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Friday, February 28, 2014

the photo that Japanese soldiers brutally murdered POW in Myanmar

【人物】宋文洲氏が「ミヤンマで日本兵が俘虜(捕虜)惨殺」写真を紹介…古くから出回っている写真
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1393491209/l50
 コンサルタントの宋文洲氏が27日、ツイッターに「ミヤンマで俘虜を惨殺する日本兵。イギリス老兵が公開」という文面とともに1枚の画像を投稿した。「俘虜」は「ふりょ」と読み、捕虜の意味である。

 画像には、欧米人の風貌をした高齢者が“惨殺”の場面とされる写真を持って指で示す姿が写っているのだが、この人物が持っている写真は、今回新たに「公開」されたという性格のものではなく、古くから出回っている写真だ。





http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/elephant/articles/youju_11_40.html

戦没者慰霊碑の彼方に

大倉忠夫

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蝶の写真  沖縄戦は私が湾国民学校高等科一年を終わる頃始まった。航空基地のどまん中の中里に住んでいた私にとって、沖縄戦とは、沖縄に来襲した米軍部隊のグラマンやシコルスキー、ロッキードなどと呼ばれる各種の米軍機が空から襲いかかってくることであった。それは沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わったとされる六月ニニ日とは関係がなかったから、戦闘から逃げまわるだけしかない子供としての戦争体験は八月一五日まで続いたのである。この体験は善かれ悪しかれ私の人生に影を落としており、五〇年を経ても逃れようがない。私は時々歴史とは何だろうか、と自間する。沖縄の芥川賞作家大城立裕が書いた「神女(のろ)」という小説は琉球王尚徳の喜界島遠征を題材にしている。しかし私たちの島にこの史実を証明する資料はない。琉球王府の残した歴史書である中山譜によれば、明国の成化二年二月二八日琉球王が自ら五〇艘余りの船で二千余の兵を引き連れて喜界島に到着したという。これまで屡々兵を出して喜界島を征服しようと試みたが効き目がなく「王怒りて日く、ただに功なきのみならず、却りて侮辱せらる、吾宜しくみずから軍兵を率いて賊兵を平らげんと」。この戦闘は遠征軍にとって大変な苦戦だった様子で「賊兵港口に柵を立て塁を築き矢石雨の如し、決して進むべからず」という状況で、王国軍は大勢の戦死者を出し、計略で喜界島防衛軍を欺き一週問程かかってやっと上陸できたという。上陸した王国軍は「火を放ち屋を焼く、喊声天に振るう」という。わが島人の方は「賊兵大いに驚き、魂、体に付かず、降る者無数なり。賊首、力窮し、擒にせられ誅を受く」というのである。勿論これは王様の権威を領域内に広めることを目的とし編纂したものであろうから人民の抵抗に価値は置かない。私たちが征服にやって来た琉球王に立ち向かった島の祖先の抵抗の歴史を琉球王側の書物でしか知り得ないというのは寂しい。今は庶民も文字を持っている。庶民の歴史は庶民の方法で庶民が残さなければならないと思う。
蝶の写真  第二次世界大戦が終わって五〇年経とうとしている。戦争体験者は圧倒的少数者になりつつある。と同時に戦後を働き詰めに働いたこの世代は今漸く己れの時間を得て書き残すべきことを書き始めている。二年程前のこと、「鹿児島たより」という同郷者のミニコミの消息欄に、もと海軍整備兵の宮原清三氏が「沖縄戦線最後の砦喜界島海軍基地」という本を自費出版されたという記事が小さく載った。宮原氏は喜界島の島中出身という。私は早速宮原氏に本の購入を申し入れたところ、寄贈するということで遠慮なく頂いた。本は決して上出来のものとは言えなかったが、自らの喜界島航空基地における戦争体験を消してはならないという宮原氏の真撃な思いが伝わってきて私はその思いに感動した。私は調査中の、大戦末期喜界島基地から沖縄へ向けて飛び立ち帰って来なかった特攻隊について宮原氏に情報を与えたり、教えを受けたりするようになった。
その宮原氏から喜界島航空基地戦没者慰霊碑の建立を企画しているとの通知が届いた。宮原氏にとってはあの基地で戦死した同僚や送り出した特攻兵の顔を思い出すにつけ、自分たちの生きている内に慰霊の碑を建てなければいずれ忘れられていくという切羽詰まった思いがあったのであろう。私も、あの大戦で島が経験したことが次第にその痕跡を薄めていくことに焦燥を感じていた。忘れたくても忘れてはならないことがある。あの大戦末期、島が経験した悲劇は島の歴史上稀有の事件であった。歴史上滅多に起こらないことを私たちは目撃したのである。戦没者慰霊碑は消えかかった記億を呼ぴ覚まし未来の島の人にこの島が経験した未曾有の災難を考えるきっかけを与える。この慰霊碑建立を呼びかけて来たのが島出身の、軍豚の中では下級の元兵士であったということが心に響いた。反戦反軍論者の私は慰霊碑建立について思想的に恐らく彼とは異なる地平にいたけれども、建立については積極的に賛同した。
蝶の写真  平成六年一〇月二三日、除幕式があり私も参列した。それは宗教色のまったく感じられない儀式で、あっけない程に簡素なものであった。碑は喜界空港と海の間の工事中の公園予定地に、そこだけは僅かに植え込みが施されて佗しげに建っていた。何れは周囲も整備され公園の中の重要なポイントになるだろう。私は元巌部隊(南西諸島航空隊)喜界島派遣隊の老兵士たちがどのような気持ちで碑に向かっていたか分からない。戦後五〇年という歳月はあの戦争を現実感のない遠い物語にしようとしている。島の老婦人たちが老兵士たちに懐かしげに話しかける。私とは五、六歳しか違わない筈であるのに、私とは関係のない世界がそこに繰り広げられていた。死者への思いは胸に迫るものがなく総てのことが坦々と形式的に、事務的に運ばれていく。参列者の中の異色は、終戦直前の喜界島基地から出撃して奇跡的に生き残った特攻隊長岡本元海軍中尉であった。昭和二〇年八月一三日の夕刻、五機の爆弾装着ゼロ戦が喜界島から沖縄に向けて飛び立った。彼らは喜界島に二か月間潜伏していたのである。この作戦的には無駄な特攻出撃命令は、ポツダム宣言受託の外国放送を聞いて錯乱した第五航空艦隊司令長官宇垣中将の責任だと私は思っており、いずれその調査結果を文章にしたいと考えている。それは兎も角、岡本元中尉の口からこの特攻隊の存在した事実が具体的に島の人の前で語られ、現地の新聞に掲載されたことはこの慰霊碑除幕式の思わぬ功績であった。しかし歴史というものは過去の事実を知るという所に立ち止まっては物語を楽しむ以上に現代的意味を持ち得ない。私たちは過去の事実に対して、何故、という問を発し、悲劇の再発を防ぐ手だてを考えなければならない。無数の何故がある。あの大戦中、喜界島で起こった最大の悲劇は巌部隊が撃墜して捕虜にした米軍飛行士トーマス少尉とキンカーン中尉を殺害したことである。奄美大島古仁屋で捕らえられ徳之島に送られた米軍捕虜は殺されず終戦後米軍に引き渡されている。何故喜界島では殺されてしまったのか。私は日本軍側の戦死者の多さとも関係があるのではないかと密かに考えている。この事件は、戦後横浜で行われたBC級戦犯裁判で喜界島事件と呼ばれている。喜界島に来ていた第五航空艦隊司令のS中佐の他に巌部隊や宮本部隊(飛行場工作隊)の兵士たち、総計五人が被告席に立たされた。二名に死刑が宣告され、内一名は減刑され、処刑されたのはS中佐だけである。戦犯に指名されながら逃げおおせた者もいるという。喜界島の戦争を考える時、この事件から目をそらす訳にはいかない。除幕式で碑を見上げながら、私は遠くの空を見ていた。
目を狙え目をという語にどきりとす戦の島の森に見しこと
(朝日歌壇・平成六年八月二一日)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第11号(1995年,東京)より転載した。




http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/elephant/articles/gravestone.html
墓標

大倉 忠夫

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蝶の写真  一九四五年三月末、沖縄周辺に米軍機動部隊が来襲した。鹿児島と沖縄の中間の海上にあって特攻機の中継基地となっていた喜界島はたちまち米艦載機の跳梁する所となった。庭の片隅に掘った簡易な防空壕の真上を機銃の弾着が駆け抜け地響きとともに敷地内に落ちた爆弾の黒煙が壕内に風圧を伴ってなだれ込む凄まじさに私たちは半壊した家を棄てて近くの横穴式墓地跡に逃げ込んだ。度肝を抜かれていた私たちには残っていた無縁仏の墓石もただの石でしかなかった。こうして昔の風葬後での穴居生活が始まった。米軍機が上空にいないわずかな隙を見ては水汲みに走り火を使い、夜になって畑に出るという生活であった。新聞もラジオもなく沖縄がどうなっているのか私たちには全く情報は伝わってこない。五月も半ばを過ぎた頃、島の守備隊長は全島民に対し中央高地の軍指定の壕に入るよう命令した。米軍の上陸が迫っているという(WEB master 註2)。暗闇であった。弟妹の手を引く父母を見失うまいと私は持てるだけの荷物を手にしてサトウキビ畑の広がる平地を横切り中央高地を支える斜面の森に入っていった。指定された壕は巨大な岩の下を掘り下げたもので岩の下敷きになりそうな感じがして怖かった。中は頭がつかえて立つこともできない。翌日から雨になった。粘土質の床はぬかるみ体を横にすることも座ることもままならない。ススキを刈ってきて厚く敷いて寝たが背中に水はじわりと伝わって来た。一日中することもなく、見晴らしのよい所に出て西海岸の方を見ていると低く垂れ込めた雲から米軍機が現れては私たちの村の辺りを爆撃して、また雲の中に入っていく。まさに高みの見物であった。私は島全体が私たちと同じ目に遭っていると思っていたが猛爆を受けているのは飛行場とその周辺の集落だったのである。
蝶の写真  当時、私は国民学校(小学校)高等科二年で一三歳であった。三月の終了式は実施できず四月になっても学校は開かれないまま二年生に進級していた。一級上の連中は高等科卒業ということで資格はどうなっていたか分からないが守備隊に徴用された。私たちは学校の授業もなく緊急配備下の軍隊にも動員されず親たちのように食べ物の心配もせず、島で一番自由な立場にあったのかも知れない。一三歳という子供の特権を利用して大人達の不安をよそに豪の周辺を遊び回っていた。
その日は久しぶりに雨が上がった。私は三、四人の学童グループと早速行動範囲を広げて森の中の小道を上の方に登ってみた。やがて空が開けて平らなところに出た。そこで私たちは奇妙な人に出会ったのだ。その人は道端にしゃがんでいた。肩からまとった毛布の間から出ている異様に長い裸の脛が微かに震えていた。目には白い包帯が巻かれ、くすんだような銀髪が包帯の上に垂れていた。
「アメリカやあらんな?」私たちの声にその人は見えない顔を上げ何かを言うように唇を動かしたが声にはならなかった。やがて私たちは兵隊に追い払われた。
蝶の写真  喜界島にはもう一人、トーマスという名の捕虜がいた。『雲流るる果てに(増補版)』に「聖書を抱きて」の遺書を残している本川譲治(慶大)が第一回出撃で喜界島に不時着した際トーマスに会っている。軍歴一年半、コロンビア大学出身の士官候補生と名乗ったという。  トーマスは間もなく斬首され、本川は五月一一日再出撃して特攻死した。私が山中で会ったあの人は噂にも上らなかった。記憶は薄れ「事実」は語らないことによって幻のように消えていった。
しかし私は折にふれてはあの人の唇の動きを思い出した。英語を習い始めると「あなたは誰? どこから来たの?」という問いを英文で呟いてみたりした。
蝶の写真  時は流れた。一五年前、私は本屋で上坂冬子の『巣鴨プリズン一三号鉄扉』を手に取った。偶然開いたページに「喜界島事件で処刑された海軍大佐佐藤勇の遺族には遺書はもとより身辺雑記の一片すら届いていない」という記述があった。私は知らなかったが、ここで喜界島事件というのは捕虜斬首の件に違いない。
私はBC級戦犯関係の資料を漁り始めた。求めている資料はなかなか見つからなかったが、一〇年ほど前古本屋で『戦犯裁判の実相』という本を見つけたのをきっかけに連絡した研究者からガリ版刷りの「横浜裁判一覧表」を入手した。喜界島事件は二件記載されていた。
「昭和廿年四月頃喜界島にて米俘虜アーサー・エル・トーマス海軍少尉の処刑を故意かつ不法に命じ強制指揮し且許容せり。同年五月頃同島にてディビッド・シー・キンカンノン(米俘虜)を前記俘虜と同様処刑し、他のものはこれに参加せり」との起訴理由概要が記載され、前記佐藤氏の他、K大佐、Y大尉、T少尉が被告人となっている。佐藤氏とT少尉が絞首刑、他の二人は有期刑であった。外の一件の概要の記載は次の通りである。
「昭和廿年五月頃喜界島に於て米俘虜ディビッド・キンカー
ン中尉を斬首せる事に依り該俘虜を故意且不法に殺害せり」
この件では佐藤氏が二〇年、M大尉が七年の有期刑であった。ディビッド・シー・キンカンノンとディビッド・キンカーン中尉は同一人物であろう。一九九五年一二月、私はアメリカの「情報の自由」法を使って喜界島事件の戦犯裁判記録を入手した。ダンボール箱で送られてきた英文の記録はまだ読んでいないが、ようやくあの人の名前を確認するところまで辿り着いた。
David. C. Kincannon

蝶の写真  長い旅であった。いったい何のために? 私にもよく分からない。たぶん、米国から見れば所在も定かでない喜界島の山中で遥か故国の家族に思いを馳せながら死んでいったであろうあの人の墓標がずっと私の心の中に立っていたのだ。私があの人の墓標だった。
『自由と正義』'96年11月号(日本弁護士連合会発行)の巻頭エッセーを転載

※追記
佐藤氏は減刑されず、S二四年七月九日に死刑の執行を受けた。
T少尉は死刑判決が確認されたままS二六年九月一日に元軍医大
尉と共に最後の特別減刑で死刑執行を免れた。  (大倉忠夫)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第13号(1997年,東京)より転載した。
WEB master 註2:昭和20年05月、米軍が喜界島上陸を計画していた事実が最近明らかになっており、沖縄県公文館史料編集室の資料によると「予定日」は05月17日であったとされている。
WEB master 註3:写真は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶の成虫、および幼虫、さなぎ。







http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html

本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士
横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件

(注)(  )内は、「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)の番号、及び「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)に示された事件番号を示す。

(注)以下に列挙した各事件のうち、千葉県一宮町事件、父島事件、台湾軍軍律裁判事件は、横浜裁判で裁かれたものではないが、日本国内で起こった事件、または関連深い事件なので、一緒に記載しておく。

目次

千葉県日吉村事件 千葉県佐原町事件
千葉県紙敷村事件 千葉県一宮町事件
東京立川憲兵隊事件 東部軍一戸中佐事件
東京上野憲兵隊事件 東京陸軍刑務所飛行士焼死事件
東部憲兵隊事件 東海軍事件
中部軍・中部憲兵隊事件 高知憲兵隊事件
西部軍事件 喜界島事件
宮古島事件 石垣島事件
父島事件 台湾軍軍律裁判
【参考文献】
≪千葉県日吉村事件≫

(GHQ報告書3号、350号、624号、871号  再審記録25号、270号)
裁判の期間:1946年4月5日〜20日(境野鷹義は1948年1月7日〜21日)

1945年5月25〜26日の東京大空襲時の深夜、1機の29が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に墜落し、搭乗員11人のうち4人は墜落死したが、5人は捕虜になり、残り2人は瀕死の重傷を負っていた。
夜明けとともに、捕虜5人は茂原憲兵隊員によって連行されたが、重傷の2人は日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊(隊長は満淵正明大尉)に預けられた。

中隊では手当を施す術もなく、2人の米兵は放置され、1人は間もなく死亡するに至り、もう1人のDarwin T.EMRY少尉も苦しみ続けていた。中隊長の満淵正明大尉は、命が助かる見込みはないとして処刑を決意し、集まって来た100人以上の村民が見守る中で衛生兵の境野鷹義曹長に命じて斬首させた。その後、菊地重太郎少尉の指示によって、EMRY少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。

戦犯裁判で中隊長の満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死のために武士の情けで介錯したもの」と主張し、「武士道裁判」と呼ばれた。

判決の結果は、満淵正明大尉は死刑、処刑実行者の境野鷹義曹長は無期懲役(戦後逃亡を続けていたため、分離裁判)、刺突演習を指示した菊地重太郎少尉は懲役25年、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1〜2年となった。



≪千葉県佐原町事件≫

(GHQ報告書395号  再審記録276号)
裁判の期間:1948年4月12日〜5月13日

1945年6月23日、千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)近郊の久賀村(現・多古町)の山中にP51が墜落し、操縦士のJohn V.SCANLAN Jr.中尉がかなりの傷を負って佐原国民学校に置かれていた第152師団司令部へ連行された。

彼は傷の手当を施されることなく、やがて、数人の兵士たちによって学校の前庭に引き出され、群衆の前に引き出されて殴打を受けた。その後、詰めかけた群衆の数は数千人にもふくれあがったので、彼は改めて校庭へ移され、そこでさらに群衆から殴打暴行を受けた。その間、衛生兵が何度かカンフル注射を繰り返したが、数時間後に死亡するに至った。

戦犯裁判の結果は、第152師団参謀長の霜田千代士大佐が懲役40年、同参謀の新郷良夫少佐が懲役5年、酒井興三中尉が懲役5年、高橋一中尉が懲役5年、本宮宇之助中尉が懲役5年などの他、暴行に加わった佐原町民4人も懲役1年となった。

第152師団長の能崎清次中将、同高級副官の笠井平馬少佐、佐原町民7人は、直接の関与はないと認められて無罪となった。



≪千葉県紙敷村事件≫

(GHQ報告書1834号  再審記録296号)
裁判の期間:1948年3月11日〜30日

1945年4月15〜16日の川崎空襲時、1機の29が千葉県市原郡白鳥村(現・市原市)に墜落し、搭乗員11人のうち2人は墜落死したが、9人はパラシュート降下して捕虜になった。

このうちMarvin G.GREENSPAN伍長は夷隅郡紙敷村(現・大多喜町)に降下して、16日昼過ぎに警防団員に捕まり、手を縛られて湯倉付近まで連行され、西畑小学校に駐屯していた陸軍203部隊に引き渡された。この時、兵士と市民がGREENSPANに暴行を加えたので、彼は縛られていた両手を解き放ち、100メートルほどの距離を逃亡した。兵士たちが追跡し、田村一平少尉の命令で奥光政上等兵と南出多七上等兵が彼を斬殺した。

戦犯裁判の結果は、田村一平少尉は懲役12年、奥光政上等兵と南出多七上等兵は無罪となった。



≪千葉県一宮町事件≫

(GHQ報告書155号、254号、624号)
1945年8月15日午前、千葉県長生郡西村(現・長南町)にイギリス海軍の艦載機が撃墜され、Fred HOCKLAY少尉が捕虜になった。

彼は一宮町の一宮国民学校に置かれていた第147師団426連隊本部へ送られた。この前後、日本の敗戦を告げる「玉音放送」があり、426連隊長の田村禎一大佐は、師団司令部にHOCKLAY少尉の処遇を問い合わせたところ、147師団参謀の平野昇少佐は、「連隊で処置せよ」という意味の指示を与えたとされる。当時の軍隊では「処置」という言葉は「処刑」の意味で使うことが一般的であり、田村禎一大佐は、部下の藤野政三大尉にHOCKLAY少尉の処刑を命じた。藤野政三大尉は夕方、HOCKLAY少尉を山中に連行し、殺害した。

この事件は横浜裁判でなく、香港のイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けた。



≪東京立川憲兵隊事件≫

(GHQ報告書163号  再審記録217号)
1945年8月8日午後、東京の中島飛行機武蔵製作所を空襲した1機のB29が、北多摩郡谷保村(現・国立市)に墜落し、搭乗員12人のうち10人は墜落死、2人が捕虜になった。

彼らは立川憲兵分隊へ連行され、このうち1人は翌日の夕刻に東京憲兵隊司令部へ送られたが、もう1人のSerafine MORONE軍曹は、翌日の午後、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐の指示で、近くの錦国民学校(現・立川市立第三小学校)の校庭に連れていかれ、集まった800人の市民から2時間にわたって竹の棒で殴打され、重態に陥った。空襲警報で市民が立ち去った後、彼は憲兵隊員によって近くの正楽院墓地へ連行され、首切り役を買って出た立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、その場に埋められた。

矢島七三郎少佐らは、敗戦後すぐ遺体を掘り返して焼却し、病院の医師に「墜落死」との死亡証明書を書かせるなど、証拠隠滅をはかったが、匿名の投書などにより、事件は米軍の知るところとなった。

戦犯裁判の結果は、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐は無期懲役、補佐役の関昇憲兵准尉は懲役20年となったが、処刑実行者の立川陸軍航空廠の将校の身元は判明しなかった。



≪東部軍一戸中佐事件≫

(GHQ報告書773号、1293号  再審記録265号)
裁判の期間:1947年12月22日〜1948年1月16日

1945年3月10日の東京大空襲時、1機のB29が茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市伊奈町)に墜落し、搭乗員11人のうち8人は墜落死、3人が捕虜になった。このうち2人は無傷であったが、もう一人のLeland P.FISHBACK少尉は重体であった。

彼はトラックで東京憲兵隊司令部に運ばれたが、空襲下の混乱もあって、どの病院からも引き取りを拒否された。その間、東部軍から園部六郎軍医中尉が診察に来たが、助かる見込みもないとして手当をせずに帰った。結局、憲兵隊が身柄を引き取ることになったが、処置方法に困り、一戸公哉中佐の指示で、翌々日に東京憲兵隊の本川貞中尉と何人かの兵士が付き添って、憲兵隊司令部の近くの東京外国語学校(現・東京外国語大学)の構内へ連行し、防空壕の中で斬首し、ゴミと砂礫の中に埋めた。

戦犯裁判の結果は、一戸公哉中佐は死刑(再審で懲役25年)、捕虜を斬首した本川貞憲兵中尉は死刑、斬首と埋葬に協力した桑原正雄憲兵軍曹は無期懲役、FISHBACKの治療を拒否した園部六郎軍医中尉は懲役2年、現場へ付き添った東部軍兵士3人は無罪となった。



≪東京上野憲兵隊事件≫

(GHQ報告書1139号  再審記録306号)

1945年5月25〜26日の東京大空襲時、1機のB29が足立区入谷町に墜落。搭乗員11人のうち2人は墜落死、8人が捕虜になったが、残る1人Dwight M.KNAPP少尉は逃亡し、荒川放水路の支流付近で捜索中の警防団員にピストルを発射し、2人を殺害(1人は後日死亡)した。

その2日後、彼は西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、警官に捕らえられて東京上野憲兵分隊に引き渡されたが、分隊長の堀江アキラ少佐は、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」との指示を受けたために、部下の野口悦二曹長に命じて千住新橋付近の河原で米兵を処刑させた。

戦犯裁判の結果は、堀江少佐は戦後自決。野口悦二憲兵曹長は懲役12年、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は懲役10年となった。



≪東京陸軍刑務所飛行士焼死事件≫

(GHQ報告書255号、351号  再審記録78号)

裁判の期間:1948年3月24日〜7月8日

1945年5月25〜26日の東京大空襲時、渋谷の東京陸軍刑務所が炎上、収容されていた日本人の囚人約400人は無事脱出したが、米捕虜飛行士62人は救出されずに焼死した。そのうえ、この時逃れ出ようとした何人かの米兵は日本人の看守により斬殺されたという。ただし、『戦犯裁判の実相』では、看守は留置場の扉を開き、飛行士のうち23人を外へ出したが、塀に阻まれて逃げ場を失い窒息焼死したものであり、不可抗力であったとする。

戦犯裁判の結果は、東京陸軍刑務所長の田代敏雄大尉が死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川正男少尉が死刑(再審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の神戸初明軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の神本啓二軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の大久保又一曹長が死刑(再審で懲役10年)となった。



≪東部憲兵隊事件≫

(GHQ報告書110号  再審記録294号?、295号、310号、369号)

(A)捕虜飛行士の虐待事件

裁判の期間:1948年5月24日〜10月13日

東部憲兵隊(東京憲兵隊)司令部(東京都千代田区九段)に収容された多くの捕虜飛行士に対して、適切な居住設備、衣服・食事・医療処置などを与えず、疾病その他の苦痛を与えたこと、病気や負傷に対して十分な手当を加えず、17人の捕虜飛行士を死に至らしめたこと、暴行・虐待を加えたことなどにより、東京憲兵隊関係者が責任を問われた。

戦犯裁判の結果は、藤野鸞丈中佐が懲役5年、杉原栄一憲兵少佐が懲役5年、和知信重少尉が懲役8年、根本常少尉が懲役3.5年、川野正二軍医少将は無罪。東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は、捕虜の待遇不良のため、捕虜の疾患負傷等を惹起、死亡者を出したとして、上野憲兵隊事件とあわせて懲役10年となった。

(B)捕虜飛行士毒殺事件

1945年3月〜6月ごろにかけて、捕獲飛行士が憲兵隊へ連行されて来た時、重体であった者に対して外山敏男大尉の指示で、東部軍の平野健二軍医中尉、憲兵司令部付の森末軍医少佐、東部軍司令部付の長谷部見習軍医士官らが毒薬を注射、合計9人を毒殺したとされる。

森末軍医少佐と長谷部見習士官は戦後自決。戦犯裁判において被告側は「助かる見込みのない者に対する安楽死」と主張したが、結局、外山敏男大尉と平野健二軍医中尉が無期懲役となった。



≪東海軍事件≫

(GHQ報告書16号、73号、209号、261〜267号、1502号  再審記録251号、289号)

東海軍(第13方面軍)では、1945年4月7日に名古屋市近郊で捕獲したB29搭乗員3人は東京に送り、4月24日に静岡県沖で捕獲したB29搭乗員3人は名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送った。これらのB29搭乗員は市街地無差別爆撃でなく、軍需工場を爆撃したものであったため、捕虜に準じた扱いを受け、終戦後本国へ帰還することができた。

しかし、それ以後に捕まった38人のB29飛行士は、市街地無差別爆撃との理由で処刑されるに至った。

(A)軍律裁判による11人の処刑

裁判の期間:1948年1月22日〜3月4日

1945年5月14日の名古屋空襲時、名古屋市西区児玉三丁目と伊勢湾に撃墜された2機のB29の搭乗員11人が捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部(名古屋城内)へ送られた。

彼らは7月11日に東海軍の軍律会議にかけられ、2時間ほどの審理の後、無差別爆撃との理由で全員が死刑判決を宣告され、翌日、東春日井郡小幡ケ原射撃場で斬首により処刑された。

戦犯裁判の結果は、軍律会議の検察官役を務めた伊藤信男法務少佐が死刑(再審で無期懲役)、審判官役を務めた松尾快治少佐が懲役20年、陪席審判官役の山東広吉法務中尉が懲役20年、同じく片浦利厚中尉が懲役15年となった。

(B)軍律裁判なしの27人の処刑

上記以後に捕まった27人の搭乗員は、軍律裁判も省略し、2回にわたって斬首により処刑された。

6月28日   瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で11人を斬首。

7月14日   東海軍第2兵舎裏で16人を斬首。この処刑は、軍司令部に勤務する軍人・軍属100人ほどが遠巻きに見守る中で行われ、刺突演習という残酷な方法がとられたとの証言もある。

これら38人の飛行士の遺体は現場に埋葬されたが、敗戦後東海軍は証拠隠滅をはかり、遺体を再発掘して火葬にした。

戦犯裁判において、東海軍司令官の岡田資中将は自己責任を認め、部下をかばうとともに、米軍に対しては「無差別爆撃こそ国際法違反であり搭乗員の処刑は正当。軍による搭乗員の虐待はなく、むしろ激高した民衆から危害を加えられるのを防いだ。斬首刑は、日本古来の武士道にもとづく処刑方法であり、野蛮とは言えない」と主張して「法戦」を挑んだ。

判決の結果は、死刑執行は岡田資中将のみ。高級参謀の大西一大佐が死刑(再審で無期懲役)、米村正熊大佐が懲役25年、足立誠一中佐が懲役17年、保田直文少佐が懲役15年、処刑実行者の山田仂雄中尉が懲役20年、成田喜久基中尉が懲役30年、菅井康治少尉、田辺光夫見習士官、谷田具潔見習士官、桑田春雄曹長、川上末高軍曹、鶴田義亮軍曹、信田英司軍曹、山本英三郎軍曹、近藤清元軍曹、藤田隆義軍曹、古山又一軍曹、土山敏之伍長、林重朝上等兵が懲役10年となった。



≪中部軍・中部憲兵隊事件≫

中部軍管区では、1945年3月から敗戦までに57人のアメリカ飛行士が捕獲され、このうち55人が処刑、あるいはケガや病気に対する医療処置の欠如のため死亡し、2人だけが情報収集のため東京へ送られ、戦後本国へ帰還した。

(A)軍律裁判によるネルソンとオーガナスの処刑

(GHQ報告書12号  再審記録123号)

裁判の期間:1947年7月18日〜8月28日

1945年3月17日の神戸空襲時、1機のB29が生田区再度山に墜落、搭乗員11人のうち9人は墜落死。Robert W.NELSON少尉とAlgy S.AUGANUS軍曹の2人が捕虜になった。

彼らは中部憲兵隊司令部(大阪城前)へ送られて取り調べを受けた後、5月に石切の大阪陸軍刑務所に身柄を移された。この間に中部軍による法的処置の検討が加えられ、7月18日午前に中部軍司令部(大阪城内)で軍律裁判が行われた。

裁判官役は中部軍情報参謀の山中徳夫少佐と法務部の小野武一大尉、検察官役は法務部の荻矢頼雄中尉、通訳は森隆夫曹長で、審理は1時間ほどで終わり、山中少佐は、2人のアメリカ飛行士が無差別爆撃で市民を殺傷したとして死刑を宣告した。ネルソンは、「爆撃が日本の法律や国際法に違反することは知らなかった。我々は軍の命令に従っただけで、それが死刑に値するというなら、あらゆる国の兵士は全部死刑になるだろう」と抗議したというが、もちろん取り合われなかった。

午後、2人はトラックで大阪府泉北郡の横山射撃場(現・和泉市福瀬町)へ連行され、事前に掘られた穴の前に座らされ斬首された。2人は穴の中にころがり落ちたが、オーガナスは死にきれず、うめき声をあげて苦しんでいたので、1人の日本兵がピストルでとどめをさした。

敗戦後、隠蔽工作が行われ、2人の遺体は掘り返されて焼却されたうえ、死因として、大阪城が爆撃された時に爆死したという話が考え出された。この案は間もなく破綻したが、その後も、処刑が斬首でなく銃殺であったと虚偽の報告がなされたが、これも後に真相が判明した。

戦犯裁判の結果は、8人が起訴され、中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役30年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は懲役3年、中部軍法務部長の太田原清美少将は死刑(再審で無期懲役)、中部軍情報参謀の山中徳夫少佐は懲役25年、中部軍法務部の小野武一大尉は懲役30年、中部軍法務部の荻矢頼雄大尉は懲役3年、松森英雄中尉は懲役10年、大阪陸軍刑務所長の中道貫治大尉は懲役3年となった。

(B)53人の飛行士の虐待・殺害事件

(GHQ報告書136号、150号、1503号  再審記録328号)

裁判の期間:1948年8月2日〜1949年1月3日

中部軍管区では、上記のネルソンとオーガナスが捕まって以後の捕虜飛行士の取り扱いは、主として中部憲兵隊(大阪憲兵隊)にまかされていた。その間に、留置中に傷病死する者や、重傷を負っていて毒殺された者があり、また、1945年6月頃に出された憲兵司令官大城戸三治中将からの「秘密の私信」により、軍律裁判をも省略した処刑が行われた。

6月〜7月   6人を3回にわたって中部憲兵隊司令部で毒殺。毒殺の理由は、伝染病や墜落時の負傷で重態の者を、助かる見込みなしとして処分。

7月5日     大阪府信太山演習場で5人を射殺

7月20日   大阪府信太山演習場で15人を射殺

8月5日    大阪市の城南射撃場で14人を射殺

8月15日   「玉音放送」の後に証拠隠滅の目的で、大阪市の真田山陸軍墓地で5人を処刑。

5月〜8月   8人は中部憲兵隊に留置中、医療処置の欠如と虐待によって死亡。

戦犯裁判の被告の数は29人で、16人が有罪、13人が無罪となった。

憲兵司令官大城戸三治中将は、「秘密の私信」で事実上の処刑命令を出した責任を問われて無期懲役、それを受けて処刑を決定した中部憲兵隊長長友次男中将は無期懲役、それを容認した中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役40年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は無期懲役、捕虜取り扱いの中心にいた中部憲兵隊藤岡英雄中佐と志内猪虎磨少佐は無期懲役。中部憲兵隊員の安城浩中佐、浜本次郎准尉、浜田留吉曹長、森隆夫曹長、和田安夫准尉、中部軍参謀大庭小次郎大佐、中部軍民間人通訳中野正元、中部軍情報参謀山中徳夫少佐は懲役2〜15年。憲兵司令部本部長石田乙五郎中将、憲兵司令部外事部長山村義雄大佐は懲役1年であった。ただし、再審において石田乙五郎、山村義雄両名の懲役1年は取り消されて無罪となった。

なお、大城戸、石田、内山、国武、長友、山村、大庭、安城、藤岡、山中、和田については、捕虜飛行士殺害について敗戦後隠蔽工作を行ったことも罪とされている。隠蔽工作というのは、ネルソンとオーガナスについては、上述の通りであり、その他の飛行士ついては、他所へ移送中に空襲で爆死し、14人だけが獄中で病死したことにして、真田山陸軍墓地に偽の墓標を建てたことなどである。

一方、中部軍の高山弘明大尉と法務部の小野武一大尉の2人は、この事件には無関係として、また処刑実行者の中部憲兵隊員小林秀一准尉、杉浦隆三郎准尉、小西新八伍長、森本成己曹長、大筏武一軍曹、高橋伊三軍曹、竹田勉曹長、館野リョウイチ兵長、津野一義兵長、松田定哉兵長、大西正樹一等兵などの下士官以下の11人は、命令を避け得なかった立場が認められて無罪となった。



≪高知憲兵隊事件≫

(GHQ資料539号、1256号  再審記録152号)

1945年6月22日に高知市内に撃墜された1機のB29の搭乗員のうち7人は墜落死、4人が捕虜になった。

このうち3人は高知憲兵分隊から呉の海軍刑務所を経て、大船海軍捕虜収容所へ移送され、戦後本国へ帰還したが、重傷を負っていたTheodore W.PRINCE軍曹は、いったん高知陸軍病院に収容されながら、憲兵隊の命令で他の3人の捕虜と一緒に中部155部隊の営倉に移され、間もなく死亡した。

戦犯裁判の結果、この処置が不当であったとして、高知憲兵分隊司令官代理の山本丈夫中尉が無期懲役、中部155部隊の田村甫軍医大尉が懲役25年、同じく見習軍医高見信一郎准尉が懲役20年、高知陸軍病院の筒井肇軍医大尉が懲役5年となった。



≪西部軍事件≫

(A)九州大学医学部生体解剖事件

(GHQ報告書604号、712号  再審記録290号)

裁判の期間:1948年4月12日〜5月27日

西部軍司令部(福岡城内)に留置されていたB29飛行士のうち8人が、1945年5月17日、22日、25日、6月2日(日時は推定)の4回にわたって、九州大学医学部で、肺の摘出手術、海水を代用血液とする手術などの生体実験の材料とされて殺された。犠牲になった米兵のうち6人は、5月5日に熊本県上空で日本海軍の戦闘機の体当たり攻撃を受け、大分県竹田市に墜落したB29の搭乗員である。この墜落機は搭乗員11人のうち7人がパラシュート降下し捕らえられたが、機長のワトキンスは情報収集のため東京へ送られ、残りの6人が西部軍司令部に留置されていたものである。その他の2人は、5月頃に大分県や宮崎県で捕獲された別のB29の搭乗員と推定される。

生体解剖が誰の発案と指令によって行われたものかは未だに不明な点があるが、西部軍偕行社病院副院長の古森拓軍医見習士官が、懇意にしていた西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐や九州大学第一外科部長の石山福二郎教授に働きかけたのがきっかけと言われる。この発案に、佐藤吉直大佐や西部軍の他の幹部も同調し、司令官の横山勇中将も暗黙の了解を与えたらしい。

このような背景として、1945年4月か5月頃、大本営から「今後は、飛行機の操縦士及び情報価値のある捕虜のみ東京に送るべし」との指令が伝えられ、また、6月には東京の憲兵司令官大城戸中将からの「捕虜は厳重に処置せよ」との指令が各軍管区憲兵隊に伝えられるという状況があり、西部軍の幹部も、捕虜飛行士を軍律会議も省略して処刑するのは中央の意図と受け止めていた可能性が強い。その結果、「どうせ殺すなら医学実験に役立てる」という発想が受け入れられたものと推定される。西部軍の関与は、最初の解剖の日には西部軍参謀の佐藤吉直大佐、同じく薬丸勝哉中佐、相原嘉十郎大尉らが飛行士とともにトラックで九州大学へ同行し、手術にも立ち会っていたことからもはっきりしている。

戦犯裁判の結果は、西部軍関係者16人と九州大学関係者14人が起訴され、西部軍関係では、司令官の横山勇中将が死刑(病死により判決棄却)、参謀長の稲田正純中将が懲役7年、参謀次長の福島久作少将が懲役15年、伊藤章信法務部長が懲役10年、参謀の龝田弘志大佐が無期懲役、航空・捕虜管理参謀の佐藤義直大佐が死刑(再審で無期懲役)、薬丸勝哉中佐が無期懲役、五位山真治大尉が懲役10年、相原嘉十郎大尉が懲役20年など、9人が有罪、7人が無罪。

九州大学関係では、平尾健一助教授が死刑、平光吾一教授が懲役25年、五島四郎研究生が懲役6年、牧野栄一郎研究生が懲役9年、森良雄講師が死刑(再審で懲役25年)、森本憲治九州大学医局長が無期懲役、野川延吉研究生が懲役25年、笠幹研究生が懲役3年、仙波嘉孝研究生が無期懲役、田代次郎研究生が懲役15年、田代友禧研究生が懲役15年、久保敏行研究生が懲役15年、鳥巣太郎一助教授が死刑(再審で懲役10年)、筒井静子看護婦が懲役5年など、14人全員が有罪とされた。なお、手術の中心になった九州大学第一外科部長の石山福二郎教授は起訴の前に自殺、古森拓軍医見習士官は空襲により敗戦前に死亡した。

この他に、古森拓軍医見習士官が生体解剖の後、飛行士の肝臓を偕行社病院に持ち帰り、偕行社病院の5人がこれを試食したとして起訴されたが、証拠がなく全員無罪となった。

(B)搭乗員斬首事件

(GHQ報告書420号 再審記録288号)

裁判の期間:1948年10月11日〜12月29日

1945年5月頃以降に西部軍司令部に収容された飛行士40〜41人を、6月〜8月に3回にわたって処刑。

6月20日   西部軍司令部の裏手にある福岡市立高等女学校(現・赤坂小学校)の校庭で、8人を斬殺。これは、前日の福岡大空襲に対する報復として、西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、法務部長の伊藤章信少将らの容認の下に行われたものと言われる。現場で指揮をした和光勇精法務大尉が2人、池田金芳准尉が2人、大西保見習士官が1人、冬至堅太郎主計大尉が3人を斬首した。

8月10日   福岡市南郊の油山の刑場で8人を斬殺。これは広島・長崎の原爆に対する復讐の意味も考えられる。西部軍参謀次長の友森清晴大佐らの同席の下、参謀の射手園達夫少佐が指揮し、法務部の和光勇精大尉、吉田寛二中尉、大野峰弘少尉、乙須徳美中尉、楢崎正彦少尉らが処刑を実行。野田英彦見習士官と山本福一少尉は、捕虜2人に対して空手で殺害できるかどうかを試した。その後、楢崎正彦少尉が袈裟切りを試した。最後の1人は、大槻隆見習士官が弓矢で殺害できるかどうかを試した後、大野峰弘少尉が斬首した。

8月15日   「玉音放送」の後、福岡市南郊の油山の刑場で、証拠隠滅のため生き残っていた16〜17人を斬殺。佐藤吉直大佐、楠本留之助少佐らの指揮の下、中山博二大尉、橋山登憲兵中尉、赤嶺輝雄中尉、毎田一郎中尉、窪山秀人軍曹、土山徳蔵曹長、猪上光繁軍曹、松木末勝軍曹、長岡政治伍長らが処刑を実行。

戦後の米軍の取り調べに対して、捕虜飛行士が1人もいないことの説明に困った西部軍では、九大生体解剖事件の捕虜など10人は広島へ送られて原爆で死亡、一部は東京へ空輸される途中、飛行機が撃墜されて死亡などと隠蔽工作を行ったが、結局は全てが白日のもとにさらされた。

戦犯裁判の結果、西部軍司令官横山勇中将、参謀長の稲田正純中将、法務部長の伊藤章信少将、参謀次長の友森清晴大佐、航空・捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、参謀の薬丸勝哉中佐、参謀の射手園達夫少佐は無期懲役、楠本留之助少佐は懲役40年、参謀次長の福島久作少将は懲役15年、参謀の龝田弘志大佐と参謀の神猪一郎中佐は無罪となった。

処刑実行者の冬至堅太郎主計大尉は死刑、和光勇精法務大尉、中山博二大尉、毎田一郎中尉、楢崎正彦少尉、赤嶺輝雄中尉、橋山登憲兵中尉は無期懲役、相原嘉十郎大尉は懲役5年、加来孝信少尉は懲役25年、野田英彦見習士官は懲役25年、大槻隆見習士官は懲役30年、山上均見習士官は懲役25年、山本福一少尉は懲役30年、大西保見習士官は懲役20年(再審で10年)、吉田寛二法務中尉は懲役30年、大野峰弘法務少尉は懲役30年、池田金芳准尉は懲役20年、土山徳蔵曹長は懲役20年、窪山秀人軍曹は懲役20年、猪上光繁軍曹は懲役10年、松木末勝軍曹は懲役20年、長岡政治伍長は懲役10年、乙須徳美中尉は懲役30年となった。

一方、雪野孔士大尉、村田定由中尉、中村実少尉、西部軍司令部付の江夏徳次憲兵少佐らは、直接の関わりはないとされたらしく無罪となった。



≪喜界島事件≫

(GHQ報告書2278号、2279号  再審記録317号、318号)

1945年4月11日、鹿児島県喜界島で米海軍の艦載機が撃墜され、Arthur L.THOMAS少尉が捕虜になった。喜界島に駐屯していた海軍第五航空艦隊(司令部は鹿屋)隷下の喜界島飛行部隊司令官佐藤勇少佐と、第五航空艦隊司令部から視察のために派遣されていた木田達彦海軍大佐は、THOMAS少尉の身柄を鹿屋へ送ろうとしたが、沖縄戦の最中で輸送が難しく、鹿屋からも「適当に処置せよ」との指示が来たため、4月末か5月初め頃、THOMAS少尉を処刑した。この時、吉田政義大尉が現場で指揮を取り、谷口鉄雄大尉が斬首した。

戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が死刑、木田達彦大佐が懲役40年、吉田政義大尉が懲役40年、処刑実行者の谷口鉄雄大尉が死刑(再審で無期懲役)となった。

5月10日、喜界島で米軍の艦載機が撃墜され、David C.KINCANNON大尉が飛行場設営部隊によって捕虜になった。彼も本土への輸送手段が難しいとして、佐藤勇少佐の承認の下、5月中旬頃、飛行場設営部隊の大島宗彦大尉によって斬首された。この時は村民も処刑を見物していたという。

戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が懲役20年、処刑実行者の大島宗彦大尉が懲役7年となった。佐藤勇少佐は第1回目の処刑の責任と合わせて死刑を執行された。



≪宮古島事件≫

(GHQ報告書347号、1086号  再審記録335号)
裁判の期間:1948年7月6日〜7月20日

1945年4月23日、米軍の艦載機が沖縄県宮古島で撃墜され、搭乗員のJoseph F.FLORENCE少尉が日本の海軍警備隊に捕獲された。

彼は、身柄を本土または台湾に送るのが困難として留め置かれ、日本軍の飛行場の爆弾の除去などの危険な仕事をさせられていたが、米軍が上陸して来た時には軍の配置をしゃべる恐れがあるとして、7月11日に、宮古島第28師団情報参謀の陸路富士雄中佐が外村魚治少尉に処刑を命じ、外村少尉は部下の兵士3人とともにFLORENCEを射殺した。

敗戦後、彼の遺体は掘り返されて焼却され、証拠隠滅がはかられた。

戦犯裁判の結果は、28師団情報参謀の陸路富士雄中佐は懲役35年、外村魚治少尉は懲役9年、竹内次郎軍曹は懲役3年、畑野耕造憲兵伍長は懲役3年となった。



≪石垣島事件≫

(GHQ報告書665号、876号  再審記録258号)
裁判の期間:1947年11月26日〜1948年3月16日

1945年4月15日朝、沖縄県石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍の艦載機1機が撃墜され、Vernon L.TEBO中尉、Warren H.LOYD一等飛行通信兵曹、Robert TUGGLE Jr.一等飛行機関兵曹の3人がパラシュート降下し、石垣島の海軍警備隊に捕獲された。

彼らは情報聴取の後、その夜に海軍警備隊本部近くの荒地へ連行され、TEBO中尉とTUGGLE兵曹は斬首された。LOYD兵曹は激昂した数十人の日本兵によって刺突演習の材料とされて殺された。死体は穴に埋められたが、敗戦直後に証拠隠滅のために掘り返され、焼いて灰にして海中に投げ捨てられたという。戦後、匿名の投書が米軍に寄せられ、事件が発覚した。

横浜裁判では46人が起訴され、そのうち41人が絞首刑の判決を受けた。その後減刑が行われ、最終的には海軍警備隊司令官の井上乙彦大佐、幕田稔大尉、副司令官の井上勝太郎大尉、榎本宗憲中尉、田口泰正少尉、成迫忠邦兵曹、藤中松雄兵曹の7人に絞首刑が執行され、将校3人と兵曹29人が5年〜無期懲役となった。



≪父島事件≫

(GHQ報告書137号、388号、392号、2704号)

小笠原諸島の父島で、1944〜45年に捕まった米艦載機の捕虜飛行士7人が、1945年2月〜3月ごろ相次いで殴打、斬首、銃剣刺突などにより処刑され、日本軍守備隊の幹部らが死体から肉を切り取って食するという猟奇的な事件があった。この人肉事件は食料の不足から生じたものではなく、好奇心あるいは敵愾心から起こったものである。

この事件はグアム島のアメリカ裁判で裁かれ、陸軍守備隊の司令官立花芳夫中将、的場末勇少佐、中島昇大尉、伊藤喜久二中佐、海軍守備隊の吉井静雄大佐の合計5人の絞首刑を含む26人が有罪となった。



≪台湾軍軍律裁判≫

(GHQ報告書582号  再審記録208号)

台湾で捕虜になったアメリカ飛行士54人のうち14人を台湾軍の軍律裁判にかけ、1945年6月19日に銃殺。

台湾軍法務部の将校8人は上海のアメリカ裁判で裁かれたが、小池金市法務大尉のみは横浜裁判で裁かれ、懲役4年の判決を受けた。



【参考文献】

◇「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)1号〜2798号(国会図書館憲政資料室所蔵)

◇「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)(国会図書館憲政資料室所蔵)

◇『米国戦略爆撃調査団報告書』25巻66号(国会図書館所蔵 英文)

◇小山仁示訳『日本空襲の全容 〜マリアナ基地B29部隊〜』(1995年 東方出版)

◇渡辺洋二『本土防空戦』(1983年 株式会社朝日ソノラマ)

◇原田良次『帝都防空戦記』(1981年 図書出版社)

◇東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』(1995年 青木書店)

◇茶園義男編『BC級戦犯横浜裁判資料』(1985年 不二出版)

◇別冊歴史読本『戦争裁判 処刑者一千』(1993年 新人物往来社)

◇小菅信子/永井均解説・訳『GHQ日本占領史第5巻 BC級戦争犯罪裁判』(1996年 日本図書センター)

◇岩川隆『孤島の土となるとも 〜BC級戦犯裁判〜』(1995年 講談社)

◇岩川隆『神を信ぜず』(1976年 講談社)

◇北博昭『軍律法廷』(1997年 朝日新聞社)

◇大谷敬二郎『昭和憲兵史』(1966年 みすず書房)

◇全国憲友会編『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部 1988年)

◇巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』(1985年 不二出版)

◇福林徹「米捕虜飛行士殺害に関する中部軍・中部憲兵隊事件」(大阪国際平和センター紀要 『戦争と平和』所収 2002年)

◇横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会編『法廷の星条旗』(2004年 日本評論社)

◇上坂冬子『昭和史三部作 〜生体解剖・巣鴨プリズン13号鉄扉・慶州ナザレ園〜』(1995年 中央公論社)

◇東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(1979年 株式会社文芸春秋)

◇上野文雄『終戦秘録九州8月15日』(1975年 白川書院)

◇秦郁彦『第二次大戦航空史話』中(1996年 中公文庫)

◇秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(1999年 文春文庫)

◇吉田一彦『ドゥーリットル日本初空襲』(1989年 三省堂)


http://blogs.yahoo.co.jp/takahiro992002/9412442.html



奄美諸島の発光事件(4)-喜界島編2-
2007/6/14(木) 午後 10:37防諜沖縄県
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多くの資料・証言が残されている喜界島であるが、スパイ取締りの実態はどうだったのでしょうか。当時第40震洋隊で震洋の搭乗員だった岡田逸樹さんに話を聞くことが出来ました。岡田さんは昭和20年2月佐世保軍港より輸送船高栄丸で出航、低気圧の通過による東シナ海の大時化のおかげで潜水艦の攻撃を受けることなく、2月11日頃奄美大島の名瀬港に入港しました。4、5日か一週間くらい奄美に滞在し、機帆船で喜界島早町港に上陸しました。
岡田さんによると、発光事件の容疑者として島人かの地元住民が部隊に監禁されています。自身も当直勤務のとき隧道に監禁された島人を監視し、事情を聞きましたが、事実は不明だったとのことです。後日その島人の家に招待されて両親や家族と楽しいひとときを過ごしましたが、それは岡田さんの接し方が優しかったのでそのお礼だと言っていたそうです。岡田さん自身は純朴で勤勉な島人を初めから信じていましたが、当時の噂として夜間の海岸でこのような事件があるので部隊では警戒を厳重にしていたとのことです。
この証言の内容は「奄美諸島の発光事件(3)―喜界島編―」で紹介した、兵力を増やして捜索にあたり「容疑者」を捕まえて約一ヶ月尋問したが、犯人との証拠がなくて釈放した、との第40震洋隊が打った電文の内容に合致しています。
では「容疑者」とされたのはどのような人だったのでしょうか。容疑者の多くは沖縄から移り住んだ糸満漁民でした。彼らは夜間に水中電灯を持って海で漁をしたので、それを見た特攻隊の兵隊が何かの信号と誤解して、10人くらいを早町の兵舎にいれてしまったそうです。早町では夕方の6時になれば通行禁止にしてあり、そこを知らないで通る人もスパイ容疑で逮捕されました。しまいには知的障害者の人までスパイ容疑で捕まっています。
(註1)また喜界島の守備隊は電燈携帯者と行商人をスパイと見なして尋問したとも伝えられています。(註2)
沖縄戦で日本軍が住民をスパイ視し、多くの無実の住民を逮捕し殺害したことはよく知られています。喜界島の場合は幸にも犠牲者はでませんでしたが、沖縄戦と全く同じことが行われていたのです。このことは沖縄戦における住民スパイ視を考える上で非常に重要です。

(註1)沖縄国際大学社会学科石原ゼミナール編『あし1989年度 第10号 喜界島調査報告書』(沖縄国際大学文学部社会学科石原研究室 1990)P80
(註2)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 1958)P113


http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/12/c_133110146.htm

More evidence exposes Japanese atrocities in China
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TAIYUAN, Feb. 12 (Xinhua) -- A villager in north China has stumbled upon a book about the trials of Japanese biological troops during WWII, with details of atrocities in China.

Zhao Yungang in Changzhi City, Shanxi Province, told Xinhua on Wednesday he found the book accidentally at the bottom of a chest while tidying up the affairs of his grandfather.

The book of more than 600,000 Chinese characters, published in 1950, is a Chinese translation of a volume printed by a Moscow publishing house.

It details prosecutions for preparing and using bacterial weapons, of 12 Japanese officers including Otozo Yamada, last commander-in-chief of the Japanese Guandong Army in northeast China.

The trials were held in Lhabarovsk in the Soviet Union in December 1949. The book includes indictments, confessions, defense statements and verdicts, as well as photocopies of Japanese orders for preparing and using germ weapons, and transporting live humans for experiments.

According the book, Yamada confessed to judges that a large number of people were kept in the cells of Unit 731 for experiments. He told the court that the Japanese army adopted three ways of using bacterial weapons: bombs or directly spreading them by planes or on the ground.

Yamada was sentenced to 25 years in prison and released in 1956.

More than 10,000 people were killed at Unit 731 in the Chinese city of Harbin. Civilians and prisoners of war from China, the former Soviet Union, the Korean Peninsula and Mongolia fell victims to the gruesome anti-human atrocities of the Japanese.




http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/19/c_133127773.htm

China urges int'l alert for Japanese comments
RSS Feedback Print Copy URL Large image More English.news.cn | 2014-02-19 18:03:39 | Editor: Yang Yi
BEIJING, Feb. 19 (Xinhua) -- China on Wednesday urged the international community to be on alert for any comments which attempt to vindicate Japan's invasion history and challenge post-war world order.

Chinese Foreign Ministry spokesperson Hua Chunying's comments came in response to a question regarding recent Japanese comments.

Chairman of Japan's public broadcaster NHK Katsuto Momii insisted there was nothing wrong with his earlier remarks on "comfort women", a euphemism for sex slaves during World War II.

Last month, during his first press conference as NHK president, Momii said comfort women were common in countries at war at that time, and that media "cannot say left when the government says right."

Apart from Momii's comments, an aide to Japanese Prime Minister Shinzo Abe had expressed disappointment at U.S. criticism of Abe's shrine visit. "It's us who are disappointed," said Seiichi Eto in a message recently posted on the YouTube video-sharing website.

Hua said China has taken note of reports that reveal Japanese political forces clinging doggedly to a wrong view of history, with no repentence for the atrocities the Japanese militarism brought to victim countries.

"They are still attempting to vindicate their aggression and challenge the victory in WWII and post-war world order," Hua told a routine press briefing.

"These are consistent with Japanese leader's mistakes that ran counter to history," she added.

Hua reiterated that international order and historical justice never tolerate any challenge.

"Some people in Japan time and again deliberately distort and deny history, and pose a challenge to the conscience of mankind. I want to ask, what do they really want?" said the spokesperson.

She urged alarm and opposition of all peace-loving countries and people over Japan's mistakes.

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http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/13/c_133112172.htm

Abe urged to admit wartime atrocities
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By Wang Fan

BEIJING, Feb. 13 (Xinhuanet) -- Murayama says PM should honor 1995 apology for Japan's past actions.

Former Japanese Prime Minister Tomiichi Murayama said on Wednesday that Japanese leader Shinzo Abe "has no choice but to honor the Murayama Statement" and urged him to be honest about Japan's wartime aggression.

Murayama's remarks came amid increasing tension in Northeast Asia over Tokyo's reluctance to fully shoulder responsibility for forcing Asian women into sexual slavery during World War II and the Sino-Japanese War. Murayama, 90, is on a three-day tour of South Korea that began on Tuesday.

"All previous prime ministers of Japan said they would inherit the Murayama Statement. Abe has also stated that he would inherit the statement. I believe there has been no falsehood in that pledge," Murayama said during his lecture to South Korean lawmakers at their parliamentary headquarters.

During his time in office in 1995, he made an official apology called the "Murayama Statement" that takes responsibility for Japan's past atrocities and wartime aggression during its colonial rule.

Qu Xing, president of the China Institute of International Studies, warned that the current Japanese government has sought opportunities to deny the nation's wartime crimes.

"Several prominent figures in Japanese politics have publicly defended the so-called legitimacy and necessity of forcing women into sexual slavery in times of war, saying that many nations had also done the same thing," Qu said.

Abe stunned the international community last May when he told the Japanese parliament that "so far there has been no unified definition of 'aggression'".

That same month, Yoshihide Suga, Japan's chief cabinet secretary, also triggered controversy after he stated without any elaboration that the Abe cabinet would continue to "inherit the spirit of the Murayama Statement".

Seoul-based JoongAng Ilbo newspaper said the remarks "deliberately shied away" from keywords including "colonial rule" and "comfort women".

Yang Bojiang, deputy director of the Institute of Japan Studies at the Chinese Academy of Social Sciences, said "it is unlikely" that Abe will reverse course on the comfort women controversy because of his perspective on the history of WWII.

Last month, Katsuto Momii, the new president of Japanese public broadcaster NHK, added to the controversy by claiming that the use of sex slaves, which in Japan were called "comfort women", was common in all countries involved in WWII. Momii later retracted his remarks.

South Korean President Park Geun-hye said in a January interview with CNN that she "hopes the current Japanese leaders will make sure they inherit the Murayama and the Kono statements and refrain from words and acts that put their sincerity into doubt".

Murayama said he was assured that Abe would recognize the Murayama Statement because he cannot deny Japan's past invasions. He added that anyone who denies the Murayama Statement should resign from his Cabinet post.

The Associated Press warned on Wednesday that time is running out for aging former comfort women of South Korea to receive compensation. It also reported that "anger in Seoul is (being) met with frustration in Tokyo".

"The Japanese seem to be of the view that whatever they do will not be enough to satisfy the Koreans, so why bother?" Ralph Cossa, president of the Pacific Forum CSIS think tank in Hawaii, told AP.

On Tuesday, Murayama met three South Korean women who were forced into sexual slavery at a Japanese military brothel during WWII. Murayama became the first former Japanese prime minister to meet with the former "comfort women".

(Source: China Daily)





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http://news.xinhuanet.com/english/indepth/2014-01/28/c_133080836.htm

Commentary: Japan's trick in history education risks generations of confrontation
English.news.cn 2014-01-28 15:10:01 More
by Liu Tian

TOKYO, Jan. 28 (Xinhua) -- Local media reported Tuesday that the Japanese education ministry will revise its teaching manuals, in which the Diaoyu Islands -- an integral part of Chinese territories, will be described as "Japan's integral parts."

The fact-twisting manuals for junior and senior schools will confuse Japanese students about what the true history is, risking breeding generations of confrontation.

Japan's rightists have for long attempted to whitewash Japan's wartime past through revising textbook, which has outraged its Asian neighbors that suffered Japanese brutal wartime aggression.

The new provocative act in the education area, furthermore, has proved that impacts of the right-leaning Prime Minister Shinzo Abe's administration has touched the country's social level, especially after the wrong words on "comfort women" by Japan's public broadcaster NHK's new boss on Saturday.

Abe boasted he upheld a doctrine of "active pacifism," but his doings pointed to the opposite.

During his one-year rule, Abe's administration repeatedly unleashed provocative acts by approving the national security strategy, the defense program guidelines and a five-year defense buildup plan to further expand its military.

And Abe himself, while sparing no efforts to revise his country's war-renouncing constitution, paid a visit to the notorious Yasukuni Shrine, where 14 Japanese Class-A World War II criminals are honored.

Such moves has led to international criticism and hightened regional tensions and it was also self-evident what Abe was doing was jeopardizing regional peace and stability.

As the saying goes, friendships between peoples hold the key to sound relations between states.

However, such whitewashing and fact-twisting tricks will be bound to make the path for Japan to improve ties with its neighbors more bumpy, not mention the trust- and friendship-building in the long run, as Japan's younger generations, the future of a nation, are kept from truth by the reckless Abe administration.


http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-01/10/c_133035597.htm
China Focus: Japanese biological warfare crimes documented
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CHANGCHUN, Jan. 10 (Xinhua) -- Wartime documents have revealed evidence of Japanese biological warfare crimes and atrocities committed by Japanese Unit 731 during World War II.

The Japanese documents released on Friday by Jilin Provincial Archives regarding "biological warfare" show in detail Japanese troops' activities in building "bacteria forces" in its colonial regions and using human beings for experiments to develop biological weapons.

The documents are dated from 1936 to 1945 and include 81 rolls of more than 400 pieces of paper and over 70 audio-visual archives.

According to a report of a Japanese military police on Aug. 9, 1937, the document stipulated the code name of "biological warfare" as "biological prevention" or "plague prevention." Since then all "biological warfare" matters were referred to by the Japanese military using the code name.

"It explains why so few Japanese biological warfare materials could be found in public documentation," said Gao Wei, leader of the research team at the provincial archives.

Another 77 rolls of documents recorded that 372 people were sent to Japanese Unit 731, a covert biological and chemical warfare research and development team, for "Special Transfer." The people were from China, the then Soviet Union and Korea.

"Special Transfer" means sending prisoners who no longer had any use to the "bacteria forces" for experimentation to develop biological weapons, said Gao.

The documents also recorded an order by the Japanese Kwantung Army to catch rats. The Japanese army gave more than 20,000 rat-traps to citizens and asked them to catch 450,000 rats. The army rewarded those who caught the most number of rats.

The documents said that Ishii Shiro, who was in charge of biological warfare, had attended "plague prevention" meetings on several occasions.

Gao argued that the rat catching was carried out to develop plague.

"We have found that once the Japanese troops occupied a region, they would send a bacteria army there," Gao said. "Documents prove that biological warfare was the Japanese forces' major invasion strategy."

According to the archives, Japanese "bacteria forces" including Unit 731 started biological warfare in more than 20 provinces and cities of China on 161 occasions, claiming more than 270,000 lives and causing more than 2.37 million people to be infected by plague.

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BEIJING, Jan. 7 (Xinhua) -- Everyone is entitled to a dream. But Japanese Prime Minister Shinzo Abe seems to be having a dangerous one that may drag Japan toward a nationalist dead end and risk jeopardizing regional stability.
In a New Year message, Abe reaffirmed his resolve to revise the country's pacifist constitution written after Japan's defeat in WWII. By revising the war-renouncing constitution, Abe aims to lift the ban on the right to exercise collective self-defense, making it possible for Japan to wage war. Full story
SEOUL, Jan. 2 (Xinhua) -- South Korea's top diplomat repeated his condemnation of Japanese politicians for their visit to the controversial war shrine, describing the visit as a big stumbling block to peace and cooperation in the region.
"As seen in the Japanese Prime Minister Shinzo Abe's recent visit to the Yasukuni Shrine, the history-revisionist attitude of Japan's political leadership brought isolation upon itself and served as a big stumbling block to peace and cooperation in Northeast Asia," Foreign Minister Yun Byung-se said in his New Year's message on Thursday. Full story
BEIJING, Dec. 30 (Xinhua) -- Four days after Japanese Prime Minister Shinzo Abe's visit to the controversial Yasukuni Shrine, disappointment and condemnation over his reckless move are still mounting.
Singapore on Sunday expressed its regrets over Abe's visit, fearing that his act "is likely to evoke further negative feelings and reactions in the region." Full story
BEIJING, Dec. 28 (Xinhua) -- Japanese Prime Minister Shinzo Abe's visit to the notorious Yasukuni Shrine in Tokyo that honors Japan's war dead including convicted war criminals in World War II is but a flagrant denial of the just trials of Japanese warmongers guilty of crimes against humanity.
Abe on Thursday visited the war shrine, which has been seen as a symbol of Japan's past militarism as it enshrines 14 Class-A WWII war criminals. Full story

Sunday, February 23, 2014

my visiting experiences in Korea,Yomoyama banashi,by Michiko Kawashima

http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part6/newpage3.html

韓国よもやま話 Part4 ・・・・・ 川島道子

朝鮮通信使  その二



豊臣秀吉の朝鮮出兵によって大きな被害を受けた朝鮮王朝と、
誠意を持って戦後処理にとりくんだ徳川幕府との間にようやく
和平が成立しました。朝鮮通信使は慶長12年(1607)から
文化8年(1811)までの計12回。将軍の代替わりや世継ぎの
誕生を祝って来日しましたが、両国は国をあげての交流を、
朝鮮王朝側は通信使みずからの回想録や絵師による絵画、徳川幕府は
御用画家や町の絵師に命じて記録させました。総勢504名からなる
善隣友好のシンボル、朝鮮通信使の往復6ヶ月の旅がはじまりました。

(朝鮮通信使の行程)





















漢城(ソウル)を出発して陸路釜山にむかい、海峡をわたって対馬に到着すると、藩主宗氏がのる御座船を先導に、対馬藩の船が40隻(対馬藩士800人)が随行して、本州へむかいます。
朝鮮通信使を先導しての江戸までの往復の案内警護は、対馬藩にとっては諸大名へのデモステレーション道中であり、その年は参勤交代も免除されました。

(鞆の浦に入港する通信使船団図屏風)


享保4年(1719)第9回通信使の製述官(公文書など作成)・申維翰(シンユハン)が、壱岐にむかう通信使船団を見て「あたかも一島が空になったような感じ」と感嘆しました。壱岐をへて筑前に渡り、新宮沖の藍島(相島)に到着しました。福岡の黒田藩は52万石のメンツをかけて、動員された船50隻、船頭、水夫3600人、新設された建物24軒と、膨大な経費と人力を投入しました。

(通信使船団図屏風ー部分)


黒田藩が200年間なぜ博多港から11キロ離れた藍島に通信使接待の場を設けたのか疑問が残りました。博多の城下には黒田長政によって連行された朝鮮人の居留地(唐人町)があったからではないかと言われています。藍島では第10回の寛延元年(1748)の通信使滞在中には、黒田藩の儒学者貝原益軒が、甥や門人を伴い通信使と密度の濃い交流を行いました。

(朝鮮通信使船団図屏風その1)


藍島を出発した通信使船団は関門海峡をめざして北上し、やがて豊前小倉藩の送迎船があらわれて福岡藩と交代します。小倉藩の船団は関門海峡の中ほどで、長州藩にバトンタッチして、日本本土の上陸地赤間関(下関)に到着。通信使が宿泊した阿弥陀寺は現在の赤間神宮。

(朝鮮人御饗応七・五・三膳部図)


大型の朝鮮船6隻を曳航するため、長州藩は各浦から船舶を集め警護に努めました。水軍の村上氏が海上責任者とされ、彦島や巌流島から、安芸の下蒲刈島(しもかまかりしま)までの警護と通信使船曳航のリハーサルを入念におこないました。通信使の接待で最も心をくだいたのが御馳走のメニューでした。対馬藩を通して通信使の好物のリストを入手し、「牛、猪、鹿、豚、鶏、雉、鯛、鮑」などが用意され、内臓の調理方法やキムチの漬け方など料理に工夫がされました。

「通信使船上関来航図」田能村竹田画


次の寄港地、上関(かみのせき)は毛利藩の直轄地で周防灘の三関の一つで交通の要衝でした。通信使の一行は海の本陣である用意された宿館に入りましたが、岩国藩士や対馬藩士の宿舎は町屋にふり当てられたため、島民は山中に臨時の仮屋を建ててくらす不便に耐えました。
上関でもこれまでと同じように、岩国の儒学者との交流があり、一般の町人や漁民も熱狂的に通信使の書を求めました。

(長府藩の川御座舟)


安芸の下蒲刈島は徳川幕府の成立によって整備された港で、12回の通信使の往復のうち11回寄港していますが、通信使500人、対馬藩、広島藩の関係者4000人の来島は、島が沈むと表現されたほどで、経済的負担も膨大でしたが失礼や事故のないように気をつかいました。




広島藩では、通信使の来日が決まると到着5ヶ月前から接待のための準備にとりかかります。まず「御馳走所絵図」にもとづいて大工を送り込み、迎賓館の「御茶屋」の改修にとりかかり、接待の酒菓子奉行蝋燭奉行、賄い青物奉行、活蓄・活鳥奉行の総勢759人が島に渡り専念しました。心を込めた料理は正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使をして「天和度(1682)安芸下蒲刈島御馳走一番」と言わしめるほどでした。



次の寄港地、広島県福山市の備後灘にせり出した半島の南端に位置する鞆の浦は、天然の良港で、鞆の浦の高台に建てられた「対潮楼」は通信使のための迎賓館でした。上記の絵は近年現われた絵で、正徳元年の通信使船団を描いたものと言われています。

(朝鮮通信使御楼船団図屏風)


船団は朝鮮の外洋船に水先案内や警護の船が1000隻を超え、沿岸の人々にとってはめったに見ることのできない華やかな光景に、江戸時代中期の代表的な俳人・与謝野蕪村は、「高麗船(こまぶね)のよらで過ぎ行く霞かな」と詠んでいます。

(牛窓の唐子踊り)

岡山の牛窓(うしまど)も古来潮まち港として栄え、良質の水が出るので通信使の船団も度々補給を受けていました。港々での通信使の一行とさまざまな交流により、牛窓に伝わる「唐子踊り」は、滞在期間2週間におよんだ通信使の置き土産といわれています。

(小童)


正使、副使、従事官には身のまわりを世話する小童(しょうどう、日本の小姓)が毎回十数人いて、多芸多才の持ち主の彼らは、正使たちの旅の退屈を慰めるために楽隊に演奏させ、「小童対舞」を舞いました。そのたびに黒山の人垣が作られ、みんなが楽しみました。

各地の朝鮮通信使の風流が消えてしまった今日では、通信使の置き土産として人気が高まっており、保存会の人々の熱心な努力で若い世代にうけつがれているようです。


「通信使室津湊御船備図屏風」
近年出現した上記の地図屏風は、室津湾の地形を真上から正確に描いていて、港の風景も克明に描かれた珍しいものです。港内をうめつくした姫路藩の水軍の船は、全船団の三分の一にすぎず、入りきれない船は港外に停泊しました。この室津沖では見物船が無数にあり、そのうちの1隻が朝鮮船に接近しすぎて転覆、救助されると言うことがありました。
船に近よることは厳しく禁止されていましたが、お触れも上の空で似たような事件が前後して度々起きていました。


(朝鮮通信使国書船団図屏風その1)
瀬戸内海第一級の外交都市、兵庫津は大船団を迎えるに当たって、尼崎藩をはじめ大阪町奉行所の役人たち関係者1万人で、人口は3万人にふくれあがっていました。兵庫津では接待用に六甲山地で28回におよぶ猪狩がおこなわれました。通信使船団は尼崎藩の数百隻の案内警護船に守られて大阪港に到着。


(朝鮮通信使船団図屏風その2)
大阪は朝鮮通信使にとっては、豊臣秀吉の居城の地として忘れることのできない土地でした。同時に繁栄していた大阪の町々や、着飾った人々の印象も強烈でした。吃水のふかい朝鮮船から幕府が用意した「御楼船」にのりかえ、諸大名の川御座船が続き、総数150隻の船団が淀川を上っていきました。


(朝鮮通信使船団図屏風その3)
黄金でおおわれた川御座船の櫓をこぐ水夫たちのそろいの亀甲紋の衣装を見たとき、通信使の一行は日本側の心遣いに心がなごみました。亀甲紋は古くから長寿をあらわす、おめでたい紋様として使われていました。
信(よしみ)を通わす朝鮮通信使には最大級のもてなしとして、館を設けた川御座船が用意され、左右から数千人の綱引き人足にひかれてゆっくり進んで行きました。


(朝鮮通信使船団図屏風その3の部分)
国書先導船を先頭に、水路さらえを終えた淀川を朝鮮通信使の大船団が
進むにつれ、川の両側には近郷近在から30万を超える人々で立錐の余地もないほどでした。裕福な町人たちは川べりに毛氈を敷いてお弁当持参でくつろぎ、着飾った女性たちなどで大賑わいでした。
川御座船を用意した諸大名は、この記念すべき国際交流を絵師に描かせ家宝としました。


(朝鮮通信使国書船団図屏風その2)
大坂の民衆にとって人気の高いのが朝鮮の楽隊で、朝鮮船上で日本にはないさまざまな楽器で音楽が演奏されると、日本船のこぎ手は船歌でこたえ、両岸の観客は異国の文化に陶酔しました。通信使の楽隊は行く先々で大好評でした。


(朝鮮通信使船団図屏風その3の部分)
通信使一行の行く先々で、その宿舎には学問や風雅の道を志す人々が押しかけ、通信使との面会をもとめました。中でも大阪は他の地方の何倍もこのような人が多かったと記録されています。会話は筆談で漢字でおこなわれましたが、漢文の実力は朝鮮側の方が格段に上であったと言われています。

朝鮮王朝では1415年には日本との 交流のため日本語通訳を養成する役所をもうけ、質の高い日本語通訳を育てていました。日本側が本格的に朝鮮語通訳を育て始めるのは300年もたってからでした。

(伊達家の川御座船での抹茶の接待)
大阪で数日滞在した通信使の一行は、ふたたび絢爛豪華な川御座船で淀川をさかのぼり、淀に向かいました。大小の随行船にかこまれた国書船、正使船、上々官船などのきらびやかな御座船が、異国の音楽の流れるなかをゆっくりと進む光景は一幅の絵のようでした。

船内で一行は抹茶をふるまわれ、朝鮮の茶碗が日本で珍重されていることを知って感激するなど、終始なごやかな雰囲気に包まれたと言われています。釜山から海路、対馬をへて瀬戸内海を航行してきた通信使の長い船旅も京の淀で終わり、これより陸路を都にむかいます。


朝鮮通信使その一・その二の参考資料

朝鮮通信使絵図集成     辛基秀(シンギス)講談社
朝鮮通信使の旅日記     辛基秀    PHP研究所
わが町に来た朝鮮通信使   辛基秀    明石書店
図説朝鮮通信使の旅     辛基秀    明石書店
仲 尾 宏

辛基秀と朝鮮通信使の時代  上野敏彦   明石書店
日本・コリア交流の歴史   高麗博物館  明石書店

Saturday, February 22, 2014

Unmasking Horror -- A special report.; Japan Confronting Gruesome War Atrocity By NICHOLAS D. KRISTOF

http://www.nytimes.com/1995/03/17/world/unmasking-horror-a-special-report-japan-confronting-gruesome-war-atrocity.html?pagewanted=all&src=pm

Unmasking Horror -- A special report.; Japan Confronting Gruesome War Atrocity
By NICHOLAS D. KRISTOF
Published: March 17, 1995
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He is a cheerful old farmer who jokes as he serves rice cakes made by his wife, and then he switches easily to explaining what it is like to cut open a 30-year-old man who is tied naked to a bed and dissect him alive, without anesthetic.

"The fellow knew that it was over for him, and so he didn't struggle when they led him into the room and tied him down," recalled the 72-year-old farmer, then a medical assistant in a Japanese Army unit in China in World War II. "But when I picked up the scalpel, that's when he began screaming.

"I cut him open from the chest to the stomach, and he screamed terribly, and his face was all twisted in agony. He made this unimaginable sound, he was screaming so horribly. But then finally he stopped. This was all in a day's work for the surgeons, but it really left an impression on me because it was my first time."

Finally the old man, who insisted on anonymity, explained the reason for the vivisection. The Chinese prisoner had been deliberately infected with the plague as part of a research project -- the full horror of which is only now emerging -- to develop plague bombs for use in World War II. After infecting him, the researchers decided to cut him open to see what the disease does to a man's inside. No anesthetic was used, he said, out of concern that it might have an effect on the results.
That research program was one of the great secrets of Japan during and after World War II: a vast project to develop weapons of biological warfare, including plague, anthrax, cholera and a dozen other pathogens. Unit 731 of the Japanese Imperial Army conducted research by experimenting on humans and by "field testing" plague bombs by dropping them on Chinese cities to see whether they could start plague outbreaks. They could.

A trickle of information about the program has turned into a stream and now a torrent. Half a century after the end of the war, a rush of books, documentaries and exhibitions are unlocking the past and helping arouse interest in Japan in the atrocities committed by some of Japan's most distinguished doctors.

Scholars and former members of the unit say that at least 3,000 people -- by some accounts several times as many -- were killed in the medical experiments; none survived.

No one knows how many died in the "field testing." It is becoming evident that the Japanese officers in charge of the program hoped to use their weapons against the United States. They proposed using balloon bombs to carry disease to America, and they had a plan in the summer of 1945 to use kamikaze pilots to dump plague-infected fleas on San Diego.

The research was kept secret after the end of the war in part because the United States Army granted immunity from war crimes prosecution to the doctors in exchange for their data. Japanese and American documents show that the United States helped cover up the human experimentation. Instead of putting the ringleaders on trial, it gave them stipends.

The accounts are wrenching to read even after so much time has passed: a Russian mother and daughter left in a gas chamber, for example, as doctors peered through thick glass and timed their convulsions, watching as the woman sprawled over her child in a futile effort to save her from the gas. The Origins Ban on Weapon Entices Military

Japan's biological weapons program was born in the 1930's, in part because Japanese officials were impressed that germ warfare had been banned by the Geneva Convention of 1925. If it was so awful that it had to be banned under international law, the officers reasoned, it must make a great weapon.

The Japanese Army, which then occupyied a large chunk of China, evicted the residents of eight villages near Harbin, in Manchuria, to make way for the headquarters of Unit 731. One advantage of China, from the Japanese point of view, was the availability of research subjects on whom germs could be tested. The subjects were called marutas, or logs, and most were Communist sympathizers or ordinary criminals. The majority were Chinese, but many were Russians, expatriates living in China.

Takeo Wano, a 71-year-old former medical worker in Unit 731 who now lives here in the northern Japanese city of Morioka, said he once saw a six-foot-high glass jar in which a Western man was pickled in formaldehyde. The man had been cut into two pieces, vertically, and Mr. Wano guesses that he was Russian because there were many Russians then living in the area.

The Unit 731 headquarters contained many other such jars with specimens. They contained feet, heads, internal organs, all neatly labeled. "I saw samples with labels saying 'American,' 'English' and 'Frenchman,' but most were Chinese, Koreans and Mongolians," said a Unit 731 veteran who insisted on anonymity. "Those labeled as American were just body parts, like hands or feet, and some were sent in by other military units."

There is no evidence that Americans were among the victims in the Unit 731 compound, although there have been persistent but unproven accusations that American prisoners of war in Mukden (now Shenyang) were subject to medical experimentation.

Medical researchers also locked up diseased prisoners with healthy ones, to see how readily various ailments would spread. The doctors locked others inside a pressure chamber to see how much the body can withstand before the eyes pop from their sockets.

Victims were often taken to a proving ground called Anda, where they were tied to stakes and bombarded with test weapons to see how effective the new technologies were. Planes sprayed the zone with a plague culture or dropped bombs with plague-infested fleas to see how many people would die.

The Japanese armed forces were using poison gas in their battles against Chinese troops, and so some of the prisoners were used in developing more lethal gases. One former member of Unit 731 who insisted on anonymity said he was taken on a "field trip" to the proving ground to watch a poison gas experiment.

A group of prisoners were tied to stakes, and then a tank-like contraption that spewed out gas was rolled toward them, he said. But at just that moment, the wind changed and the Japanese observers had to run for their lives without seeing what happened to the victims.

The Japanese Army regularly conducted field tests to see whether biological warfare would work outside the laboratory. Planes dropped plague-infected fleas over Ningbo in eastern China and over Changde in north-central China, and plague outbreaks were later reported.

Japanese troops also dropped cholera and typhoid cultures in wells and ponds, but the results were often counterproductive. In 1942 germ warfare specialists distributed dysentery, cholera and typhoid in Zhejiang Province in China, but Japanese soldiers became ill and 1,700 died of the diseases, scholars say.

Sheldon H. Harris, a historian at California State University in Northridge, estimates that more than 200,000 Chinese were killed in germ warfare field experiments. Professor Harris -- author of a book on Unit 731, "Factories of Death" (Routledge, 1994) -- also says plague-infected animals were released as the war was ending and caused outbreaks of the plague that killed at least 30,000 people in the Harbin area from 1946 through 1948.

The leading scholar of Unit 731 in Japan, Keiichi Tsuneishi, is skeptical of such numbers. Professor Tsuneishi, who has led the efforts in Japan to uncover atrocities by Unit 731, says that the attack on Ningbo killed about 100 people and that there is no evidence of huge outbreaks of disease set off by field trials. The Tradeoff Knowledge Gained At Terrible Cost

Many of the human experiments were intended to develop new treatments for medical problems that the Japanese Army faced. Many of the experiments remain secret, but an 18-page report prepared in 1945 -- and kept by a senior Japanese military officer until now -- includes a summary of the unit's research. The report was prepared in English for American intelligence officials, and it shows the extraordinary range of the unit's work.

Scholars say that the research was not contrived by mad scientists, and that it was intelligently designed and carried out. The medical findings saved many Japanese lives.

For example, Unit 731 proved scientifically that the best treatment for frostbite was not rubbing the limb, which had been the traditional method, but rather immersion in water a bit warmer than 100 degrees -- but never more than 122 degrees.

The cost of this scientific breakthrough was borne by those seized for medical experiments. They were taken outside in freezing weather and left with exposed arms, periodically drenched with water, until a guard decided that frostbite had set in. Testimony from a Japanese officer said this was determined after the "frozen arms, when struck with a short stick, emitted a sound resembling that which a board gives when it is struck."

A booklet just published in Japan after a major exhibition about Unit 731 shows how doctors even experimented on a three-day-old baby, measuring the temperature with a needle stuck inside the infant's middle finger.

"Usually a hand of a three-day-old infant is clenched into a fist," the booklet says, "but by sticking the needle in, the middle finger could be kept straight to make the experiment easier." The Scope Other Experiments On Humans

The human experimentation did not take place just in Unit 731, nor was it a rogue unit acting on its own. While it is unclear whether Emperor Hirohito knew of the atrocities, his younger brother, Prince Mikasa, toured the Unit 731 headquarters in China and wrote in his memoirs that he was shown films showing how Chinese prisoners were "made to march on the plains of Manchuria for poison gas experiments on humans."

In addition, the recollections of Dr. Ken Yuasa, 78, who still practices in a clinic in Tokyo, suggest that human experimentation may have been routine even outside Unit 731. Dr. Yuasa was an army medic in China, but he says he was never in Unit 731 and never had contact with it.

Nevertheless, Dr. Yuasa says that when he was still in medical school in Japan, the students heard that ordinary doctors who went to China were allowed to vivisect patients. And sure enough, when Dr. Yuasa arrived in Shanxi Province in north-central China in 1942, he was soon asked to attend a "practice surgery."

Two Chinese men were brought in, stripped naked and given general anesthetic. Then Dr. Yuasa and the others began practicing various kinds of surgery: first an appendectomy, then an amputation of an arm and finally a tracheotomy. After 90 minutes, they were finished, so they killed the patient with an injection.

When Dr. Yuasa was put in charge of a clinic, he said, he periodically asked the police for a Communist to dissect, and they sent one over. The vivisection was all for practice rather than for research, and Dr. Yuasa says they were routine among Japanese doctors working in China in the war.

In addition, Dr. Yuasa -- who is now deeply apologetic about what he did -- said he cultivated typhoid germs in test tubes and passed them on, as he had been instructed to do, to another army unit. Someone from that unit, which also had no connection with Unit 731, later told him that the troops would use the test tubes to infect the wells of villages in Communist-held territory. The Plans Taking the War To U.S. Homeland

In 1944, when Japan was nearing defeat, Tokyo's military planners seized on a remarkable way to hit back at the American heartland: they launched huge balloons that rode the prevailing winds to the continental United States. Although the American Government censored reports at the time, some 200 balloons landed in Western states, and bombs carried by the balloons killed a woman in Montana and six people in Oregon.

Half a century later, there is evidence that it could have been far worse; some Japanese generals proposed loading the balloons with weapons of biological warfare, to create epidemics of plague or anthrax in the United States. Other army units wanted to send cattle-plague virus to wipe out the American livestock industry or grain smut to wipe out the crops.

There was a fierce debate in Tokyo, and a document discovered recently suggests that at a crucial meeting in late July 1944 it was Hideki Tojo -- whom the United States later hanged for war crimes -- who rejected the proposal to use germ warfare against the United States.

At the time of the meeting, Tojo had just been ousted as Prime Minister and chief of the General Staff, but he retained enough authority to veto the proposal. He knew by then that Japan was likely to lose the war, and he feared that biological assaults on the United States would invite retaliation with germ or chemical weapons being developed by America.

Yet the Japanese Army was apparently willing to use biological weapons against the Allies in some circumstances. When the United States prepared to attack the Pacific island of Saipan in the late spring of 1944, a submarine was sent from Japan to carry biological weapons -- it is unclear what kind -- to the defenders.

The submarine was sunk, Professor Tsuneishi says, and the Japanese troops had to rely on conventional weapons alone.

As the end of the war approached in 1945, Unit 731 embarked on its wildest scheme of all. Codenamed Cherry Blossoms at Night, the plan was to use kamikaze pilots to infest California with the plague.

Toshimi Mizobuchi, who was an instructor for new recruits in Unit 731, said the idea was to use 20 of the 500 new troops who arrived in Harbin in July 1945. A submarine was to take a few of them to the seas off Southern California, and then they were to fly in a plane carried on board the submarine and contaminate San Diego with plague-infected fleas. The target date was to be Sept. 22, 1945.

Ishio Obata, 73, who now lives in Ehime prefecture, acknowledged that he had been a chief of the Cherry Blossoms at Night attack force against San Diego, but he declined to discuss details. "It is such a terrible memory that I don't want to recall it," he said.

Tadao Ishimaru, also 73, said he had learned only after returning to Japan that he had been a candidate for the strike force against San Diego. "I don't want to think about Unit 731," he said in a brief telephone interview. "Fifty years have passed since the war. Please let me remain silent."

It is unclear whether Cherry Blossoms at Night ever had a chance of being carried out. Japan did indeed have at least five submarines that carried two or three planes each, their wings folded against the fuselage like a bird.

But a Japanese Navy specialist said the navy would have never allowed its finest equipment to be used for an army plan like Cherry Blossoms at Night, partly because the highest priority in the summer of 1945 was to defend the main Japanese islands, not to launch attacks on the United States mainland.

If the Cherry Blossoms at Night plan was ever serious, it became irrelevant as Japan prepared to surrender in early August 1945. In the last days of the war, beginning on Aug. 9, Unit 731 used dynamite to try to destroy all evidence of its germ warfare program, scholars say. The Aftermath No Punishment, Little Remorse

Partly because the Americans helped cover up the biological warfare program in exchange for its data, Gen. Shiro Ishii, the head of Unit 731, was allowed to live peacefully until his death from throat cancer in 1959. Those around him in Unit 731 saw their careers flourish in the postwar period, rising to positions that included Governor of Tokyo, president of the Japan Medical Association and head of the Japan Olympic Committee.

By conventional standards, few people were more cruel than the farmer who as a Unit 731 medic carved up a Chinese prisoner without anesthetic, and who also acknowledged that he had helped poison rivers and wells. Yet his main intention in agreeing to an interview seemed to be to explain that Unit 731 was not really so brutal after all.

Asked why he had not anesthetized the prisoner before dissecting him, the farmer explained: "Vivisection should be done under normal circumstances. If we'd used anesthesia, that might have affected the body organs and blood vessels that we were examining. So we couldn't have used anesthetic."

When the topic of children came up, the farmer offered another justification: "Of course there were experiments on children. But probably their fathers were spies."

"There's a possibility this could happen again," the old man said, smiling genially. "Because in a war, you have to win."

Photo: Japan proposed using germ-war balloons against America. (From "Unit 731"/The Free Press) (pg. A1); Gen. Shiro Ishii, head of Unit 731. (pg. A12) Map shows the location of Harbin, China. (pg. A12)





Japan defeat of WW2

http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b839991132ddd10f3cfd31a740bb00

日本の敗戦

日本は大東亜戦争に敗北した。日本の都市は焼け野原と化し、無差別殺人で多くの一般市民が死亡した。



広小路本町交差点



名古屋大津通り



大阪城



九州百貨店

1945年(昭和20年)8月14日に日本政府が受諾通告したポツダム宣言により、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同年10月2日、総司令部が東京に設置された。

当時、占領軍の進駐に際し「男は去勢されて強制労働。女は慰安婦にされる」とうわさが立った。回覧版で「占領軍が上陸したら女性は下着を重ねてはいてその上にモンペを着用し兵隊の暴行に備えてください」との文章が回った地区もある。8月16日に婦女子の「疎開騒ぎ」が全国的に起こっている。

1945年8月18日、 RAA は、 東久邇稔彦首相と近衛文麿副総理、 外務大臣重光葵、 内務大臣山崎巌、 大蔵大臣津島寿一らが、 「日本婦女子の純潔が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれる」と心配し、 内務省による占領軍向け性的慰安施設の設置を指令、 この 「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」 という無電指令が、 内務省警保局長から全国の警察網に伝えられた。 これをうけて同年8月23日、警視庁の高乗保安課長が東京都の料理飲食業組合長宮沢浜次郎と総務部長渡辺政治を招き、「防波堤を作って婦女子を守りたい」 と協力を訴えたことに端を発する。

この日、 発表された警視庁の方針と計画の中に、 「できれば、 公娼・私娼・芸妓・酌婦、 料亭・旅館・ホテル・ダンスホールなどを一ヵ所にあつめて、 総合的な大歓楽街をつくってもらいたい」 とあり、 この時点でダンスホールのような娯楽施設と公娼や私娼といった売春施設の差異が明確に考えられておらず、 これらの存在を別個に切り離そうという警視庁の意向が弱いものであったことが窺える。
こうして同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。 RAA に対する接客とダンスホールの許可は第八軍軍用娯楽施設課長ウイルソン大佐が与えている。

占領軍の東京進駐は8月28日であった。RAAの一号店(小町園)の開店も同日である。

米軍が日本を占領した時、最初に進駐した神奈川県では、一ヶ月に何と
2千件もの「大きい男」による婦女暴行事件が起きた。「大きい男」とは米兵のことである。
連合国軍総司令部(GHQ)が、新聞検閲で米兵をそう表記するように命令したのだ。

米兵による婦女暴行事件の続発に驚愕したGHQは、既に日本政府から申し入れのあった、
米兵のための「慰安所」を急ぎ用意させる。

GHQの意を受けた政府は、1945年8月26日、特殊慰安施設協会
(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立。

内容は「一定地域に限定し」「従来の取り締まり基準に関わらず警察署長がこれを許可する」「日本人の利用を禁ずる」「性的慰安施設」「飲食施設」「娯楽場」などを種類とした。
大義名分は「良家の子女の防波堤」づくりであった。翌27日、施設第1号として
大森小町園が開設され、翌28日から米兵の乗ったジープが群がって行列を作った。

最初の犠牲者は開店の日に京浜急行の電車に飛びこみ自殺をした。「事務員募集」のうたい文句と高収入に応募した十九歳の女性が非人間的な売春の事実に耐えきれなかったのだ。
「始めにきた30人の人は2~3ヶ月の内に気が違ったり病気になったりして半分になってしまった」(「占領軍慰安所」井上節子著)

政府は、この日以降、東京に3カ月間で25カ所の施設を設置し、慰安婦は1,600人に及んだ。
この慰安婦たちの大半は、焼けたり潰れたりした工場で働いていた、農村出身のうら若き女工たちだった。 この、敗戦直後に慰安婦として働かざるをえなかった農村出身のうら若き女工たちの経験は悲劇ではないのか???

東京の慰安所は、将校用が向島・芳町・白山。白人用が吉原・新宿・千住。

黒人用が亀戸、新小岩、玉ノ井となっていた。

都内13ヶ所、そのうち7箇所が大森・大井地域にあった。


















そして慰安婦より酷い事件では、米国系差別主義者らが沖縄人の少女2000名以上を民家を強襲して強姦の限りをつくした。これはさらに戦後であるからにして驚く。

War Guilt Information Program 

戦争への罪悪感を日本人の心に植え付けるための、GHQによる洗脳政策。


【検閲指標】


「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として30項目からなる検閲指標が纏められ、連合国批判、

東京裁判批判に繋がる一切の言論は封じ込められた。


1) SCAP〓連合国最高司令官(司令部)に対する批判

2) 極東軍事裁判批判

3) SCAPが憲法を起草した事に対する批判。

4) 検閲制度への言及

5) 合衆国に対する批判

6) ソ連に対する批判

7) 英国に対する批判

8) 朝鮮人に対する批判

9) 中国に対する批判

10)他の連合国に対する批判

11)連合国一般に対する批判

12)満州における日本人取り扱いについての批判

13)連合国の戦前の政策に対する批判

14)第三次世界大戦への言及

15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及

16)戦争擁護の宣伝

17)神国日本の宣伝

18)軍国主義の宣伝

19)ナショナリズムの宣伝

20)大東亜共栄圏の宣伝

21)その他の宣伝

22)戦争犯罪人の正当化及び擁護

23)占領軍兵士と日本人女性との交渉への言及

24)闇市の状況

25)占領軍軍隊に対する批判

26)飢餓の誇張

27)暴力と不穏の行動の扇動

28)虚偽の報道

29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及

30)解禁されていない報道の公表


日本の国民に愛国心を持たせず、戦争への憎悪を植え付けるための様々なプログラムの一つとしてこの検閲指標が作成され実行された。

その命令を全面的に受け入れたことで、あれほど大本営発表を垂れ流した各新聞やラジオが、潰されずそのまま営業を続けることが許されたのである。

そして日本にとって最大の不幸は、その為の監視として日本語を話せるという理由から、GHQが在日朝鮮人を使ったことだった。警察、検察、官庁、マスメディアなどに在日朝鮮人を入れ、日本へ帰化を促した。

戦後駅前の一等地がいつの間にか在日朝鮮人の所有となっていた謎が、このことによって解けるはずである。

1945(昭和20)年12月31日、民間情報教育局は、修身、国史、地理の授業を即時中止するよう指令し、翌年4月、文部省は、新聞連載終了後に単行本として刊行された『太平洋戦争史』を、国史等授業停止中の教材として使用するよう通達した。

10万部の『太平洋戦争史』は教育現場に浸透し、戦後の日本に深刻な影響力を及ぼすのであった。


戦後日本のマスコミや知識人の多くが日教組の「マルクス主義」に洗脳されて社会主義・共産主義を聖なる理想としてきた。この人達をアメリカ占領軍が利用した。

アメリカは日本を再興させてはならないという強い意思で日本国内に対立させる一派を育てたのである。ソ連が日本の左翼を育てるのなら話は分かりやすいのだが、資本主義国家アメリカが日本の左翼を太らしたのだ。

アメリカは日本国民が一致団結するととんでもない力を発揮することをこの大戦で知った、だから日本人を分断さすために日教組を利用して「日本帝国主義はアジアに進出して残虐の限りをつくし、アジア人民を虐げた」と教えさせたのである。

アメリカは決して表に出ないまま「マルクス主義の階級闘争史観」というイデオロギー染まった人たちに資金を提供しました。

アメリカは彼らに直接資金を提供せずに在日韓国人たちが組織する民団や朝鮮総連に資金をだして、在日韓国人と日本の左翼を結びつけたのだ。

この戦略はアメリカが期待した以上に思わぬ効果を発揮しだした。日本の愚かな左翼たちは「進歩的文化人」と称され、反国家の姿勢をとり、反日の構えを見せ、自分の国を非難し、自分の国の過去と現在を攻撃した。

戦後この進歩的文化人たちは必然的に言論界・マスコミ界・教育界の主導権を握っていった。

いわゆる朝日新聞を筆頭に日教組、テレビ局、大学などである。これらの業界に左翼思想を持った連中だけでなく日本国籍をとった多くの在日韓国人が入り、左翼と連合して日本国に害毒を垂れ流し続けた。

これらを意図したアメリカ占領軍は、日本人がすすんで日本人や日本国の悪口を言うのだから、そのあまりの効果に驚いたはずである。

形式上は進駐軍が引き上げGHQも日本の国から撤退したと日本国民は誤解しているが、横田基地にCIAの本部が存在し、そこから米国の民間航空会社が戦後ずっと米国内の空港へ民間機を飛ばしている。勿論昔から米国軍人やその家族などがビザなしで飛ぶことが出来る。

しかも米国大使館には現在も「日本管理委員会」が存在する。

米軍基地が存在しGHQがCIAに変わっただけで、現在も官僚、検察に政治家、マスメディアをコントロールしている。なぜ横田基地なのか位置を考えれば十分理解できるのだが、横田基地内の詳細図は、日本の地図帳には大まかなものしか記載されてはいない。

終戦当時、進駐軍や在日朝鮮人による夥しい強姦事件、暴力事件、殺人事件が発生した。

7年の占領期間中には2536件の殺人と3万件の強姦事件を起こしている。更に驚くことにそのいずれの犯人も罪に問われた者がいない。

しかし、このGHQの検閲で全く新聞やラジオで取り上げられることは無かった。日本人はこの消し去られた事件を耳にしても、「そんな事件が有れば、当然新聞にも載るだろうしラジオでも放送するだろう。嘘を流すんじゃない!」と逆に非難した。

そのメディア絶対主義は、このインターネットの普及した現代でも続いている。余程真実を知ることが怖いのだろう。知らなければ、部外者で居られるとでも思っているのであろうか。

2007年6月  第二次世界大戦中の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府を追及する決議案が米下院外交委員会で採択された。慰安婦制度は日本政府による強制売春だったと判定し、事実と歴史的責任を認めて謝罪するよう促している。

進駐軍のしたことは総て無かったことになり、終戦時の連合軍による東京裁判でも「日本の軍部による強制的な従軍慰安婦は立証すべき証拠が見当たらなかった」とされた、戦時中の日本軍に対する非難決議が採択された。それをまた韓国が、米国に再度非難するよう訴えている。

横田基地司令部と在日米軍司令部の前には、日米両国の国旗に加え国連旗が掲揚されている。横田が米軍基地であるとともに国連軍の基地であることを象徴している。

ここで言う国連軍は、朝鮮戦争で北朝鮮・中国(・ソ連)と戦った国連軍。国連安全保障理事会による決議に基づき、アメリカ、韓国、カナダ、イギリス、オーストラリア、フィリピン、ニュージーランドなど17カ国が参加した連合軍のこと。朝鮮戦争は現在も休戦状態であるため、活動を縮小しているが、再開されれば、日本との事前協議なしに自動的に国連軍の基地としての機能が復活する。

横田基地は現役の国連軍基地である。

横田飛行場には朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また、国連軍参加国のうち8ヶ国の在日大使館付駐在武官が参加する合同会議が3ヶ月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。

Friday, February 21, 2014

the records to escape from my memories,the fear in 1945-46 Korean Peninsula by Toru Shimizu

http://heartshuppan.sblo.jp/article/85891098.html

★「竹林はるか遠く」につづく衝撃の引き揚げ体験記。終戦時の朝鮮半島で何があったのか?少年は見た!耐えた!逃げた!「忘却のための記録」(清水徹著)ハート出版から発売。




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「竹林はるか遠く」を出版して間もないころのことだ。


編集担当者が、鄭大均(てい たいきん)氏(首都大学東京・特任教授)から終戦時の朝鮮脱出記なら、こういう隠れた良書がありますよ」とある書籍をわたされた。


少し赤茶けた新書版であった。


「忘却のための記録」という題名で、愛知県にある老舗の版元・精文館書店から昭和55年に刊行されたもので絶版になっていた。


担当者が読んで感動したというので社内で回し読みが始まった。


この本の著者は、「竹林」のヨーコさん家族と同じで終戦時に朝鮮の羅南(らなん)に住んでいた。当時小学校6年生だったヨーコさんよりちょっと上、羅南公立中学校の3年生。


つまり今度は当時の少年の目から見た壮絶な終戦時の朝鮮半島脱出記である。


息が詰まるような命がけの体験の連続である。ソ連軍の爆撃から始まり、復讐、襲撃、略奪、強姦、飢餓、極寒、病気、そして38度線の脱出――たとえようのない凄惨な記録をありありと描写している。

「・・・ある屋敷から朝鮮人が荷車を引いて出てくのを見た。


車には家具類はもちろん、マキの類から漬物ダルまで積まれていた。白昼の公然たる泥棒――しかし訴えるべき警察はいない。そう知ると、急に恐ろしさを感じた。どこを見回してもぼくの味方らしいものはいない。これまで、ぼくはどんなところにいても、こんな恐ろしさを感じたことはなかった。それを意識するとしないかかわらず、警察が厳として存在し、大日本帝国という国家権力があったからではなかったろうか――。


しかし、現実は無警察状態にあり、大日本帝国は少しもぼくたちの頼りになりそうもない。ぼくはそのとき、目に見えない国家権力の力がその民族にとってどんなに大切なものであるかをつくづく思い知らされた(本文より)・・・」


読み出したら止まらない。涙なしには読めない内容だった。
主人公・トオル少年にとっては、忘れてしまいたい記録であるが、日本人だけでなく世界がわすれてならない戦争の記憶である。


すぐ弊社からの出版が決まった。今週末から書店に並び始める。



著者が描いた挿絵の一部
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◆「忘却のための記録」書いた著者・清水徹(しみず とおる)の略歴。

1930(昭和5)年、京城府錦町に生まれる。京城竜山小学校~清津国民学校を経て羅南中学3年時に終戦。城津、咸興で抑留生活、昭和21年5月、38度線を脱出。静岡県へ引き揚げる。


帰国後、三ヶ日実業学校を卒業。豊橋市の新聞人・杉田有窓子の知遇を得て「東三新聞」(現・「東日新聞」)に入社。34歳のときに結婚、一男一女をもうける。新聞記者の後、衆議院議員秘書として東京に移る。後に出版事業を経て、豊橋市に戻り、東三河開発懇話会常務理事・事務局長、東三河地域研究センター専務理事などを務める。


著書に『われらが豊川』(建設省中部地方建設局豊橋工事事務所、1986年)、『県境を越えた開発-「三遠南信トライアングル構想」から』(共著、日本放送出版協会、1989年)、『激動・昭和の豊橋』(編著、豊橋座談倶楽部、1991年)などがある。




詳しくは↓
忘却のための記録 1945-46恐怖の朝鮮半島」
http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-970-7.html
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◆この本の解説を書いていただいた鄭大均(ていたいきん)教授は、数々の著書で有名であるが、弊社では初めてなので、プロフィールを少し長いがフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。

鄭 大均(てい たいきん(정대균、チョン・ テギュンとも)、1948年 - )は、日本の学者。首都大学東京都市教養学部特任教授。専攻は東アジアのナショナル・アイデンティティ、日韓関係論、在日外国人。韓国系日本人。


人物[編集]岩手県生まれ。父親は1922年、当時の京城から東京にやってきた朝鮮人で、1923年に出版され、朝鮮人によって書かれた最初の日本語小説として知られる『さすらひの空』の著者である鄭然圭。母親は岩手県和賀郡黒沢尻町(現在の北上市)出身。結婚してしばらくは東京に住んでいたが、1944年に空襲を避けて岩手県に疎開。大均はその地で戦後に生まれた。岩手県立黒沢尻北高等学校、立教大学文学部および法学部を卒業。1973年から74年にかけてアメリカ合衆国東部で暮らす。1978年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校修士課程修了(M.A、アジア系アメリカ人研究)。履歴については自叙伝的作品である「在日の耐えられない軽さ」(中公新書)に詳しい。


米国から東京に戻り、英語学校で教えながら1980年頃から在日論を書き始める。その後70年代に東京で会った留学生・崔吉城の誘いを受け、慶南大学校師範学部(韓国馬山市)、東亜大学校人文学部(韓国釜山市)、啓明大学校外国学学部(韓国大邱市)で14年間教鞭をとる。


啓明大学校副教授から転じ、1995年に東京都立大学(現首都大学東京)人文学部に助教授として着任、1999年に教授、2013年3月に定年退職。同年11月から特任教授となる。2004年に日本に帰化。妻は韓国の大学教員。


妹は鄭香均。香均は、日本国籍でないことを理由に東京都の管理職選考試験の受験を拒否されたとして都を訴え、二審で一部勝訴(慰謝料支払のみ認定)するも、最高裁において(最大判平成17年1月26日民集59-1-128)敗訴が確定した(東京都管理職国籍条項訴訟)。これに関し、鄭大均は正論やニューズウィーク日本語版の誌上等で妹に苦言を呈している。


日韓関係を集団アイデンティティの視点から分析。従来の歴史・道徳史観濃厚の日韓関係論とは異質の議論を展開。在日韓国・朝鮮人論も、その被害者性を強調する従来の在日論とは異質の議論を展開している。在日コリアンに日本への帰化を勧めるとともに、韓国系日本人(元在日外国人)の立場から、永住外国人への地方参政権付与に反対し、国会で参考人招致を受けた際も反対論を展開している。
著書


日韓のパラレリズム――新しい眺め合いは可能か』(三交社, 1992年)/「韓国のナショナリズム」に改題、(岩波書店[岩波現代文庫], 2003年)
『韓国のイメ-ジ――戦後日本人の隣国観』(中央公論社[中公新書], 1995年)
『日本(イルボン)のイメ-ジ――韓国人の日本観』(中央公論社[中公新書], 1998年)
『在日韓国人の終焉』(文藝春秋[文春新書], 2001年)
『韓国ナショナリズムの不幸――なぜ抑制が働かないのか』(小学館][小学館文庫], 2003年)
『在日・強制連行の神話』(文藝春秋[文春新書], 2004年)
『在日の耐えられない軽さ』(中央公論新社[中公新書], 2006年)
『韓国のイメ-ジ――戦後日本人の隣国観 増補版』(中央公論社[中公新書], 2010年)
『姜尚中を批判する』(飛鳥新社, 2011年)
『韓国が「反日」をやめる日は来るのか』(新人物往来社, 2012年)
共編著[編集](川村湊)『韓国という鏡――戦後世代の見た隣国』(東洋書院, 1986年)
(古田博司)『韓国・北朝鮮の嘘を見破る――近現代史の争点30』』(文藝春秋[文春新書], 2006年)






http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-970-7.html


忘却のための記録
1945-46 恐怖の朝鮮半島
清水 徹 著 2014.01.24 発行
ISBN 978-4-89295-970-7 C0095 四六並製 296ページ 定価 1600円(本体 1680円)


少年は見た!耐えた!逃げた! 
ソ連参戦からはじまる爆撃、復讐、襲撃、
略奪、強姦、飢餓、極寒、病気そして脱出

「解説」(鄭 大均 首都大学東京特任教授)より一部抜粋

忘却のための記録
『忘却のための記録』の著者・清水徹は一九三〇年、現在のソウル市龍山区に生まれた「外地」二世である。徹の父はやがて朝鮮半島最北の咸境北道の機関区に勤務するようになり、避難行がはじまったとき徹は羅南中学三年生だった。本書はその避難行を著者が回顧的に綴った作品で、非業の死を遂げた同胞を哀悼するとともに、そのいまわしい思い出を拭い去るために書いたものだという。

引揚げ者のなかでも、ソ連軍占領地域からの引揚げ者には特有の困難と痛ましさがあった。
とりわけ大きな悲劇に見舞われたのは満州在住の日本人であったが、清水家のように、北朝鮮在住の日本人の運命も過酷であった。なによりも不運であったのは、引揚げが一年以上も先送りされ、出国の自由が奪われたということであろう。
それがやっと開始するのは四六年十二月に入ってからのことであるが、多くのものはそれ以前に自力脱出を試み、しかし、その行路で餓死・凍死・伝染病死で亡くなったものが三万五千人ほどもいる。
清水家の場合も無傷ではなかった。五人家族のうち、日本に無事たどり着いたのは四人で、父は、四六年二月二十日、咸興の収容所で亡くなっている。

本書に記されている引揚げ体験はもう半世紀以上も前のできごとであり、したがって忘れられて当然のことといってもよいが、しかし、これは日本人が経験した最後のグローバル体験といえるものであり、ここには今日の私たちの歴史観や世界観に資するところが少なくない。本書に記されている清水家の体験は、今日でいったら、内戦の過程で国外への脱出を余儀なくされた二百二十万人以上のシリア人難民や、貧困や内乱や干ばつに絶望してヨーロッパに向かうアフリカ人難民の体験に似通ったものであり、また北朝鮮が舞台というなら、これは今日いう「脱北者」の先駆けのような体験であった。

にもかかわらず、引揚げ者たちの体験は今やえらく矮小化されて眺められているのだなと思わされたのは、赤尾覺氏(『咸北避難民苦難記』著者)からある体験を聞かされたからである。
氏は最近、朝日新聞の取材を受けたが、北朝鮮地域で、なぜかくも多くの犠牲者が出たのかの問に、「餓死・凍死・伝染病死」と答えたところ、「炊き出しなど食料供給があり、衣料・寝具などの配給があるのに何故?」と反問され、絶句したという。「避難民とは、東日本大震災の被災者と同程度に考えているのだなと、がっくりきました」と氏はいう。

これではたしかにがっくりくるであろう。被災者といっても、東日本大震災の被災者が国民の支援に支えられているとしたら、北朝鮮からの引揚げとは、帝国崩壊の過程でいまや異郷となった戦場の地を逃げ惑う体験であり、収容所や避難所で生活するといっても、それは昼夜の別なくソ連兵が襲ってくる体験であり、家族や同居者が高熱にうなされ、土色の皮膚に変わり、ある日、ある一家が消えるように死んでいく体験であった。

そのような体験を東日本大震災の被災者と同程度のものと考えているとしたら、それはこの時代の被災者たちの体験を著しく矮小化している。というだけではなく、今日のシリア難民やアフリカ難民の体験をもその程度に眺められていることを暗示しているのであり、だとしたら、私たちは今や世界の人びととの共感帯を失いつつあるのではないか。

『忘却のための記録』に戻るが、この本は静の本というよりは動の本である。
たしかに同書には悲しみの記述があり、死の記述があり、やがて死に無感動になる記述がある。
しかし徹は「今日もおれは生きているぞ!」と命の力を感じる少年であり、生活に必要なものは何でも拾ってやろうと野良犬のように目を光らせて歩く少年であり、母を助けるためにソ連軍の司令部に残飯拾いに行く少年であり、また生きるために母の作ったかぼちゃ羊羹を道端で売る少年でもあった。

この本はなによりも、清水家の人々が不幸の合間に動き、働いていたことを教えてくれる本なのである。


目次

第一章 運命の岐路
一、ソ連軍、奇襲を開始
二、中学生も銃をとれ
三、母校よ、さらば
四、崩れた神国日本
五、敗戦とは何か
六、降参してもなお銃撃

第二章 亡国の民
一、日本人は早く帰れ!
二、朝鮮のものを盗むな
三、先頭部隊に捕えられて
四、老兵士の体臭
五、「蘇連邦万歳」
六、宿題も授業もなく

第三章 マダム・ダワイ
一、“男は皆殺し”
二、略奪始まる
三、血に飢えた囚人部隊
四、ノッポの兵隊
五、「メイファーズ」

第四章 民族受難
一、「裸にもどるさ」
二、無意味だった同化政策
三、ボロぎれのような避難民
四、責任者は前へ出ろ
五、復讐のムチはうなる

第五章 落ち穂
一、収容所の生活始まる
二、毒牙の犠牲者
三、しのびよる飢餓
四、乙女心と平和と……
五、朝鮮人民自身の朝鮮
六、洗脳

第六章 生存の条件
一、農家での労働
二、怨しゅうを超えて
三、栄養失調
四、死の訪れ
五、プライドとのたたかい
六、残飯と、反抗と、拷問と
七、夢みる“内地”
八、天皇の御代

第七章 この世の地獄
一、これこそ残虐行為だ
二、青春無惨
三、死骸はムシロにくるまれて
四、生か死か、強制隔離
五、世界一えらいお父さん
六、眉毛だけを残して
七、おにぎりが笑った
八、凍死体とビーナス
九、氷点下にシーツ一枚
十、 九死に一生を得て

第八章 早春の哀歌
一、生きるためには
二、咸興名物かぼちゃ羊羹
三、流浪の親友に出会って
四、ソ連軍と朝鮮の学生
五、春は公平にやってくる
六、蹴とばされた春の幸
七、屈辱の涙
八、日本人共同墓地

第九章 ああ、三十八度線
一、お前たち、死ね!というのか
二、文川からの脱出
三、山賊現わる
四、亡霊の行進
五、保安隊にもいじめられ
六、ある農家の温情
七、絶対絶命
八、おお、朝だ!

解説 鄭 大均