を揺るがします。
山の形までが変ってしまうほどの猛烈な砲撃です。

しかし守備隊員が必死で作った陣地は、頑強です。
敵の猛烈な砲撃にも、まるで壊れない。
守備隊の将兵は、陣地の中に身を隠し、息を殺して逆襲のチャンスを待ちます。

いつ果てるともない砲撃が続きます。
敵弾が着弾するたびに、壕の中は頭の上から土砂がこぼれてきます。
落盤すれば命はない。
恐怖の中にあって、兵士達はすぐにでも飛び出したい衝動さえ駆られます。
けれど金光隊長の反撃命令は出ません。
隊員たちはじっと命令を待ち続けた。
砲兵将校である金光隊長は、限られた火力しかない守備隊がむやみに撃ち返して、虎の子の砲の位置を敵に教える愚策、砲弾の無駄、を知っていたのです。

夜になって、ようやく弾雨がやみます。
けれど、ほっとしたのもつかの間、翌朝未明には再び敵の砲撃が開始される。
あらゆる砲種の砲弾が、唸りをあげて落ちてきます。
爆風が土砂を、鉄片を、木片を巻き上げ、硝煙が舞い、昼間だというのに薄暗く、視界さえ利きません。

けれど相変わらず、金光隊長は動かない。
撃たれっ放しです。やられっぱなしです。
それでも彼は動かない。

恐怖の中で、兵士達にあるのは金光少佐への信頼だけです。
全員が隊長の反撃命令を待って、じっと耐えます。

夜、弾雨がやみます。
翌、6月4日の朝、またもや敵の砲撃が開始されます。

ただ、この日は、いつもと様子が違いました。
あれほど猛り狂った砲撃が、ペースダウンしたのです。
敵の観測用飛行機が陣地上空を低空で飛ぶ。
守備隊の陣形、兵の配置などを無線で報告しているようです。

時間が経つにつれ、砲撃の確度が上がりだす。
それまで、むやみやたらな砲撃だったものが、目標物に対する狙い撃ちに変ったのです。
これを見た金光隊長は、敵の歩兵部隊の侵入が近いことを予期します。
そして全将兵に戦闘準備を命じた。

金光隊長の予想は的中します。
雲南遠征軍の先鋒を務める、李士奇師長が率いる新編二八師の歩兵一個団(一個連隊)3000人が、沈黙したまま反抗しない日本軍を侮って、北を12時に見て4時の方向にある上松林陣地に向け、喚声をあげて押し寄せてきたのです。

金光少佐がじっと待ち続けていたのは、まさに、このときでした。
彼の命令一下、掩体壕(えんたいごう・砲撃から身を守るための壕)に潜んでいた守備隊の虎の子の砲が、地上ににゅうと顔を出します。
そして、一斉射撃を開始した。

それまでじっと耐え忍んだのです。
日本の砲撃は、まるでそれまでの憤懣を、激情のままにぶつけるかのような猛射です。
しかも鍛え抜かれた一発必中の猛射です。

狙う。撃つ。
密集して押し寄せる敵兵は、次々になぎ倒され、大混乱に陥る。
敵が逃げ惑います。

砲撃をくぐり抜けて陣地内に迫った敵兵には、歩兵が小銃弾の連射を浴びせます。
あるいは手榴弾を見舞い、撃破する。
それをも突破し肉薄して来た敵兵には、抜刀した、あるいは銃剣をふるった歩兵が次々と襲いかかります。
大日本帝国陸軍中にその名を知られた、九州福岡の「龍兵団」の精兵たちです。強い。強い。

守備隊の熾烈な猛反撃に敵一個連隊は、またたく間に壊滅してしまいます。残兵は遁走した。
そして敵が敗走したのを見届けるや、守備隊の砲はまた忽然と掩体壕に隠れます。
あたりが静まり返る。

6月7日、三日前に手痛い敗北を喫した李士奇師長は、今度こそとばかり自ら新編二八師の主力の7000人を率いて、総力攻撃をしかけてきます。
新たな目標は、守備隊の本道陣地です。
しかし守備隊の反撃はまたしても彼らを上回り、激闘数時間、ついに数倍する敵を粉砕し、敵司令官李士奇さえも戦死させてしまいます。
拉孟守備隊の壮絶な反抗の前に、精鋭新編二八師団7,000名の大軍は、殲滅されてしまったのです。

こうして、緒戦は守備隊の完勝となった。


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真鍋大尉の合流
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6月12日夜、転戦中の松井連隊の傷病兵300名が、負傷した真鍋邦人大尉に率いられ、夜陰に乗じて敵の囲いを突破し、拉孟陣地に帰還、合流しました。
数ヶ月ぶりの戦友との再会に、皆、疲れを忘れて喜び、これからのお互いの健闘を誓い合います。

実は、金光隊長と真鍋大尉は、連隊主力の出撃前、次のような会話を交わしていたのです。
「隊長、大変失礼な言い方ではありますが、女たちは、隊長より、ここでは先輩であります。もう、拉孟を第二の故郷と思っていますから、もし、どこかへ移そうとなさると、噛み付かれますよ。」
ユーモラスな口調で、真鍋は、婦女子の気持ちをいろいろ話してくれ、女たちは、ここで死ぬことさえ、ひそかに望んでいるのだ、真鍋大尉は言いました。

ある兵士が、何かのはずみに女性の一人をつかまえて、おまえは道具じゃないかと罵ったというのです。
その女性は柳眉を逆立て、その兵士が、いくら金を払うと言ってもそばへも寄せ付けなかった。
彼女たちは、すべてここの将兵の妻であり、ときには姉、妹、母であり、家族の気持ちになっているというのです。

負傷して帰還した真鍋大尉を迎えたとき、金光隊長と二人のつもる話のなかで、女性たちのことが再び話題になった。真鍋大尉は言います。
「過日も申し上げましたように、女たちはもうここの守備隊の家族と同様のものです。それに帰れと言ってみましたが、逆に、あたしたちを殺す気ですかと、大変な剣幕で食って掛かるのです。」

たしかに、帰れないことはないのです。
しかし帰すにしても、女たちに十分な護衛をつけてやる余力はありません。
死の危険は、ここにいるよりもむしろ高いのかもしれないのです。
とはいえ、ここにいたら、絶対に生きて帰ることはできない。

続けて真鍋は、「隊長、無理に帰そうとすれば、女たちはかえって薄情だと怨むでしょう。彼女たちは守備隊の一員と考えているのです。女たちが、これから起こってくる戦闘の恐ろしさを知らないから、その場になって、恐怖のあまり狂乱する者がいてはと心配されているのではありませんか? その心配ならご無用です。あれでみな、しっかり者です。非常の際は、女の方がどうかすると男よりしっかりしています。それより隊長、実は申し上げておきたいことがあります。」

「何かね?」

「このようなことを私から言うのは、茶坊主のようでいやですが、陣内のすべて、全部で1,280名、いま隊長どのが心配されていた婦女子を加えて1,300名、隊長のためなら、いつでも笑って死ねる、という気持ちを持っております。」
それを聞いた金光は、はにかんだ笑いを浮かべ、照れくさそうに

「そんなことを言うものじゃないよ。」と言い、しばらくたって、「なあ真鍋君、私はまったくいたらない人間なんだよ。」
金光隊長は、どこまでも謙虚で誠実な人柄だったのです。


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幽鬼か、鬼神の集団か?
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6月14日、先に壊滅した新編二八師団のあとを受け、新編三九師団第百十七団が、拉孟(らもう)陣地の真北にある松山、横股陣地を攻略すべく、猛攻を仕掛けてきます。

金光隊長は、ここでも頭上雨あられと降り注ぐ猛爆をじっと耐えます。
そして、敵の大軍団が防御線ぎりぎりにまで迫ったのを見届けるや、一斉に砲撃の火蓋を切った。

金光隊長直伝の、一糸乱れぬ正確な集中砲火です。兵が斃れる。逃走する。
それでも立ち向かってくる敵兵に対しては、守備隊歩兵が勇躍突撃して阿修羅の如く白兵戦を闘う。

敵味方が入り乱れ、近接戦闘を繰りひろげるのが「白兵戦」です。
そして「白兵戦」は、古来より日本軍の十八番です。
新編三九師第百十七団は予想以上の大打撃を蒙り、またしても敗退します。

ここに至って雲南遠征軍は、拉孟陣地に立てこもる、実数わずか一個大隊程度、吹けば飛ぶような日本軍守備隊の、信じがたい闘志・恐るべき戦闘力をいやというほど思い知らされた。

悔し紛れか、敵・雲南遠征軍は、前にも増して砲弾の雨を降らせ続ける。空からは、シェンノート少将率いる米空軍第十四爆撃隊による機銃掃射、爆弾投下が続きます。

そして雲南遠征軍は、とうとう、国民党主席蒋介石直系の李密師長率いる最精鋭師団、栄誉第一師を前面に押し出してきたのです。
栄誉第一師は、米軍装備で、米軍に鍛え上げられた最新鋭装備、国民党最強の軍団です。

栄誉第一師は、日本兵が話には聞いていても、見たことのなかった新兵器、ロケット砲を投入してきた。その威力は凄まじい。
さらに、ロケット砲による攻撃をやり過ごすため壕にもぐっていると、敵は火炎放射器を使い、壕の中の守備兵を焼き殺そうとする。
膨大な鉄量の爆弾を叩き込み、続いて大規模な強襲をかける。この波状攻撃は11日間も続きます。
そのたびに守備隊も必死に抵抗し、一進一退の攻防が続いた。
そして比較にならぬ寡兵でありながら、日本軍守備隊は栄誉第一師の総力を挙げた猛攻撃を、またもや凌ぎ切ってしまったのです。

蒋介石自慢の栄誉第一師も、新編二十八師、新編三十九師にも劣らぬ犠牲を払いながら、拉孟陣地の一角すら奪うことができなかった。
日本軍の堅塁も傷み、崩れている。援軍も補給も許していない。武器・弾薬・水・食糧も、もう底をついているはずです。
彼らみな疲れきっているはずです。戦死者、負傷者も少なくないはずです。 
拉孟(ラモウ)の日本軍守備隊は、もはや半身不随となってもいるはずなのに、何故、破ることができないのか。
彼ら日本兵は人間なのか? 幽鬼か、鬼神の集団か?

雲南遠征軍は、将軍から兵卒に至るまで、対峙する日本兵に戦慄し、恐怖を覚えはじめます。


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小林中尉
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このころ、金光隊長が司令部宛に打った報告電文があります。
「今までの戦死250名、負傷450名。片手、片足、片眼の傷兵は皆第一線にありて戦闘中。士気極めて旺盛につきご安心を乞う」

絶え間ない砲爆撃、肉弾相討つ白兵戦が、いつ果てるともなく続いたのです。

手を失った兵、足を失って這うしかない兵、眼を失った兵、普通であれば野戦病院行きの重篤な負傷者たち。それでも拉孟(ラモウ)守備隊は、みんなが戦い抜いた。
無理矢理やらされているのではありません。いやいやながらやっているのでもない。軍医が止めても、聞かなかったといいます。
戦友だけを戦わせるわけにはいかない。寝ている暇ななんかねえよ。オレもすぐに行かなければ・・・

夜、砲爆撃が止み、敵が休んでいても、守備隊の兵たちに休息の時はありません。
怪我をして血にまみれていても、死ぬほど疲れていても、傷んだ陣地を一刻も早く補修しておかなければ、次の戦闘で敵に付け入る隙をあたえてしまうのです。

20名の女たちも、それぞれに兵隊服を着て、ある者は男たちの作業を手伝い、ある者は炊事婦として働き、またある者は看護婦として負傷兵を手当てしました。
彼女たちも、いまや拉孟守備隊の欠かせぬ一員となって「戦って」いたのです。

6月28日、垂れ込める沈鬱な雨雲のなかから、4機の戦闘機が姿を現します。
近付いてくる機影を見上げていた日本兵の一人が、甲高い声で叫んだ。

「友軍機だッ!友軍機が来たぞ!」
壕を飛び出した兵たちは、翼に輝く日の丸を見て、手に持った日の丸の小旗を、力いっぱい振りました。

清水千波中尉率いる4機の戦闘機は、敵高射砲の咆哮をものともせず、危険を冒して低空飛行を敢行し、梱包した弾薬を投下した。
そして、別れを惜しむかのように翼を振り、雲の彼方に消えていった。

友軍機が、命がけで運んでくれた弾薬の包みを抱いて、兵たちは、声をあげて泣いたそうです。
このときの守備隊の感激は、筆舌に尽くしがたいものだった。

数度にわたり実施された空中投下の都度、金光隊長は第三三軍司令部にあてて感謝の電文を送っています。
「今日も空投を感謝す。手榴弾約百発、小銃弾約二千発受領、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。」


7月24日、実際に拉孟陣地への空輸を担当した第三三軍配属飛行班長小林憲一中尉の記録があります。
この日、軍偵察機3機と戦闘機隼12機を一団として、50キロの弾薬筒を各軍偵に2個、隼に各1個、計18個吊し、空輸した。15機は、一団となって飛び続け、拉孟(ラモウ)を目指した。

やがて拉孟(ラモウ)陣地上空付近に達すると、敵戦闘機P38、P51が、迎撃のため襲い掛かってきた。
隼は空中戦に突入します。
敵高射砲陣地からは、続けざまに高射砲が放たれる。

そして、弾薬筒を投下するため、目標を定めようと眼下を見下ろしたとき、小林中尉は、想像絶する光景を見ます。
拉孟(ラモウ)陣地の周囲が、全部、敵の陣地と敵兵により、びっしりと埋め尽くされているのです。

小林中尉は手記に、次のように記しています。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くため、一生懸命に動いている。スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた」

そして、友軍機の爆音を聞いて二人、三人と壕を飛び出してきた兵隊達の言いようのない感激の表情が、小林中尉の心をえぐります。
「その時、私の印象に深く残ったものに、モンペ姿の女性が混じって白い布地を振っている姿があった。思うに慰安婦としてここに来た者であろうか、やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

兵隊たちも女たちも、一心に、手をちぎれるほども振り、声を上げ、感謝している。
小林中尉の眼は、熱いものが溢れてかすみ、手袋をぬいでいくら眼をこすっても眼が見えなくなったそうです。

小林機は、低空から2個の弾薬筒を無事投下しました。
そして小林中尉は、涙をぬぐった眼でしっかりと、この何分か、何十分後かに戦死しているかもしれない戦友の顔を刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにするのだけれど、あとからあとから溢れるもので眼はかすみ、どうにもならなかったそうです。

激情に駆られた小林中尉は、弾薬筒を投下後直ちに戦場を離脱すべしとの軍命令にもかかわらず、敵高射砲の弾幕をくぐって急降下します。そして意地の銃弾を、猛然と敵陣地に向け叩き込んだ。

敵弾が愛機の機体を貫きました。
敵の弾が自らの体もかすめた。
それでも小林中尉は、まなじりを決して、弾倉が空になるまで、あらん限りの銃弾を撃ち続けています。


――――――――――
蒋介石の督戦
――――――――――
この頃、敵の雲南遠征軍の将兵たちは、打ち続く挫折と莫大な損害に焦燥していました。
国民政府の主席を務める最高指導者蒋介石もあせった。相手の数十倍の兵力を投下し、しかもその兵力は、国民党の最精鋭部隊です。

膨大な物資援助、資金援助、技術指導、戦術指導を受けている米英に対し、いくら手強いとはいえごく僅かな日本兵を相手にこの有様では顔向けできません。

たまりかねた蒋介石は、全軍の将帥たちに向けて、激しい叱咤の声明を発しました。
そしてこの声明を伝える無電は、同時に日本軍にも傍受され、解読されます。

蒋介石の無電です。
「戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊の道はなお遥かに遠い。各方面における戦績を見ると、予の期待にそわないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。
予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む」

拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、ミイトキーナにおいて、その実勢力に比して、信じがたいほどの反発力を日本軍守備隊は示しました。
実際に最前線で日本軍と戦っている将兵にとっても、日本の陸軍士官学校OB(卒業してはいない)である蒋介石にとっても、日本軍の極めて高い士気、恐るべき戦闘力、頑強さは、想像を絶していたのです。

なかでも拉孟(ラモウ)を取り囲んでいる雲南遠征軍は、米軍から訓練を受け、質・量ともに万全な支援を受けた軍隊です。
決して弱い軍隊ではない。
その彼らが暴風のような猛攻を幾度繰り返しても、怪我人や婦女子を含む少人数がたてこもる孤立無援の拉孟陣地は、いまだ陥ちないのです。陥ちないどころか、わずかな一角さえ奪うことすらできていない。


――――――――――
戸山伍長の結婚
――――――――――
雲南遠征軍は、雲南省昆明付近の守備についていた第八十三師、第百三師を抽出して拉孟に配置し直し、拉孟陣地に対する第三次総攻撃の準備をしました。
そして7月20日、過去最大の集中砲火を行った。

拉孟(ラモウ)守備隊の頭上には、ありとあらゆる砲弾、鉄塊が無数に撃ち込みました。
舞い上がる砂塵と土煙、硝煙であたりは薄暮となったほどです。

轟音の中を、壕に潜む守備隊将兵は、湿気と暑熱のなかで、じっと耐えます。
遠巻きにしていた敵は、徐々に包囲網を狭めてくる。
すきあらば、と突撃の好機を窺う。

そして一気に拉孟陣地を喰らい尽くそうと、大兵を動員して押し寄せました。
拉孟(らもう)守備隊の抵抗はここでも頑強です。
寡兵ながら敵の巨大戦力の侵攻を、あくまで食い止め、ついには撃退してしまいます。

雲南遠征軍は、陣地上空から日本兵に対し、投降を勧告するビラをばらまきます。
精神的ダメージを日本兵に与えようとしたのです。
けれど一読した守備隊の将兵は、腹を抱えて大笑いしています。

8月になりました。
拉孟(ラモウ)守備隊の兵員は、もはや負傷兵を加えても、300人に満たない情況です。

彼我の攻防が本格化してから、すでに二ヶ月経っているのです。
守備隊の兵力は4分の1以下にまで減少している。
以前のように拉孟陣地全体を固め続けることがむずかしくなっています。

そして敢闘空しく、ついに本道陣地まで敵の手に陥ちてしまいます。
金光隊長は、意気軒昂な29名の精鋭を選抜し、7班の砲兵挺身破壊班を組織します。

彼らは雲南遠征軍の軍服や便衣(支那人の私服)を着て、夜陰にまぎれて敵陣内に潜行し破壊活動を行うのです。
最後は必ず見つかることは、わかっています。生還などできない。
彼らは金光隊長と別れの水盃を交わし、勇躍、出発します。


その夜、遅くのことです。
金光の部屋の戸を叩く者がいました。
入ってきたのは、真鍋邦人大尉です。

大尉の後ろ、扉のところには、熊本県天草から慰安婦としてここ拉孟にやってきた菅昭子、そして両眼を負傷し包帯を巻いた戸山伍長が立っています。

「真鍋大尉、隊長に個人的なお願いがあって参りました。」
「何だろう?」
「実は、この二人の結婚を許してやっていただきたいのです。」
「!」
「過日、私が道具云々という件をお話したのを覚えておられますか?その時の兵が戸山伍長で、相手がこの菅昭子です。」
「・・・・・・。」

ここ拉孟陣地にいる人間は、遅かれ早かれ約束された死を迎えます。
そのとき菅昭子は、慰安婦としての自身の歴史に終止符を打ち、人の妻として死にたいという、女としてのただひとつの願望をかけたのです。

一方、戸山伍長は奮戦中爆風を浴びて両眼を失っています。
それでも彼は戦っていた。
その彼を看病し、彼の眼の代わりになって助けているのが、菅昭子だったのです。

たとえ今日結婚しても、もはや夫婦の契りを結ぶことはできません。
幸せな家庭も、小さな赤ちゃんも、二人にはありません。

けれどもし来世があるのなら、その世界で心も肉体も真実の夫婦となりたい。
二人は真鍋大尉にそう話したそうです。
そして三人で金光のもとへやってきたのです。

金光は、真鍋大尉の話を、おだやかな顔で聞きました。
「隊長どの、ここではあなたが父であり、兄です。戸山伍長と菅君の結婚のことを、認めてやっていただけませんか。」
金光隊長は多くを語る人ではありません。
その隊長が、ほのぼのとした表情で二人の結婚を許しました。

そして、三々九度の御神酒がないから、と言って、先ほど決死隊を見送る際に使った盃に水を注ぎ、結婚式の盃の使い方を二人に教えてから、まず戸山伍長の手を取り盃を握らせました。

数日後、戦場に戸山伍長とそばに寄り添う妻昭子の姿がありました。
全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていたのです。

その日の、第三波の敵が来襲します。
甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子に聞いた。
そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めます。

砲弾が唸る中、昭子は「十五、六の少年兵ばかり」と叫びます。
敵兵とはいえ、年端もいかぬ子供を攻撃することに、戸山伍長は一瞬躊躇します。

そのとき、敵少年兵の投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきた。
昭子は凍りつきます。

次の瞬間、手榴弾は轟音とともに炸裂しました。
戸山伍長、昭子夫妻はともに壮烈な戦死を遂げます。

知らせはその夜、真鍋大尉から金光隊長に伝えられました。


――――――――――
砲兵挺身破壊班
――――――――――
七班の砲兵挺身破壊班は、敵の懐深く忍び込み、8月10日の定刻24時を期して敵の諸施設、幾多の砲を爆破します。
敵は大混乱に陥り、明け方まで照明弾を打ち上げ続け厳戒体制をとっている様子が、守備隊からも望見できたそうです。

翌朝、敵が復讐心をたぎらせて猛然と砲撃してきました。
そして、機を見て歩兵が殺到してくる。

白兵戦は、古来より日本軍の得意とするところです。
銃剣で敵を刺す者、ツルハシを振るって敵を叩き伏せる者、戦死した将校の軍刀を武蔵のように両手に握って敵を斬り倒す者、その凄絶な日本軍人の姿は、まさに鬼神の集団だったといいます。

やがて、敵は敗退する。

七班の砲兵挺身破壊班は、8月12日までに27名が帰還しました。
大きな戦果を挙げたものの、全29名のうち、百戦錬磨の武人二人、所軍曹と吉田上等兵が戦死し、還らぬ人となりました。

二人は、見事任務を遂行したのち敵に発見され、部下を逃がすため追いすがる敵の前に敢然と立ちふさがったのです。
覚悟の戦死でした。

この頃から、敵は、地上、空からの攻撃だけでは到底拉孟の堅塁を抜くのは難しいと考え始めました。
日本軍陣地を足元から破壊しようと地下坑道を掘り進み、大量のTNT火薬を仕掛けて爆発させようと計画したのです。

8月20日午前11時、一瞬聴覚が麻痺するほどの大音響とともに、関山陣地は大爆発を起こします。
関山陣地を死守していた辻大尉以下の将兵はことごとく戦死し、陣地が敵の手に陥ちる。

金光隊長は、なんとかして陣地を奪還しようと、夜襲をかけます。
そして一時は奪回に成功しました。

けれど、足元から爆破され掩体が吹き飛ばされた陣地は裸も同然です。
奪回したものの守兵が身を隠す場所がない。
敵の傲然たる砲撃や圧倒的な人海戦術に、なすすべがなかったのです。
金光隊長は、涙を呑んで撤退を命じます。


――――――――――
金光隊長の電文
――――――――――
8月23日午後5時の、金光隊長から司令部宛の電文が残っています。
「19日以来、敵の猛攻に対し死守敢闘せるも、大部の守備兵は不具者となり、また関山を爆破せられました。
2回にわたり夜襲し、これを奪回確保したのですが、敵兵の集中砲撃により百名以上が戦死し、兵力の寡少の関係上、戦線を横股、檜山、音部山、裏山半部、連隊長官舎南方高地、東北高地を連ねる線に整理しました。
その守兵は、片手片足の者が大部分です。
しかし、全力を奮って死守敢闘該線を確保しあり」

同じ8月23日、事態が急迫しつつあるのを感じた金光隊長は、さらに次の電文を送ります。
「最悪の場合、各種報告のため、砲兵隊木下昌巳中尉を脱出させ報告に向かわせます。木下中尉は守備隊本部にあって戦闘参加し、戦況を熟知しています。そして彼は、唯一の無傷の年少気鋭の将校です」

この時点で、もはや守備隊には満足な弾薬はありません。
水も、食糧もない。
百名に満たない不具の将兵が、不眠不休で戦闘を続けているという、眼をそむけたくなるような、悲愴な光景です。

8月26日、この日、蒋介石は雲南省の省都昆明にいました。
そして拉孟、騰越、ミイトキーナを包囲攻撃している自軍に向け、督励の訓電を発します。

「騰越(トウエツ)および拉孟(ラモウ)においては、わが優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍守備隊は、なお孤塁を死守している。これでは国民党軍の名誉を失墜するのみならず、中国の世界的地位をも疑わわれてしまう。
ミイトキーナ、拉孟(ラモウ)、騰越(トウエツ)を死守している日本軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを模範としてわが国軍の名誉を失墜させないことを望む」

8月30日、金光隊長からの司令部宛電文。
「三ヶ月余の戦闘と28日以来、敵の総攻撃により守備兵の健康者は負傷し、更に、長期の戦闘により歩兵砲兵とも、小隊長死傷し皆無となり、守備兵は不具者のみにて音部山の一角及び砲兵隊兵舎西山横股の線に縮小死守、危機の状況なり。
又、弾薬欠乏し、白兵のみの戦闘なるも、突撃し得る健康者なきをもって、兵団の戦況之を許せば、挺身隊を編成し拉孟の確保方依頼す」

弾薬も残りわずかになりました。
銃剣を、あるいは軍刀を振るって白兵戦を闘い、突撃できる兵も、今や数えるほどしかいません。
この状況では、今後この場所を支え続けることはむずかしい。
もはや任務を果たすことが至難となった、という電文です。

決して弱音を吐くことのなかった金光隊長が、自分たち守備隊が玉砕した後、なんとか後事を託すため、挺身隊を組織して派遣していただくことはできないか、と願ったのです。
しかし、この時点で、三三軍司令部にも師団司令部にも、もうその余力も時間もありません。

昭和19年9月5日、金光隊長より司令部宛電文。
「通信途絶を顧慮し、あらかじめ状況を申し上げたく。
四囲の状況急迫し、屢次の戦闘状況報告の如く、全員弾薬糧秣欠乏し、如何とも致し難く、
最後の秋(とき)迫る。
将兵一同死生を超越し、命令を厳守確行、
全力を揮って勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力のためご期待に沿う迄死守し得ず、
誠に申し訳なし。
謹みて、聖寿の無窮皇軍の隆昌と兵団長閣下始め御一同の御武運長久を祈る」

これが、拉孟守備隊金光隊長の最後の電文となりました。
電文を打った直後、金光隊長は無線機を破壊します。
そして暗号書、機密文書等のすべてを焼却した。


――――――――――
木下昌巳中尉
――――――――――
金光隊長が最後の電文を打った二日前のことです。
金光隊長は、木下昌巳中尉を呼びました。

そしてかねて計画していた通り、連絡将校として密かに陣地を脱出し、敵の重囲を突破して、守備隊の戦闘日誌、功績名簿などの重要な報告書を司令部に届けるよう命じます。

指名を受けた木下中尉は、「自分も隊長と一緒に死なせてください」と懇願したといいます。
けれど金光隊長は言った。
「君の気持ちはよくわかる。しかし、全員がここで死んでしまったら、この戦闘の様子は誰が伝えるのだ。師団司令部や軍にとって、この戦闘日誌は、爾後の戦いの貴重な資料だ。
そればかりではない。
将兵の遺族の方々にも、拉孟の守備隊はこのようにして戦った、ということを知ってもらえることになる。それが散華した部下に対する私の責任であり、償いでもある。
いまの私にできることといえば、それしかない。
わかるな?」

兵や、兵たちの遺族の上にまで、深い思いやりを寄せている金光隊長の心情に接し、木下中尉は熱いものがこみ上げてくるのを抑えようもなかったそうです。
「隊長、わかりました。木下はどんなことがあっても必ず、目的を果たすことをお約束いたします。」

この時点で生存者は、重傷者をいれて80名。
9月6日、降り止まぬ雨のもと、敵の砲撃はますます激しさを増してきます。
敵の迫撃砲弾が陣地周辺に集中し、死傷者が続出する。

金光隊長は鞘を捨てた軍刀を握りしめ、戦闘の陣頭指揮にあたっていました。
午後5時、一発の迫撃砲弾が金光隊長のそばに着弾し、炸裂します。
金光隊長は、腹部と大腿部に致命傷を負い、泥土のなかに倒れます。

付近にいた兵たちが、隊長を安全なところに隠そうとするけれど、もう、隠せる場所すらありません。

金光隊長は、深傷を負いながらも、なお毅然と指揮をとり続けようとします。
けれど午後七時、ついに戦火の中で息を引き取りました。享年49歳でした。

この時点で拉孟守備隊は、重傷者をいれても、もはや50名に満たない状態です。
金光隊長戦死のあと、指揮権は真鍋大尉が引き継ぎます。

その夜、真鍋大尉は、護り続けてきた歩兵第百十三連隊の軍旗を焼きました。
彼ら生き残っている将兵の周りには、既に息絶えた戦友たちが累々と横たわっています。
そして動くことのできない重傷兵は、炎に包まれて焼け落ちる軍旗をじっと見つめ、声も上げずに泣きました。

9月7日未明、真鍋大尉は、木下中尉を呼んで、最後の命令を下しました。
拉孟脱出指令です。

木下は、敵兵の死体から剥ぎ取った服をまとい、夜の闇にまぎれ、孤立無援の落ち武者となり、なにがあろうと絶対に生き抜いて、拉孟守備隊かく戦えり、の報を司令部に伝えなければなりません。

真鍋大尉は、木下中尉の持つ公文書に、自らしたためた短い手記を添えました。
「拉孟(ラモウ)の将兵はよく軍旗を護り、連隊長殿が帰られることを信じ、最後の一兵まで血戦を続けます。
小雀はチューチューと鳴いて親雀の帰りを待っております。
私共はどんなことがあっても連隊の名を汚すようなことはいたしません」

死を覚悟した中にあって、彼は残る自分たちを子雀(すずめ)にたとえました。
真鍋大尉は、壮絶な戦いの中にあってさえ、情緒を忘れない人だった。

木下昌巳中尉には、山本熊造伍長と窪山俊作上等兵が同行しました。
3人は真鍋邦人大尉ら生き残りの将兵に見送られ、是が非でも生き抜いて任務を完遂するためにと、闇の向こうに広がる死地に、飛び込みます。


――――――――――
最後のとき
――――――――――
朝日が昇りました。
この日いちにち、残った将兵は必死に戦いました。

もう、弾薬はすべて撃ちつくしています。
手榴弾も、もうありません。
軍刀も銃剣も、ほとんどが折れたり大きく刃こぼれしています。

これまで、鬼気迫る闘いを続けていたが、どうやら最期のときが訪れました。
昭和19年9月7日、午後5時、真鍋大尉は、最後の突撃を決断します。

彼は残った全員を集めて訓示した。
「諸君!、長い間ごくろうであった。ほんとによくやってくれた。亡き金光隊長にかわって、あらためて礼をいう。」

そう言うと真鍋大尉は、軍刀を抜き放ち、
「男らしく、立派に死のうではないか!」と、怒号します。

「いざ!」

先頭に、真鍋大尉。
その後ろに連隊旗手黒川中尉が続きました。
その後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になって追いました。

意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺して殺しました。
自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えて自決しています。

このとき、天草からやってきた女たちは、何よりも大切にしていた晴着の和服に着替えたそうです。そして戦場のすすで汚れた顔に、最後の化粧として口紅をひき、全員、次々に青酸カリをあおりました。
この日まで、喜びも悲しみも共有してきたのです。
辛さも苦しさも分け合ってきた。
その彼女たちは、ともに戦い続けた男たちの運命に殉じ、あとを追ったのです。

そして、
真鍋大尉以下の最後の日本兵たちは、雲南遠征軍の大集団のなかに消えていきました。


この物語には、後日談があります。
玉砕の当日、命令を受けた木下中尉が決死の脱出を試み、奇跡としか言いようのない生還を果たしたのです。
木下中尉は、辛うじて味方の第56師団の前線に辿り着きました。
そして戦闘の様相を克明に報告します。

重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様。
空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面。
弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者。

取り残された邦人女性約15名が臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿などなど。

報告を受ける56師団も、語る木下中尉も、ただ涙あるばかりであったといいます。
松井少将も、部下を救い得なかった無念の思いで、暫し悲憤の落涙を禁ずることができなかったそうです。


──────────────────────────
【編集後記】

いかがでしたか?

拉孟(ラモウ)には、特要員と呼ばれた女性が20名いました。
熊本県天草出身が15名、朝鮮半島出身者が5名です。

特要員というのは、要するに売春婦です。
戦いが始まる前に、金光隊長は、彼女たちに拉孟(ラモウ)からの脱出を命じました。
しかし、日本人女性15人は、拉孟に残ると言って聞かない。
脱出したのは、朝鮮人女性5人だけでした。

その中の一人が後年、NHKと朝日のやらせの「女性国際戦犯法廷」で、後年、「日本兵の自決の巻き添えになるのを恐れ、逃げ出した」、「私たちは置き去りにされた」と証言しました。

このことについて、この戦いの記事を靖国神社の会報に寄稿した桜林美佐さんは、次のように書いています。

~~~~~~~
「逃げた」のか、「逃した」のか、その論議はあまりにも虚しい。
ただ、彼女たちを死なせなかった元「慰安婦」を含む守備隊兵士たちの「優しさ」に敬意を表するのみであり、また彼等の慈悲を踏みにじるような所業には、怒りを通り越し、憐れみすら感じてしまう。

守備隊と共に戦い、玉砕した女性たちは、そのとき既に「慰安婦」としてではなく、まさに「兵士」として最期を迎えたのであり、彼女たちは靖国に祀られたいと願ったのではないか、という思いが頭をよぎる」

そして、桜林美佐さんは、さらに次のように続けます。
「『この戦闘の様子は誰が伝えるのだ』この金光隊長の言葉が六十年を過ぎた今でも、私には聞こえるような気がするのである。
遠く雲南省の果てに、今なお守備隊兵士は孤立し、残されたままだ。
金光は、この拉孟守備隊の真実を「遺族」に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない。
何故なら一億二千万の国民全てが「遺族」であると、私は考えているからだ。
彼等が戦いぶりを「伝え」「残したい」と熱望した、「遺族」である我々日本人の頭の中に、「拉孟」の「ら」の字もあるだろうか。
私たちは骨も拾わず、感謝もせず、ただ忘れるばかりの日本人ではなかったか。
『古い上着』の内ポケットに忘れてきた『最も大切なもの』は、『英霊への想い』なのではないかと、私は思うのである。」

桜林美佐さんの言葉にある「金光はこの拉孟守備隊の真実を遺族に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない」という言葉は、重く私たちにのしかかります。

金光隊長たちは、いったい何のために、そこまでして戦ったのか。
それは東亜の平和のため、私たち日本人を守るためではなかったか。
この歴史こそ、後世に生きる私たちが「常識」として知っておかなければならない事柄なのではないか。

ボクにはそう思えるのです。


(参考文献)
楳本捨三「壮烈 拉孟守備隊」光人社
相良俊輔「菊と龍」光人社
名越二荒之助「昭和の戦争記念館 第五巻」展転社  
blog「大和国奇譚」http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/221276/

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第6章 中国雲南省・ビルマ戦線

この弾が最後だ、手榴弾は自決用だぞ、大事にせよ
雲南省の拉孟・騰越両守備隊の玉砕

日本軍はなぜ拉孟、騰越にいたのか
これまで見てきた玉砕の戦場は、ほとんどが太平洋上の小さな島だった。アメリカ軍が上陸してそこの日本軍守備隊に戦いを挑み、守備隊は善戦敢闘しても、ついに援軍を得られず、全員が死ぬまで戦って玉砕したのだ。海で隔てられていたから、日本軍は援軍派遣の計画を立てても、まったく実行することができなかった。制海権、制空権をアメリカ軍に完全に握られていたから、近寄ることすらできなかった。
ここでとりあげる玉砕の戦場・拉孟と騰越は島ではない。ビルマ(現ミャンマー)の北部で接している中国雲南省の地名である。地続きなのに援軍が送れず、太平洋の島々と同じく、全員死ぬまで戦って玉砕した珍しいケースである。拉孟で約一二〇〇人、騰越で約二〇〇〇人が玉砕した。
なぜ雲南省まで日本軍は進出していたのか。拉孟守備隊や騰越守備隊は日本軍がビルマ全域を占領したときに置かれたわけだが、日本軍がビルマを占領した動機をさぐれば「なるほど」と合点がいく。
つまり、日本はアメリカ・イギリスと戦争をしながら、一方では中国との長い戦争をつづけていたから、ビルマを経由して運ばれる中国援助の米英軍物資を拉孟・騰越で阻止していたのである。
思い起こしてもらいたいことは、日本がアメリカやイギリスと太平洋戦争を始めるまでの四年半、日本は中国大陸で戦争をしていたことである。北京も南京も武漢(当時の慣用でいうなら武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮、鎮は都市の意味)も、広東も海南島もぜんぶ日本が占領していた。太平洋戦争が始まったとき、万里の長城から南だけでも約一〇〇万人の日本人があちこちに駐屯していた。
武漢三鎮を占領したのは太平洋戦争が始まる三年も前だが、そのときすでに中国全土の四七パーセントを占領した(一九三八年一二月二六日、大本営陸軍部発表)。それからさらに三年ほどたってアメリカ・イギリスとの戦争が入るわけだが、その三年間にも増えつづけたから、日本は中国全土の半分以上を占領していたわけである。
中国全土といっても、それは万里の長城から南の地域である。万里の長城から北の部分には満州帝国という、日本の植民地を建設していたのだ(一九三二年三月一日建国)。
日本が占領できなかったところは、広西省(現広西チワン族自治区)、貴州省、四川省、陝西省、甘粛省など、険しい山脈で隔てられているいわゆる奥地だけだった。雲南省も奥地の一つだから、占領できなかった。蒋介石が率いる中国政府は四川省の重慶に政府を移し(もともとは南京の政府があった)、日本の侵略に抗戦していたのである。
主要な国土の大半を日本に占領された蒋介石の中国政府は、外交努力によってアメリカ、イギリス、フランス、さらにはソ連(現ロシア)の援助をとりつけ、武器・弾薬・食糧の援助を受けつつ、抗日戦争を戦っていた。
日本がそのとき、欧米の主要国が日本ではなく中国を全面的に支援していることの現実と意味を十分に理解できれば、中国への軍事的侵略を再検討し、平和的な方法で中国と提携する道を探る機会があったかもしれない。
しかし、当時の日本は、ほんのごく一部の軍人・政治家・ジャーナリスト・学者をのぞいて、日本による中国支配を妨害する米・仏・ソ連の非を鳴らした。中国への援助の中心となっていたのはアメリカとイギリスだったから、その非難の声はこの二カ国に集中した。
アメリカやイギリスが中国への援助をやめさえすれば、蒋介石政府はすぐにでも日本に降伏するだろうに、あいつ等のお陰で日本は中国にたいする戦争をやめることができない、チクショウ!という感情がうずまいていたのだ。やがてそれは鬼畜米英というスローガンにまでなってしまった。
アメリカは中国を援助しつつ、一方では日本への経済制裁(貿易の制限)を徐々に強め、ついに石油の輸出を全面ストップした(一九四一年八月)。日本はそのころ、石油の八割前後をアメリカから輸入していたのだから、ひとたまりもなかった。しかし、事態がそこまできても中国への侵略戦争をやめることができなかった。
こうしてアメリカもイギリスもやっつける、中国への侵略戦争にも勝つ、この二つの目的のもとに、アメリカとイギリスとの戦争に踏み切ったのだ。
それが大東亜戦争だ。それまで戦っていた支那事変(日中戦争の当時の呼称。当時日本は中国を支那と呼んでおり、支那で起こった事変であり、“国際法上の戦争”ではないと主張していた)をふくめ、アメリカ・イギリスとの戦争を当時の日本はそう呼んだ。
アメリカとイギリスをやっつけるとは何か。それは、彼らがもっていた東南アジアの植民地を占領することであった。これは見方を変えれば、アングロサクソンに支配されている東亜の民族(当時は東南アジアという地域名を表す言葉はまだ生まれていなかった。東アジアという意味で東亜と呼ぶのがふつうだった)を解放することでもある。
日本が米英と戦争をするのは、白人の支配から彼らを解放するためなのだ。決して侵略戦争ではない、解放戦争だ。そうして東亜に互いに共存共栄する大東亜共栄圏を建設するのだ。その指導者の役割を日本人が担うのだ。このように日本政府が説明する米英との戦争の大義名分を、少なくとも日本人だけは疑うことなく信じた。
じっさいは、中国への侵略戦争をやめることができなくなって、清水の舞台から飛び降りるつもりで、やむなく始めた戦争だったのだが、政府がそんな“正直な説明”を国民にするはずがない。そして大方の日本人は政府が説明する“美しくも犠牲的なアジアの解放戦争”を疑うことなく信用したのである。
“清水の舞台から飛び降りるつもりで”とは、戦争か避戦かというギリギリのところに追いつめられたとき、ときの陸軍大臣・東条英機中将が首相・近衛文麿にたいして開戦を決断せよと迫ったとき用いた言葉である。近衛はしかし、清水の舞台からは飛び降りずに総辞職、その直後を襲った東条首相の決断で日本はアメリカ・イギリスとの戦争に踏み切ったのである。

連合軍によるビルマへの反抗
“アジアの解放戦争”を錯覚させるような現象が開戦直後のビルマ攻略戦とジャワ攻略戦(蘭印、つまりオランダ領東インド<現インドネシア>の攻略)で見られたことは事実だった。両植民地とも日本軍を解放軍として迎え、住民の作戦にたいする積極的な協力がどこででもみられた。
とくにビルマでは、日本軍がビルマから脱出させ、海南島三亜で教育訓練したビルマ人指揮官(三〇人)を中心に、あらかじめビルマ独立義勇軍を編成し、彼らをともなってタイ経由ビルマ領へ入ったので、日本軍は大歓迎をうけた。義勇軍も雪だるま式に大きな兵力となっていた。義勇軍はのちにビルマ防衛軍として再編成され、日本軍の下士官が教育訓練にあたった。
ビルマで日本軍とビルマ義勇軍の進撃を阻止しようとして戦ったのは、イギリス軍とアメリカ陸軍の指揮官ジョセフ・スティルウェル中将(肩書きは蒋介石の参謀長)に指揮された中国軍だった。ビルマ人を敵とし、準備不足の彼らには日本軍の進撃を阻止できる力はなかった。イギリス軍はインドにしりぞき、中国軍もインドと自国の雲南省にしりぞいた。
このとき中国軍が雲南省にしりぞいた主要なルートが、援蒋ルート(蒋介石政府を援助するルート)、すなわちイギリスやアメリカの援助物資を雲南省経由で中国に送りこむビルマ公路だった。日本軍は中国軍を追いかけて北上し、そしてとまった。そこはすでに雲南省サルウィン河(中国名怒江)の対岸で、中国軍はそこに通してある吊り橋・恵通橋を通って退却したのだ(一九四二年五月)。日本軍が着いたときには恵通橋はすでに爆破され、通ることはできなかった。
ここに日本軍は、ビルマ攻略の最大の目的であるアメリカ・イギリスによる援蒋ルートのひとつビルマルートを切断することに成功したのである。日本軍のビルマ攻略の最大の目的は、ビルマをイギリスの支配から解放するためではなく、じつはこの援蒋ルートのビルマ公路遮断にあったのだ。そのビルマルートの最前線がサルウィン河に架かる恵通橋だった。
日本軍は恵通橋を見下ろすことのできる地点に守備隊を置いた。そこが拉孟である。騰越は援蒋ビルマルートからはちょっと離れており、高黍貢山系を越えた北西約五〇キロにあるが、いずれも連合軍が中国からビルマへ反攻してくる場合に備えて日本守備隊が置かれた最前線だった。
ビルマにたいする連合軍の本格的な反攻は一九四三年秋から始まった。日本軍占領から約一年半ばかりたったころである。
連合軍は、一挙にはラングーン(首都。現ヤンゴン)やマンダレーなど主要地域へなだれこむ準備ができなかったので(イギリス軍は打倒ドイツを優先させた)、インドの北部レドからビルマへ入った。アメリカの部隊もいたが、中心となったのは新編中国軍だった。アメリカは中国支援の一環として中国軍をインドへ空輸してアメリカ式に教育訓練した(約四万人)。それが新編中国軍だ。
最高指揮官は初戦からビルマ派遣の中国軍を指揮していたスティルウェル中将だ。
連合軍はレドから「死の谷」と恐れられたジャングル地帯フーコン谷地を、ミートキナをめざして進撃した。そうして、米中軍が進撃したあとからアメリカ工兵隊の指揮のもとに、全天候型の道路を建設し、石油パイプラインを敷設した。アメリカ軍の北ビルマ反攻作戦は、ビルマ奪回のねらいもあったが、この道路建設・石油パイプライン敷設が最大の目的だったのだ。ラングーン→(鉄道で)ラシオ→(以下トラックで)龍陵→恵通橋→保山→昆明(雲南省の省都)という戦前のビルマ公路に代わるレド公路を建設しようとしていたのである。
ビルマ公路を遮断されたアメリカ・イギリスは、インド各地から輸送機を使ってヒマラヤ越えで軍需物資の輸送をつづけた。ヒマラヤのコブのような山塊を越えて中国領に入るのでハンプ越え(ハンプはコブの意味)と呼ばれたが、金がかかるわりに輸送量はたかがしれていた。それではいっそ道路を建設しようということになったのだ。
フーコンの谷地で米中軍を相手に戦ったのは第一八師団(福岡県久留米で編成)だった。相手は中国軍だったが、アメリカ式に訓練され、武器もアメリカ製で、弾薬も無制限に補給されたので、第一八師団は終始押されっぱなしだった。とにかく、彼らは中国侵略の日本軍の仇をとるつもりで戦っていたから士気もきわめて高かった。
第一八師団は戦死約三二〇〇人、戦傷約一二〇〇人を出し、ほとんど玉砕寸前まで戦って退却した。スティルウェル中将指揮の米中軍が北ビルマの要衝ミートキナを占領したのは、八月三日(一九四四年)だった。

拉孟、騰越守備隊の奮戦と玉砕
レドからフーコンを通ってきた米中軍がミートキナの攻略にかかっていたころ、一九四四年五月一一日、中国軍がサルウィン河を越えて反攻を開始した。アメリカ軍工兵隊や情報部が支援している雲南遠征軍約七万二〇〇〇人だった。雲南省も中国国内であるが、そこに派遣する軍隊に“遠征軍”と命名するほど、中国は広いのだ。
この地域を防衛していたのは第五六師団(第一八師団と同様に福岡県久留米で編成)約一万一〇〇〇人だったが、守るべき正面はサルウィン河に沿って南北に約二五〇キロはあった。しかも数千メートル級の山岳地帯である。中国軍はその長い防衛線の五〇~六〇キロにわたっていっせいに攻撃をしかけてきたのだ。当面の攻略目標が、最前線の拉孟と騰越だったのである。
しかも、中国軍は拉孟・騰越を攻撃しつつ、その後方の龍陵、さらには、拉孟・騰越守備隊が属している師団司令部が置いてある芒市をも攻撃した。拉孟や騰越への道路を遮断し、増援部隊を送らせないためである。龍陵はまっすぐ東に行けば拉孟に達し、北へ向かえば騰越に至るという要衝だ。
二〇〇キロ以上の要地に分散配置していた第五六師団は、各戦線でなんとか防衛はできるものの、中国軍を完全に撃破するほどの戦力はなかった。中国軍とはいえ、アメリカ軍の戦爆連合(戦闘機と爆撃機がいっしょに編隊を組んだもの)が爆撃をおこなって支援した。中国軍が持っている武器はアメリカ軍の優秀な大砲であり、火焔放射器であった。さすがに戦車はなかったが、かつて中国大陸でいつも負けてばかりいた中国軍ではなかったのである。

拉孟守備隊の玉砕
拉孟守備隊が拠る松山陣地への攻撃は、六月一日(一九四四年)から始まった。まずはサルウィン河対岸の鉢巻山から重砲で陣地を破壊し始めたのだ。距離は六キロ前後だかららくらくと届く。
守備隊は金光恵次郎少佐を隊長とする一二六〇人だが、三〇〇人は入院患者だった。戦闘員は、歩兵第一一三連隊(福岡で編成)の約四〇〇人、野砲兵第五六連隊(第五六師団付きの砲兵部隊。福岡県久留米で編成)約三八〇人で、八〇〇人にも満たない。
六月二〇日、守備隊の弾薬庫が砲撃で破壊され、弾薬不足に陥った。二六日には日本の戦闘機が六機飛来して手榴弾と小銃弾を投下補給したが、もちろん充足するほどのものではなかった。
七月に入ると陣地へ撃ちこまれる砲弾は一日三〇〇〇発にものぼった。すでに中国軍の地上部隊が陣地に侵入し、白兵戦も交えた激闘が随所で起こっていた。七月二〇日になると一日八〇〇〇発もの砲撃で陣地は壊滅状態となった。守備隊の残存者は約三〇〇人に減った。ある陣地での戦闘で一挙に二〇〇人もの死傷者をだしたのが大きく響いた。
七月下旬、第五六師団長は拉孟守備隊にたいして「九月上旬までの死守」を命令した。死守とは、守りきれないときは玉砕せよという意味である。この死守命令が届いたころ、糧秣(食糧)倉庫が砲撃により炎上した。弾薬欠乏に加えて、守備隊は一人二日で乾パン一袋となった。
八月に入ると、陣地のあちこちに中国軍が侵入し、白兵戦が頻発した。八月三日、守備隊は「(歩兵第一一三連隊の)軍旗は旗棹(さお)からはずして、腹に巻きつけ、(棹についている)御紋章は地下深く埋め、旗棹は奉焼せり(焼き奉った)」と電報した。
八月八日、すでに戦える者は二〇〇人に減っていたが、二八人の挺身破壊隊が編成され、中国軍陣地へ突入して、山砲や自動貨車などを破壊して引き揚げた。挺身隊は中国人の普段着である便衣姿で潜入したという。
八月一二日、日本軍機一三機が飛来し、弾薬を投下補給した。金光守備隊長は次の感謝電を打った。
「今日も空投を感謝す。手榴弾一〇〇〇発、小銃弾二〇〇〇発受領す。将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感激し、攻め寄る敵を粉砕しつつあり……わが飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは、守備隊将兵の心痛にたえざるところなり。余り無理なきようお願いす」
八月二〇日、陣地最大の関山陣地を、中国軍はトンネルを掘ってきて爆薬をしかけ、崩壊させた。守備隊は銃剣をふるって、侵入してきた中国兵と渡り合った。このとき中国軍は火焔放射器を使用した。
八月二三日、金光守備隊長の戦況報告電報。
「守兵は片手、片足の者大部なるも、全力をふるって死守敢闘、該線を確保しあり」。守備隊はこのころ一〇〇人に減った。師団長が命じた「九月上旬まで死守」の、九月上旬が近づきつつあった。
八月三〇日、金光守備隊長の電報。
「守兵は不具者(負傷して五体満足でない者)のみにて、音部山(陣地の中央に位置していた)の一角及び砲兵隊兵舎、西山、横股(いずれも音部山に近接している)の線に縮小して死守しある危険の状況なり。また弾薬欠乏して白兵のみの戦闘なるも突撃しうる健康者なきをもって、兵団(第五六師団を指している)主力の戦況これを許せば挺身隊を編成し、拉孟の確保方を依頼す」
もうほとんど戦えないと正直に告白している。しかし、師団には挺身隊を送りこむ戦力はなかった。龍陵から拉孟への道は中国軍が充満していたのだ。
金光守備隊長はついに最後の電報を打った。
「四囲の状況急迫し、屡次の戦況報告(しばしば送った戦況報告)のごとき全員弾薬食糧欠乏し、いかんともいたし難く、最後のとき迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力をふるってよく勇戦し、死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力のためご期待に沿うまで死守しえず。まことに申訳なし。つつしみて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下(中将・松山祐三師団長を指す)のご武運長久を祈る」
こうして暗号書、公文書を焼却し、無電機も破壊された。
九月六日、金光守備隊長が戦死し、次席者・真鍋邦人大尉が指揮をとった。
九月七日、軍旗を焼き、戦況報告のため木下昌己中尉を、兵二人とともに脱出させた。兵力五〇人に減っていた守備隊は全員がかけ声とともに敵中に突撃して玉砕した。
拉孟陣地からの生還者は一〇人足らずといわれる。あまりにも少ない生還者であるが、戦いが始まる前から患者であったり、戦いの途中で重傷を負った将兵は、すべて自決したのであろう。

騰越守備隊の玉砕
一九四四年六月二七日、拉孟陣地より一カ月ほど遅れて、騰越陣地への砲撃が始まった。騰越は拉孟とはちがって周囲三キロほどの城壁(高さ五メートル、幅二メートル)をもった中国の伝統的な町である。明代につくられたという。騰越城の周囲には二〇〇〇メートルから四〇〇〇メートル級の山があり、騰越守備隊はその山に陣地をもうけて守っていた。
その山陣地の最重要拠点、来鳳山へ中国軍から砲撃が開始されたのである。
騰越守備隊は福岡県久留米で編成された歩兵第一四八連隊主力が守っていた。連隊長・藏重康美大佐が指揮をとっていたが、じっさいに戦力となる将兵は歩兵が約九〇〇人、砲兵が三〇〇人足らずと推定される。その他、工兵、通信、衛生、輜重(補給・輸送担当の部門)などで、憲兵も一〇人ほどいたが、それでも総勢二〇二五人だった。
七月二三日、中国軍は城外の主要な陣地へ総攻撃をかけた。守備隊はこれをすべて撃退した。
七月二六日、連合軍は爆撃連合五七機で各陣地を爆撃。来鳳山陣地では中国軍は火焔放射器を使い始めた。
七月二七日、守備隊は城外の各陣地を撤収して、城内にたてこもった。
七月二八日、第五六師団長は騰越守備隊に死守を命じた。文字どおり全員死ぬまで戦えとの命令である。同師団は師団司令部が置かれていた芒市(騰越から七〇~八〇キロ南)のすぐ東にある龍陵付近で中国軍と激闘中であり、気持としては中国軍を破って、騰越と拉孟に援軍を送りたかったわけである。龍陵を真っ直ぐ東に向かえば拉孟であり、北へ向かえば騰越へ通じる。
しかし、そのもくろみは成功しなかった。アメリカ式武器で装備した中国軍は、今まで中国大陸で相手にしてきた弱い中国軍ではなかった。
八月二日、騰越城内陣地への砲撃は一日三〇〇〇発を超えた。その後、連合軍戦闘機六〇機が飛来、城内を機銃掃射した。
八月五日、連合軍のB25爆撃機が終日城内と城壁を爆撃。一三カ所の城壁が壊され、中国軍はそこから城内へ侵入したが、守備隊はすべて撃退した。
八月一三日、連合軍の戦爆連合二四機が城内を大爆撃。藏重守備隊長戦死。次席者・太田正人大尉が守備隊長となった。
八月一四日、午前七時、中国軍は城内に殺到し、総攻撃に移った。城内では白兵戦が展開されたが、正午ごろ中国軍は撤収した。以後、連日にわたり中国軍の城内侵入があり、撃退に成功したところもあれば、全員戦死で侵入を許したところもあった。
八月一九日、城内に入った中国軍が総攻撃を開始。守備隊は城内の北東方面にじりじりと圧迫された。
八月二一日、延べ一〇〇機を超える空襲と一万五〇〇〇発の砲撃で、残存守備隊は大損害を被った。残存兵力は約六五〇人に減った。当初の三分の一以下である。
八月二五日、午前一一時、日本軍戦闘機一二機が飛来、手榴弾五〇〇発、衛生材料を投下。太田守備隊長の感謝の返電。
「久方振りに日の丸の友軍機、我らの頭上に乱舞するを見、全員涙をもって感謝歓呼す。その心情察せられたし。手榴弾の補給を受け決死班を編成し、将兵は勇躍任につけり。友軍機飛来の際、敵は高射機関砲をもって妨害せるも、全機無事帰還せられしや」
九月一日、侵入中国軍との白兵戦が連日つづいていたが、守備隊は三五〇人に減った。友軍機からの空中投下による爆薬の配給があった。といっても手榴弾は各自一発ずつ、小銃弾一〇発ずつで、騰越守備隊最後の弾薬交付となった。「小隊長が、この弾を渡す時、『この弾が最後だ、手榴弾は自決用だぞ、大事にせよ――』と、最後に言った一言が胸を刺した」(吉野孝公『騰越玉砕記』)。
九月三日、日本陸軍の第三三軍による龍陵総攻撃が始まった。これを「断作戦」と呼んだが、成功しなかった。第三三軍は第五六師団、第二師団を基幹とする兵団である。したがって、騰越や拉孟で戦いつつあった守備隊(第五六師団所属)も、大別すれば第三三軍の将兵だ。このころ、ビルマにはこの第三三軍と第二八軍、第一五軍の三軍があり、それをビルマ方面軍司令官が指揮していたのである。
九月一一日、連日の白兵戦で残存兵力は七〇人に減った。太田守備隊長は電報を時間をおいて二通打った。
「敵は兵力を増強して攻撃を強行し、わが方を圧迫す。城内北東隅付近において本部を中心に円形陣を形成し、最後の血戦を試みんとす。器材皆無にして鉄帽等により極力工事中なるも(鉄カブトで塹壕を掘っているという意味か――引用者)、敵の破壊力大にしてはるかに及ばず。損害続出していかんともしがたし」(午前四時)
「守備隊本部前八〇メートルにおいて激戦中。軍旗は〇九〇〇(午前九時)涙とともに奉焼せり。将兵よく奮闘せり。多数の将兵を捧じて作戦の支?(ささえること)たるを得ざること申訳なし。聖寿の万歳を寿ぎ奉り、兵団の武運長久を祈る」(午前一〇時)
九月一二日、守備隊は最後の突撃をおこなうことになった。太田守備隊長は次の電報を打って、暗号書を焼き、無電機を破壊した。
「現状よりするに、一週間以内の持久困難なるをもって、状況によりては一三日連隊長の命日(藏重連隊長は八月一三日戦死)を期し、最後の突撃を敢行し、怒江(サルウィン河)作戦以来の鬱憤を晴らし、武人の最後を飾らんとす。敵砲火の絶対火制下にありて敵の傍若無人を甘受するに忍びず。将兵の心情を察せられたし」
しかし、残存将兵全員が突撃したのではなかった。前出『騰越玉砕記』では次のようになっている。
「(太田)大尉は百四十八連隊の生き残りの将兵を集めて最後の命令を下した。
『騰越守備隊の全軍は死守その任務を全うせり。残余の諸子は、ただちに城外に脱出、以って敵の血路を開き芒市(騰越から七、八キロ南)師団に潜行し騰越部隊の最後を報告すべし。爾後の責任は太田大尉がとる』
命令が終わると大尉は生き残った十数名の親衛隊の勇士と共に敵中に斬り込んだ」
これが九月一三日だった。
脱出組は五、六〇人という。しかし、すべてが日本に生還できたわけではなかった。日本降伏はこの玉砕から約一年後であり、ビルマの日本軍は西から押し寄せたイギリス軍に追われ、最終的にはタイへ脱出したが、その過程でさらに多くの日本軍将兵が戦死した。

一九四五年一月、拉孟、騰越、さらには龍陵、芒市、ワンチン、遮放(いずれも雲南省)と抜いた中国軍の雲南遠征軍はナンカン(ビルマ領内)というところで、レドからフーコンを東に進み、ミートキナを落とした米中軍とドッキングした。そのときの写真をみると、レドから進撃した新編中国軍は身なりもアメリカ兵並だが、中国軍の雲南遠征軍の兵隊は綿入れのモコモコした軍服を身につけ、足には草鞋をはいている。アメリカ軍も靴まで面倒を見切れなかったようだ。
レドからフーコンを経て、怒江までの沿線を制圧した連合軍は、レド公路の建設を急ピッチで進めた。レドを出発した数百両の輸送トラックの群が、延々一六〇〇キロの道のりを走破し、雲南省昆明に到着したのは二月四日(一九四五年)だった。

なお、ビルマへ派遣された日本軍三三万人のうち一九万人が戦死した。


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蒋介石の嘆き 昭和19年5月、中国の蒋介石は、日本軍により遮断された中印間の援蒋介石ルートの再開を目指して約16個師団の雲南遠征軍を編成し反攻を開始、一方日本の第56師団は、騰越・拉孟等の要地を守備していたが、彼我の兵力の違いは大きく、各守備隊は敵に重包囲された。
「拉孟」は金光少佐以下1300の兵が守っていたが、敵は米式に近代化された数十倍の兵力をもって攻撃、守備隊は孤立無援のなか6月2日より百余日を耐え抜いた。
「騰越」は蔵重大佐以下2000名の守備隊がいたが、敵の5個師団5万の大軍に包囲された。6月27日から始まった戦闘は9月13日まで続いた。

昭和19年7月30日、陸軍参謀総長より拉孟守備隊に激励電
「拉孟守備隊が、依然戦略要地を確保して、優秀で執拗な強大な敵軍に対し少ない兵員でよく奮闘し、敵に甚大な損害を与えているのは、誠に感激に堪えない。
その武勲は、その都度、陛下にご報告申し上げている。(後略)」

8月25日、騰越守備隊発電
「久しぶりに日の丸・友軍機が我等の頭上に飛ぶのを見て、全員が涙をもって感謝歓呼しました。この心情をお察し下さい。手榴弾の補給を受け、決死班の編成をすると将兵は勇躍任務に着いていきました。友軍機飛来の際に敵が高射機関砲を以て妨害しましたが、全機無事に帰還されたでしょうか。」

8月26日、蒋介石総統の激励電文
「騰越および拉孟においては、我が優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍はなお孤塁を死守している。(中略)このような有り様では国軍の名誉を失墜するだけでなく中国の世界的地位をも疑われるようになる、(中略)ミートキーナ・拉孟・騰越を死守している日本軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを範として我が国軍の名誉を失墜させないように望む。」

9月5日、金光隊長は師団司令部に最後の報告を打電
「通信の途絶を恐れ、あらかじめ状況を申し上げます。度重なる戦況報告の通り、全員が弾薬欠乏しており、如何ともし難く最後の時が迫って来ています。将兵みな生死を超越し、命令を厳守して、全力を振るって良く勇戦敢闘しましたが、私の指揮が拙劣で無力のため、ご期待に沿うまで死守できず、誠に申し訳ありません。謹んで聖寿の無窮と皇軍の隆昌と兵団長閣下初めご一同の武運長久を祈ります。」
地獄よりの帰還 当ホームページのエンディング(武士道を伝えよう)の2、蒋介石の嘆き(拉孟守備隊戦記)で紹介したことのある木下中尉は、ご存命で平成13年11月、玉砕の地に慰霊の旅をされ、顕彰文を士官学校会報「偕行」平成15年10月号に発表されました。

以下はその木下昌巳氏(陸士56期)の5ページに亘る手記の中の最後の部分で、平成14年10月に書かれたものです。


守備隊長の戦死

昭和19年9月6日、横股陣地の前方、西山陣地では、激しい迫撃砲の炸裂昔と銃撃戦が続いている。愈々最期の時が近づいて釆たようだ。日暮れを待ち、横股陣地の中隊の兵を壕に集めたが、八名しか居ない。生き残っている者は、明日に追っている自分の最後を肌で感じている。10榴の掩蓋の中は、負傷者で溢れ、血の臭い、坤き声の中から、
「水をくれ、水を!」
「手瑠弾をくれ!」
正に地獄絵そのものである。
大隊本部の松崎幹雄軍医大尉は、自決用の昇汞水を、何時兵隊に配ろうかと迷っている。「此所で、俺と一緒に死んでくれ」と、最後の別れの言葉を残し、陣地を見回り、弾薬壕に入り座り込んだ。
その時ドヤドヤと4、5名の将兵が雪崩れ込んできた。よく見ると、真鍋大尉と聯隊旗手の黒川敏夫中尉56期である。続いて、片手の無い加登住中尉がフラフラと転げ込んできた。手榴弾を握りしめている。
奇しくも、同期生3名が最後の時に、一堂ならぬ壕内で顔を合わせたが、極限の逼迫した状況下で、傷の手当ては勿論、語り合うことすら出来なかった。
真鍋大尉に、金光守備隊長の安否と、軍旗について問いかけた。
「守備隊長は、西山陣地で夕刻戦死された。軍旗は俺が腹に巻いている。御紋章と旗幹は、音部山と西山の中間に埋めてきた」と。
金光守備隊長から「最後の時には脱出報告せよ」と、命ぜられていたことが頭に浮かんだ。
然し、1時間前に「一緒に死んでくれ」と、約束したばかりである。
守備隊長の命令との板挟みに苦しんだが結論が出ず、真鍋大尉に判断を仰ぐ他ないと考えた。
真鍋大尉は「それでは直ちに脱出せよ。司令部に報告を済ませたら、功績名簿とこれを松井聯隊長殿に渡してくれ」と、走り書きした通信紙と共に油紙に包んだ書類を託された。
伝令2名を選び、挺進隊が着用した便衣を着て草鞋を履き、横股陣地を脱出したのは、9月7日午前3時を過ぎていた。
包囲している敵の第一線を潜り抜け、水無川を渉る時、敵に発見きれて追い回され、対岸の二の峰の中腹木陰に身を潜めた。

玉砕

今朝後にした友軍陣地を振り返ると、西山陣地斜面から横股陣地にかけて、手瑠弾、迫撃砲の爆煙が濛々と上がっているのがよく見える。
午後には爆煙が、西山陣地斜面から横股陣地に集中してきた。西山陣地は陥落したのだろう。
あれ程激しかった砲撃も、18時頃には静かになり、弾薬壕と思われる付近から白煙が立ち昇っている。軍旗を奉焼した煙だろうか。
加登住中尉は恐らく、片手に持っていた手榴弾で自決しただろう。
昭和17年5月以来遮断していた援蒋ルートは、100日の死闘で1300余名の犠牲を払いながら、昭和19年9月7日、遂に敵に明け渡すことになつた。
龍陵の師団司令部に向かい、磁石を頼りに敵中をさ迷い、敵とすれ違ったり、友軍に射たれたりしながら、4日目の9月11日、友軍の第一線に辿り着き、翌12日、司令部に報告を済ませた。










国旗の重みシリーズ 英雄編~十三秒後のベイル・アウト~

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